東京から江戸の面影はもう消えてしまったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸城内には、往時と変わらぬ建造物が数多く残っている。
東京にいながらここまで江戸時代を体験できる場所は他にはない」という――。
■実は江戸城は日本の城のなかで保存状態がよいほう
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で毎回、田沼意次(渡辺謙)が10代将軍徳川家治(眞島秀和)に謁見している場所は、徳川将軍家の居城、江戸城中枢の本丸御殿である。
残念ながら、本丸御殿自体は現存していない。しかし、圧倒的な規模を誇った江戸城自体は、日本の城のなかで保存状態がよいほうなので、意次や将軍、その周囲の人たちが日常的に見ていた景色を、いまを生きる私たちも見ることができる。
東京には江戸の面影は残っていない、と思っている人は少なくない。それは多くのエリアで間違いとはいい切れないが、皇居が旧江戸城内に置かれたこともあり、江戸城にかぎっては、案外、江戸時代の景色を味わえるのである。
試みに、田沼意次が日常的に移動した範囲を中心に、江戸城をめぐってみたい。東京にいながらここまで江戸時代を体験できるのか、と驚く人が多いと思う。
まず、意次の居宅を確認しておこう。意次は明和4年(1767)、側用人に抜擢されると、将軍家治から神田橋門内に屋敷をあたえられ、2万石の大名となって駿河国相良(静岡県牧之原市)に築城が認められた。だが、将軍の近くに仕える側用人を、続いて老中を務めたため、国元にはほとんど帰れず、江戸で職務をこなす日々だった。
■往時と変わらない大手門の迫力
現在、日本橋川と呼ばれている江戸城外堀の上には、残念ながら首都高の高架がある。
その神田橋ランプの下あたりに石垣が残っている。これが神田橋門跡で、堀の外側から見て左側に田沼屋敷があった(右隣は広大な一橋邸だった)。そこから江戸城大手門まではそれほどの距離がない。
江戸城には多くの門があるが、諸大名が登城する際に通るのは、大手門と内桜田門(桔梗門)のどちらかだった。原則として小藩の大名が内桜田門を利用したが、意次は小藩とはいえ事実上、幕閣の最重要人物だったので、当初は内桜田門を使い、あるときから大手門が中心になったのではないだろうか。
■江戸城の中枢はタダで見学可
そこで大手門から「登城」する(内桜田門には追って触れる)。ここは江戸城の正門で、元和6年(1620)に伊達政宗が枡形虎口(枡形は敵の勢いを緩め、先を見通せなくする桝のような四角い空間。虎口は城の出入口)と石垣を完成させた。明暦3年(1657)の大火で焼失したが、2年後に再建されている。
全長40メートルと、将軍の城にふさわしい規模の櫓門は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したが、同42年(1967)、木造で復元された。だが、手前の高麗門は、万治2年(1659)の建築が現存する。
水堀を前にした大手門の景色は、木橋が土橋に替えられたのを除けば、いまも江戸時代とほとんど変わらない。
そして、大手門から先、江戸城の中枢だった三の丸、二の丸、本丸の約21ヘクタールは、皇居東御苑として無料で一般公開されている。
大手門を通って本丸へ向かうと、三の丸尚蔵館の先に切り石が積まれた石垣がある。ここは大手三の門跡で、かつては前に水堀があった。徳川御三家と勅使を除くと、諸大名もここから先は駕籠を下りる必要があったので「下乗門」とも呼ばれた。むろん、意次もここからは徒歩になった。また、この門は枡形の4辺すべてを多門櫓で固めた厳重な門だった。門の枡形内には大名の供を監視した同心番所が残る。
■巨石の意外な産地
大手三の門を抜けると広いスペースで、この門を守護する城内最大の検問所、全長50メートル近い百人番所がいまも残る。ここは登城する大名たちが集中する場だったので、江戸時代も広いスペースがとられていた。ここから本丸に向かうには、百人番所の向かいの中の門を通った。
御三家もここからは駕籠を下りた中の門跡は、建物はないが石垣に見応えがある。築石は大きいもので幅1.3~1.4メートル、長さ3.5メートルと城内最大級で、大手三の門の石垣とともに圧巻だ。
しかも、巨石の大半ははるばる瀬戸内から運ばれた花崗岩である。これらの石は、諸大名に徳川の力を見せつけるためのものだった。
中の門の内側には、本丸に着く前の最後の検問所だった大番所が残る。坂を上り、中雀門(書院門)跡を抜けると広大な空間が広がる。ここが本丸で、かつてここを埋め尽くしていた本丸御殿跡である。
■大奥があった場所
本丸御殿は手前(南)から奥(北)に向かって、表、中奥、大奥に分かれていた。「表」は諸大名が将軍に謁見し、役人たちが職務に励んだ場所で、「中奥」は将軍が起居し、日常の政務にあたった場所。「大奥」はご存じのように、将軍の側室や子女、奥女中らが暮らすプライベート空間だった。
意次は老中になっても将軍側近の側用人を兼務し、将軍と接してその意向をほかの老中らに伝えた。したがって中奥に日常的に出入りしていた。
