6月4日と5日、天皇、皇后両陛下と長女の愛子さまが沖縄を訪問した。両陛下は即位後2回目で、愛子さまは初めての沖縄訪問となった。
神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「皇室と沖縄との間には、昭和天皇の時代からの特別な経緯がある。そして、敬宮殿下もご一緒だったという事実は、見逃せない重みがある」という――。
■天皇ご一家が沖縄への「慰霊の旅」
今年は戦後80年の節目の年に当たる。そのため、天皇皇后両陛下におかれては「慰霊の旅」を続けておられる。
4月の硫黄島へのお出ましに続いて、6月4・5両日にわたり、敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下もご一緒に、ご一家で沖縄県を訪れられた。この度の天皇ご一家による沖縄へのご訪問は、皇室の歴史にとっても大切な1ページになったのではあるまいか。
皇室と沖縄との間には、昭和天皇の時代からの特別な経緯があるからだ。
とくに、敬宮殿下もご一緒だった事実は、見逃せない重みがある。天皇陛下は今年のお誕生日に際しての記者会見で、次のようにおっしゃっていた。
「愛子にも、戦争によって亡くなられた方々や、苦難の道を歩まれた方々に、心を寄せていってもらいたいと思っています」と。
皇位が“世襲”によって継承されるべき最も本質的な理由は、特権の維持などではなく、“親から子”へと「精神」が確実に受け継がれることにあるはずだ。それを考えると、ご一家がおそろいで沖縄を訪問されることの重大さは、改めて述べるまでもない。

■愛子さまの所作の美しさ
今回のご一家によるお出ましは、公式の行事なので、天皇皇后両陛下は天皇旗を立てた御料車に乗られ、敬宮殿下は別のお召し車に乗られた。
そのため、お車によるご移動の後、先に敬宮殿下がお車から降りて御料車の近くに控えられ、両陛下がお車から降りられる場面では、深く頭を下げて迎えられた。この時の敬宮殿下の自然な所作の美しさが、多くの人に印象として強く残ったようだ。両陛下と殿下はもちろん、親子でいらっしゃる。それも類いまれなほど仲の良い親子と言える。
しかし天皇陛下は憲法上、唯一の「日本国および日本国民統合の象徴」という、国内で最も重いお立場にある。皇后陛下も、その天皇陛下を最もお近くでお支えすべき、陛下に次ぐ重いお立場でいらっしゃる。
その重いお立場に対して、たとえ親子であっても公的な場面では、成年皇族として最大限の敬意を表すというご自覚を、敬宮殿下がきちんと身につけておられることが無言のうちに伝わる。
このことは、たとえば宮中晩餐会などでのお姿を拝見しても、同じだ。敬宮殿下は他の皇族方よりも丁重に、陛下に正対され、深く頭を下げて迎えておられる。
■作法を少し改められた
なお、皇后陛下についても誤解がないように付言しておく。
平成時代には、御料車から降りられる場面で、上皇后陛下は同じお車から先に降りられて、この度の敬宮殿下のように頭を下げて、上皇陛下をお待ちになった。
ところが令和になって、天皇皇后両陛下はそうした形を少し改めておられる。
これは、両陛下のなさりようが、広く国民にも影響を及ぼしがちなので、旧時代式の男尊女卑的な連想を招きかねない作法は、価値観の変化も考えて改められたのではないか。
■昭和天皇のご無念
沖縄では、先の大戦で唯一住民をも巻き込んだ激しい地上戦があり、約11万人の将兵と10万人を超える県民が戦死している。さらに昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条約が発効し、本土で主権を回復した後も、長くアメリカ軍による軍政が続いた。
昭和天皇は、被占領下の昭和21年(1946年)から本土ではすでに主権が回復した同29年(1954年)にかけて、戦争に傷つき疲れた国民を慰め励まそうと、幾多の困難を乗り越えて全国を巡幸(じゅんこう)された。その総行程はじつに約3万3000キロ、お出ましの場所が1411カ所にも及んだ。
にもかかわらず、米軍統治下の沖縄だけは訪れることがかなわなかった。
このことが昭和天皇にとって、どれだけ心残りだったか。
しかし、昭和47年(1972年)に沖縄県が本土に復帰してから後も、戦争による犠牲が深刻であったことなどから、天皇、皇室に対する県民感情には複雑なものがあった。
昭和天皇のご訪問がやっと実現しそうになったのは、昭和62年(1987年)に沖縄県で国民体育大会(今は国民スポーツ大会)が開催され、それへの行幸が決まった時だった。ところが、昭和天皇はお出ましの1カ月前にご発病になり、行幸は中止を余儀なくされた。
この時に昭和天皇が詠まれた御製がある。

