■吉原の花魁・誰袖とロシアをつなぐ点と線
田沼意次(渡辺謙)が側近である三浦庄司(原田泰造)の提案を受け、蝦夷地(北海道)を幕府の直轄領にして、ロシアと交易することを検討しはじめた。そして目的達成のために、いろいろな策を弄することになった――。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第21回「蝦夷桜上野屁音」(6月1日放送)では、そんな話が大きく展開したが、そこで意外にも強い存在感を示したのが花魁だった。福原遥が演じる大文字屋の誰袖である。
蝦夷地には金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が管轄している。だから、幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げる必要がある。そこで意次の嫡男の意知(宮沢氷魚)が、松前藩の「落ち度」を探すことになった。
意知がまず繰り出した場所は吉原だった。平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として紹介された、勘定組頭の土山宗次郎(柳俊太郎)が花見会を行うので、そこに参加したのだ。ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。
花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。彼女は土山の馴染みの女郎なのである。そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。
■五代目瀬川とはまったく違う性格
だが、「べらぼう」の誰袖は、土山の横にいながら花雲助こと田沼意知に見惚れ、そちらに近づこうとする。
意知は、松前藩の元勘定奉行でいまは藩を離れている湊源左衛門(信太昌之)との密談に熱中していた。湊からは、藩主の松前道廣(えなりかずき)が横暴のかぎりをつくし、藩としても抜け荷(密貿)をしている、という話を聞き出していた。その話を誰袖は、十文字屋の者に盗み聞きをさせていたのだ。
後日、田沼屋敷に呼ばれた土山は、意知に誰袖からの手紙を渡した。そこには折り入って話があるという旨が書かれていたので、意知はふたたび花雲助に扮して大文字屋に出向いた。すると誰袖は彼に、吉原に出入りする松前藩関係者や、松前藩の下で取引する商人の情報を提供する、と持ちかけた。
意知が「間者の褒美にカネがほしいということか」と問うと、誰袖はいった。「カネよりもっとほしいものがありんす。
誰袖という花魁、かなりの策士であり、一途だった瀬川(小芝風花)とくらべると、比較にならないほどしたたかである。もちろん、それは「べらぼう」というドラマに描かれた姿だが、史実の誰袖も状況証拠からすると、かなりしたたかだった可能性はある。
■伊藤淳史演じる市兵衛の意外な一面
誰袖が、それなりの教養が身についた花魁だったことは間違いない。
「べらぼう」の第21回でも、大文字屋の楼主、市兵衛(伊藤淳史)のもとで狂歌を詠む姿が映された。この市兵衛は病死した大文字屋市兵衛の後を継いだ同姓同名の2代目。初代の姪で養女になった女性の婿である。
じつは、この2代目市兵衛は、狂歌が大流行した天明年間(1781~89)を代表する狂歌師の一人としても知られる。狂名(狂歌を詠むときの号)を「加保茶元成(かぼちゃのもとなり)」といい、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)らとともに吉原連(「連」とは狂歌を詠む人たちのグループ)を結成し、みずから主宰したほどだった。
となれば、大文字屋を代表する花魁だった誰袖が、狂歌について楼主の手ほどきを受けていないほうが不自然だろう。誰袖の歌は天明3年(1783)、四方赤良(よものあから)、すなわち大田南畝(桐谷健太)らが編纂した『万歳狂歌集』に載っている。
わすれんと/かねて祈りし/紙入れの/などさらさらに/人の恋しき