意次の時代の本丸御殿は万治2年(1659)に再建された4代目で、天保15年(1844)に焼失。その後、幕末までに2回建てられながらそれぞれ焼け、以後は再建されずに明治維新を迎えた。

中奥の左(西)側には、一重の御休息所前多門(富士見多門)が現存する。本丸の石垣上を囲っていた10棟を超える多門櫓のひとつで、おそらく毎日、意次の目に入っていたと思われる。また、その南側(本丸南方隅)には三重の富士見櫓が残る。天守は明暦3年(1657)の大火で焼失後、再建されず、以後は万治2年(1659)に再建されたこの富士見櫓が、天守代用とされたのだ。
■天守が建ったことのない天守台
本丸の北端近くには東西約41メートル、南北約45メートルの巨大な天守台が残る。いま述べたように天守は再建されず、田沼意次の時代にはなかった。現在の天守台は、明暦の大火後に加賀藩前田家が新造したもので(築いたのちに天守再建が断念された)、この上に天守が建ったことはない。ただ、田沼時代も現在と同じ姿だった。
東御苑の出入口は大手門のほかに2つある。そのひとつ、平川門から出ることにする。この門は御三卿、つまり田安家、一橋家、清水家の登城口で、枡形を構成する櫓門も高麗門もよく残る。高麗門が2つあるが、1つは罪人や死者を城外に出すときに使われた不浄門だといわれる。
いずれにせよ、復元された木橋も相まって、江戸時代の景色をよく残している。
平川門から100メートルほど北に行くと、最初に訪れた日本橋川(外堀)のやや上流にぶつかり、そこに石垣の一部が残る。これは一橋門の枡形の石垣で、この右(東)側から神田橋にかけて、一橋家の屋敷があった。
■約400年前の門が残る
では、御三卿の残り、田安家と清水家の屋敷はどこにあったのか。
一橋邸からさほど遠くない北の丸公園、すなわち旧江戸城北の丸の入口のひとつに清水門がある。明暦の大火後、万治元年(1658)に再建された高麗門と櫓門からなる枡形のほか、通路までが江戸時代の状態を伝えている。江戸城内の通路はほとんどが舗装されてしまっているが、ここだけは石段や石による溝などがそのままなのだ。そして、この門の内側に清水家の屋敷があった。
一方、松平定信が生まれ、「べらぼう」で一橋治済(生田斗真)が目の敵にする田安家の屋敷は、田安門の内側にあった。田安門は日本武道館の入口になっている門である。江戸城は5回におよぶ天下普請、すなわち、幕府が全国の大名に命じて自己負担で行わせた工事で築かれた。そうして寛永13年(1636)に完成を見るが、その後、たびたび火災や地震に見舞われた。
田安門の櫓門と高麗門は明暦の大火でも焼失を免れ、寛永13年の建築が残っている。
■西の丸が皇居になった理由
「べらぼう」では「西の丸様」という呼び名がよく聞かれる。同じ江戸城内でも本丸、二の丸、三の丸とは、谷をはさんで別城郭のようだった西の丸は、隠居や世継ぎがすごす場所だった。
このため、将軍家治の嫡男で次期将軍に内定していながら急死した家基や、一橋治済の長男で家治の養子になった豊千代(のちの11代将軍家斉)らは、西の丸に起居して「西の丸様」と呼ばれた。
その西の丸御殿跡に建っているのが皇居の宮殿である。明治元年(1868)10月、明治天皇が江戸城に入城した際、すでに本丸御殿も二の丸御殿もなく、御殿は西の丸の仮御殿(こちらも焼失後に建てられた簡易な御殿)があるだけだった。このため天皇は、本丸でなく西の丸に入ったのである。
じつは、この西の丸にも、皇居一般参観に申し込めば、だれでも無料で入れる。集合場所は、大手門と並んで諸大名が登城に使った内桜田門(桔梗門)の前である。この門をくぐる前には、向かって右(東)にある巽櫓越しに、内桜田門、さらに奥に富士見櫓を遠望しておきたい。これこそ、江戸時代を通してあまり変わらず、いまも江戸を思わせる最たる景色だと思う。
■往時の江戸城を象徴する景観
内桜田門も、枡形を構成する櫓門と高麗門が現存し、ここだけでも江戸時代の景観だ。意次も当初は毎日、ここを通っていたことだろう。門を通り抜け、西の丸方向に歩くと、本丸南端の高石垣上に建つ富士見櫓が現れる。前述のとおり、200年にわたってこの櫓が天守代用、つまり江戸城の象徴とされた。したがってこの景観こそ、当時の江戸城を象徴するものである。
その下を道なりに西に進むと広大な蓮池堀があって、そこから約450メートルにわたり、本丸西側を高さ20メートル近い石垣がそそり立っていて圧巻だ。
皇居宮殿を右手に見ながら進むと二重橋に出る。そこからは、伏見城から移築されたともいわれる伏見櫓と十四間多門が、反対側には皇居正門、すなわち西の丸大手門が見える。
こうして歩くと、石垣や水堀がよく残るだけでなく(埋め立てられた堀や撤去された石垣もあるが)、江戸時代の建造物が意外と残っていると、実感したのではないだろうか。摩天楼に囲まれた東京の真ん中で、蔦屋重三郎の時代に田沼意次や将軍家治、あるいは一橋治済らが眺めた景観を、思いのほか眺めることができるのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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