思はざる

病となりぬ

沖縄を

たづねて果たさむ

つとめ(務め)ありしを
ご無念なお気持ちが伝わる。結局、昭和天皇は昭和64年(1989年)1月7日、沖縄行きを果たされないまま崩御された。
■強烈な反対運動
かつての沖縄県では反天皇・反皇室的な感情が根強く残っていた。そのことは、上皇陛下が皇太子時代の昭和50年(1975年)に初めて現地を訪れられた時の事件からも、たやすく想像できる。
本土復帰から3年後のこの年、沖縄国際海洋博覧会が開催されることになり、7月17日から19日にかけて、当時は皇太子同妃だった上皇上皇后両陛下がお出ましになった。その頃は、昭和天皇の戦争責任を糾弾する風潮がまだ強く、左翼過激派などによる強烈な反対運動があった。
しかし上皇陛下は慰霊のために、激しい戦闘があった糸満市など南部方面へのご訪問を、自ら希望された。これに対して、沖縄学の権威で法政大学教授だった外間守善氏は「(南部に入ると)何が起こるか分かりませんから、ぜひご用心下さい」と伝えたという。それに上皇陛下は「何があっても受けます」とおっしゃられた。
■ひめゆりの塔前の火炎ビン事件
初日に南部戦跡にお車で向かわれる途中、沿道の白銀病院のベランダからビンや角材、石などが車列に向かって投げられた。この時は大事に至らなかった。
だが、戦時中に看護要員として動員されて命を落とした女子生徒たちの慰霊施設「ひめゆりの塔」に拝礼された直後に、事件が起こった。

近くの洞窟に潜んでいた赤いヘルメットと黒いヘルメットに覆面をした男2人が飛び出して、火炎ビンや爆竹を投げつけたのだ。幸い、火炎ビンは献花台に当たって両陛下にお怪我はなかった。しかし一歩間違えば、取り返しのつかない大惨事になるところだった。
洞窟を十分に点検せず、そこに潜んだテロリストを見逃した沖縄県警の大失態だった。
この時、上皇陛下は取り乱すことなく、ひめゆり同窓会の会長で当日ご案内に当たった源ゆき子さんのことを、真っ先に気づかわれた。「私は大丈夫。源さんはどうですか。源さんを見てあげて下さい」と。
事件後も、当初の予定を変更されることなく、「魂魄の塔」「沖縄師範健児の塔」「黎明の塔」「島守の塔」と巡拝を続けられた。この日は猛暑だったが、上皇上皇后両陛下は汗をぬぐおうともされず、ゆかりの人たちの話に熱心に耳を傾けられた。
■「この地に心を寄せ続けていく」
この事件に対する当時の沖縄県民の反応は、どうだったか。警察当局の緊急世論調査では、次のような結果だった(佐々淳行氏『菊の御紋章と火炎ビン』より)。

①モヤモヤしていたものがこの一発でふっきれた。

②しかし、皇太子同妃両殿下(上皇上皇后両陛下、以下同じ)に当たらなくてよかった。

③過激派はイヤだ。

④皇太子同妃両殿下には好感を抱いた。
この日の夜、上皇陛下は県民への談話を発表されている。そこには次のような一節があった。
「(沖縄で)払われた多くの尊い犠牲は、一時(いっとき)の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
これは、火炎ビンを投げつけたテロリストたちをも抱きしめられるような、真摯で誠実なメッセージだった。
上皇陛下はその後、この時のおことば通り「長い年月をかけて」、「この地に心を寄せ続けて」こられた。皇太子時代に5回、天皇として即位されてから6回、合計で11回もこの地を訪れておられる。
■戦没者慰霊の「4つの日」
それだけではなく、戦没者への慰霊のために日本人が忘れてはならない「4つの日」として、終戦記念日(8月15日)、広島原爆投下の日(8月6日)、長崎原爆投下の日(8月9日)とともに、沖縄戦で日本軍が玉砕し、組織的な戦闘が終結した6月23日(沖縄県慰霊の日)には、ご一家で黙禱を欠かさずに続けてこられた。
天皇として最後に迎えられた誕生日に際しての記者会見(平成30年[2018年])でも、次のようにおっしゃっている。
「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と。