忘れたいと祈っていても、彼からもらった紙入れを見ると、ますます恋しくなる、という恋の歌だ。誰袖に狂歌の素養があったのは間違いない。
■1億2000万円で身請け
実際、誰袖は花魁のなかでもランクが最上位の「呼出」だった。天明3年(1783)正月に蔦重が刊行した『吉原細見』には、「大もんじや市兵衛」のもとに所属する女郎として「たがそで」という名が記され、名前の右上に「よび出し」と書かれている。
この時代の女郎は、上位から順に「呼出」「昼三」「座敷持」「部屋持」などに分かれており、一般に呼出と昼三を花魁と呼んだ(座敷持を含めることもあった)。呼出と昼三は、妓楼の格子越しに並んで客をとる張見世をしなくてもよかった。指名を受けると禿や振袖新造らを率いて、引手茶屋まで仰々しく歩いてやってきた(花魁道中)。
そんな誰袖が一躍注目されたのは、彼女が「べらぼう」のなかで再三口にしている「身請け」が実現したときだった。
天明4年(1784)正月の『吉原細見』には「たがそで」という名がないから、彼女が身請けされたのは天明3年中だと考えられる。身柄を引き取ったのは田沼意知ではなく、「べらぼう」第21回で、誰袖のなじみ客として描かれた土山宗次郎だった。身請けにかかった金額は1200両(1億2000万円程度)だと伝えられている。
■史実における蝦夷地調査の流れ
土山は田沼意次の権勢下で台頭した旗本で、明和9年(1772)に意次が老中になったのち、安永5年(1776)に勘定組頭、すなわち、幕府の財政を管理する勘定所(いまの財務省および農水省)の大臣にあたる勘定奉行の下で組織を統括する役に抜擢された。
「べらぼう」の第21回で、三浦庄司が意次に、蝦夷地の開発とロシアとの交易を提言したのは、仙台藩の江戸詰藩医だった工藤平助が天明3年に、対ロシアの海防の重要性などを書いた『赤蝦夷風説考』を読んだ結果だった。じつは、三浦を介して、意次にこの書物を提出しようとしたのが土山だったとされる。
現実には、『赤蝦夷風説考』のことは、土山の上司で意次の側近でもあった松本秀持を介して田沼に進言され、その結果、土山が中心となって、天明4年(1784)には平秩東作らを、天明5年(1785)にも探検家の最上徳内ら何人かを、蝦夷地に調査に向かわせることになった。
まさにそんな最中に、土山は吉原に頻繁に通い、誰袖を身請けしたのである。脚本家はそこにヒントを得て、蝦夷地をめぐる駆け引きに加わり、自分が身請けされるようにしたたかに立ち回る誰袖像を創り上げたのだろう。
■逃亡の末に夫は斬首、そして…
史実の誰袖が、蝦夷地問題に関わったかどうかはわからない。わかっているのは、土山が大田南畝らとつるんで吉原に通い詰め、その結果、誰袖を1200両かけて身請けした、ということだけである。ただ、それは、土山が蝦夷地調査に邁進していたタイミングだったことは間違いなく、教養がある誰袖も、蝦夷やロシアに関する話を聞かされていたと考えるほうが自然だろう。
ちなみに、1200両という金額は、土山が大文字屋に渡した金額ではない。女郎を身請けするときは、祝儀を渡したり、祝宴を開いたりするのが一般的で、そのために総額は身請け金の2倍程度にふくらむことが珍しくなかった。いずれにせよ、これだけの金額を、武士の窮乏化が問題となっていたご時世に、一介の旗本が簡単に出せたとは思えない。
天明6年(1786)8月に田沼意次が失脚すると、蝦夷地開発計画も頓挫。そればかりか土山は公金横領の嫌疑をかけられ、その際、誰袖を高額で身請けしたことも問題になった。身請けをふくめた吉原遊びに横領した金を使った、という疑いをかけられたのである。
土山は平秩東作の庇護のもと、誰袖も一緒にいまの埼玉県所沢市に潜んだが、仕舞いには発見される。結局、武士でありながら切腹も許されず、天明7年(1787)12月に斬首されている。
蝦夷地の開発も、ロシアとの交易も、そして誰袖の身請けも、田沼時代の夢幻か。土山が斬首されたのちの誰袖の行方はまったくわからない。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)