そこには、ついに沖縄行幸を果たせないまま崩御された、昭和天皇のご遺志を受け継ぐお気持ちも強くおありに違いない。
■昭和天皇、上皇陛下から天皇陛下、愛子さまへ
これに対して、最初のお出ましでは火炎ビンが投げつけられるなどの事件があったものの、上皇陛下のご真情が伝わるにつれて、沖縄での天皇・皇室への受け止め方も大きく転換していった。そのことをよく示したのが平成5年(1993年)に沖縄県で全国植樹祭があり、上皇上皇后両陛下が天皇、皇后として初めてお出ましになった時の出来事だろう。
この時は、会場に集まった人々が日の丸の小旗を振って両陛下をお迎えするという、他の植樹祭でも見かけない光景が展開された。
天皇陛下は、沖縄に寄せられた上皇陛下のお気持ちを、誰よりもまっすぐに受け継いでおられる。現に陛下は、沖縄へは今回で7回目のご訪問になる。
昭和62年(1987年)が最初で、沖縄戦の悲惨な実態について沖縄出身の専門家から繰り返し説明を受けられた上でのご訪問だった。ご結婚4年後の平成9年(1997年)には皇后陛下とご一緒に訪れておられる。
沖縄の本土復帰50年の令和4年(2022年)には「国民文化祭」などの開会式へのご臨席のために、即位後初めて沖縄を訪れられた。皇后陛下は3回目、敬宮殿下は初めてのご訪問だ。
ご一家そろってのお出ましは、沖縄県民にとってこの上ない喜びだろう。また、昭和天皇の霊も、さぞかしお喜びではないだろうか。
■琉球百合を供えられた
この度のご一家の沖縄ご訪問のおもなご日程は以下の通りだった。
4日は、糸満市の平和祈念公園にある国立沖縄戦没者墓苑を訪れられた。強めの風が吹く中を、18万人以上のご遺骨が納められた納骨堂の前に琉球百合(リュウキュウユリ。別にテッポウユリとも)などの花を供えられて、死者の霊を慰められた。
お3方が、おそろいで納骨堂前で深々と頭を下げられるお姿は、拝見する者の心まで清められると思えるほど、美しかった。ご拝礼後、予定にはなかったが、その場にいたご遺族らと30分ほども懇談の時間を取られた。
■「すごく壮絶だった…」
次に、24万人を超える戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を訪れられ、そこに名前を刻まれた人たちのことなどについて、説明をお聴きになった。
沖縄県平和祈念資料館では、往時の悲惨な実情を伝える証言文に目を通され、敬宮殿下が「すごく壮絶だった……(みんなが)生きていくために(過酷な)選択をしなければならなかった」との感想を漏らされていた。
さらに戦争体験者や戦争体験を語り継ぐ“語り部”とも、言葉を交わされた。
■窓辺に浮かび上がった3つの提灯
天皇ご一家がお車で移動される沿道には、初日だけで1万数千人の人々が出迎えたという。
那覇市内のお泊りのホテル近くには、4500人ほどの県民が奉迎のために提灯や日の丸の小旗を持って集まった。
ご一家もお部屋の中で、それぞれ提灯をお持ちになって、奉迎の人たちの気持ちにお応えになられた。
お部屋を暗くされ、そこに3つの提灯が浮かび上がった。その3つの提灯が、人々の提灯の動きに合わせるように揺れる様子は、映像で拝見しても胸に迫るものがあった。
宜野湾市から夫と7歳の息子と一緒に参加していた女性は、こんな感想を述べていた。
「ぜひ家族で参加したいと思って来た。(ご一家が持つ)提灯が3つ見えて、感動し、鳥肌が立って涙が出た。沖縄県民として日本に生まれて良かった」(我喜屋彩花さん)
■対馬丸事件の慰霊碑で皇后陛下は涙を浮かべられた
翌日は、那覇市にある学童疎開船「対馬丸」の沈没による犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」に向かわれた。
対馬丸は昭和19年(1944年)8月22日、学童などを疎開させるために長崎に向けて航行する途中に、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した(対馬丸事件)。
この時の犠牲者で、これまでに氏名が判明しているのは1484名。そのうち、0才から15才が1040名にも達した。悲惨と言うほかない。
そこで花を供えられた後、関係者から説明を受けられた際に、皇后陛下はうっすらと涙を浮かべておられた。
対馬丸記念館では平良次子館長から説明を受けられた。
■「3代目もご一緒された」と表現
対馬丸の生存者で元館長の高良政勝さんが、感慨深げに語っていた言葉が印象的だった。
「この小さい記念館によくも(上皇陛下、天皇陛下と)2代がおいで下さったな、と。そしてまた3代目もご一緒された。本当に愛子さまがおいでになられたのは非常に大きなことだと思います」
2代にわたる“天皇”のお出ましを光栄と受け止め、両陛下のお子さまの敬宮殿下がご一緒されたことを、「3代目」と表現した。
皇室にとって大切な「精神」の継承という意味では、次の天皇として敬宮殿下以外はにわかに想像しにくい。それが高良さんに限らず、普通の国民に広く共有されている当たり前の感覚だろう。
それがこのような場面で、図らずもテレビカメラによって大きく映し出されたのは、貴重な瞬間だった。
なお高良さんは、天皇陛下が以前にお会いした自分のことを覚えていて下さったことに、「感謝しています」と発言していた。ところがテレビ番組の字幕では、間違って「感心しています」という“上から目線”の表現になっていたのは、残念だ。
■ご一家で「かりゆしウェア」をご着用
この後、ご一家は首里城公園にご移動され、沖縄の「かりゆしウェア」で沖縄国際海洋博覧会50周年記念事業の企画展をご覧になり、さらに首里城正殿の復元途中の様子を視察された。
先に全国植樹祭へのお出ましを見合わせられた皇后陛下のご体調などを考えると、ご負担が増える首里城公園でのスケジュールをあえて入れる必要があったのか、どうか。宮内庁の説明では、今回のご訪問は海洋博50周年企画展がおもな目的とされている。しかし、ご一家のなさりようを拝見すれば「慰霊の旅」そのもの。役所的な形式主義の弊害を感じさせた。
ただしこの時に、ご一家がお召しになったかりゆしウェアのシャツとワンピースは、販売元のウェブサイトでたちまち完売になるという人気ぶりだった。
■昭和天皇から伝えられる精神を受け継ぐ
この間、5日午前に、ご一家の沖縄ご訪問に反対する20人ほどの小さな集団が、抗議活動の中で対馬丸記念館に向かおうとして、その中の1人が警官の顔を殴って逮捕される事件があった。そのメンバーが「戦争反対!」などと叫んでいる様子が映し出されていた。
両陛下はご訪問のご感想として、「平和の尊さを心に刻み、平和への願いを新たにしていきたいと思います」とおっしゃっている。これは、敬宮殿下も同じお気持ちだろう。
殿下は、中学時代の修学旅行で初めて広島を訪れられた時の感想文で、「『平和』は、人任せにするのではなく、1人ひとりの思いや責任ある行動で築き上げていくもの」と書いておられた。
昭和天皇から伝えられてきた精神を、天皇陛下から直接に受け継ぐ皇族は、令和の皇室において敬宮殿下ただお1方しかおられない。その当たり前の事実が、ご一家おそろいの慰霊の旅によって、誰にでも分かる目に見える形で明らかになった。
おびただしい数の提灯に応えて、かなたで優しく揺れる「3つの提灯」は、まさにその象徴的な光景だろう。
■「平和への願い」しっかり受け継ぐことができるのか
ところが政治の場では、国民の思いとまったくかけ離れた議論が、延々と続けられている。
自民党などは、いわゆる旧宮家系子孫の「男系男子」を養子縁組によって特権的に皇族にすることで、皇族数の減少に目先だけ“数合わせ”をする制度改正にばかり熱心だ。その一方で、敬宮殿下など未婚の女性皇族がご結婚とともに皇室から離れてしまわれる今の制度を見直すことには、関心が薄い。
しかしこれは、養子縁組が“国民平等”の原則に反し、「門地(もんち)(家柄・血筋)による差別」にあたる憲法違反であるばかりでなく、考え方が根本から逆立ちしているのではないか。昭和天皇以来、天皇陛下にまで受け継がれている「平和への願い」など皇室の高貴な精神を、80年近くも民間人として暮らし、親の代からすでに一般国民になっている男子たちがしっかり受け継げるとは、失礼ながら考えにくい。
そもそも、安定的な皇位継承を困難にしている原因は明らかだ。側室制度なしには持続可能性を期待できない、明治以来の「男系男子」限定ルールが、少子化が進む今も“うっかり”そのまま維持されていることだ。だから確信犯的な反天皇の左翼活動家よりも、男系男子に固執する自民党などの方が、皇室にとってよほどリアルな害悪と言える。
致命的な障害になっている男系男子の“縛り”を解除すれば、皇位継承の安定化、皇室の弥栄(いやさか)への道が拓かれる。それと同時に、“直系優先”の原則(皇室典範第2条)によって、敬宮殿下がただちに「皇太子」(皇嗣たる皇子)になられる。
政治が最優先で取り組むべきは、こちらの課題ではないのか。

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高森 明勅(たかもり・あきのり)

神道学者、皇室研究者

1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録

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(神道学者、皇室研究者 高森 明勅)
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