太平洋を一望できる和歌山県白浜町の三段壁(さんだんべき)。その駐車場と入り口にひっそりと2台の公衆電話が佇む。
そこからかかってくるのは、「生きるのがつらい」という切実な声。牧師・藤藪庸一さんは、そんな声に26年間耳を傾け、これまでに1100人を保護してきた。実子2人に加え、7人の里子を育て上げた藤藪さんは、なぜこの活動を続けているのか。現地を訪ねたフリーライター・川内イオさんが、藤藪さんの覚悟と生き方に迫る――。
■1100人の自殺志願者を救った男
人生に絶望した人たちに手を差し伸べて、26年。和歌山県白浜町にある白浜バプテスト基督教会の牧師、藤藪庸一さんは、これまでおよそ1100人の自殺志願者を保護してきた。単純計算で年間平均43人。それだけの命の危機に接しながら、プライベートでは、2人の実子に加え、7人の里子を育ててきた。
26年間、人助けに奔走してきた男が倒れたのは2020年。49歳の時、ステージ4のがんが発覚した。身体中にがんが転移し、いつ命を失ってもおかしくない状態だった。しかし、すべてのがんを摘出する手術が成功し、見事に復帰……というより、復活を遂げた。

現在は、抗がん剤の副作用で重い腎不全を患いながら、牧師のほかにNPOの代表、弁当店の経営者、通信制高校の教室長、児童家庭支援センターのセンター長を務めている……と書くと、後光が差す「聖人」のような人を思い浮かべるかもしれない。
しかし、実際は違う。学生時代、「底辺」だった藤藪さんは、仕事をクビになって無職で結婚した。牧師になってからも保護した人たちとぶつかり合い、手痛い失敗と悔しさを噛み締めながら、生きてきた。意外なほどに泥臭いその人生で、彼はなにを目指すのか?
■「水島上等兵」に憧れて
1972年8月、藤藪さんは公務員の父と保育士をしている母のもと、白浜町で生まれた。
「実家は禅宗で、キリスト教とは縁もゆかりもありません。小学校1年生の時、近所のお姉さんに誘われて、白浜バプテスト基督教会の日曜学校に通うようになりました。聖書の話を聞いたり、賛美歌を歌ったり、ゲームをしたり、お楽しみ会のような感じでしたね」
小学校の卒業文集に記した将来の夢は、「牧師」。きっかけは、テレビ番組『愛は地球を救う』と小説『ビルマの竪琴』だ。
小学校6年生の時、『愛は地球を救う』で骨と皮だけにやせ細った難民キャンプの子どもたちを見て衝撃を受けた藤藪少年は、小銭を空き瓶に貯めて、募金することにした。しかし、貯金するのは月300円のお小遣いを好きに使った後に余った1円や10円。数カ月かけて貯まったのは、約600円だった。

母親に「お小遣いを2カ月ガマンしたら、その金額になるね」と言われ、「貧しい子たちのためにいいことをしている!」と胸を張っていた自分が恥ずかしくなった。
同じ頃、『ビルマの竪琴』を知った。第二次世界大戦中、ビルマ(現在のミャンマー)で敗戦を迎えた日本軍をモデルにした小説で、主人公は「水島上等兵」。水島は「一緒に日本に帰ろう」という仲間の声を振り切り、ビルマに残って戦没者を弔う道を選ぶ。
「絶対、仲間と日本に帰るだろうと思っていたから、ビックリしました。小遣いの余りを募金する僕と比べたら、自分のことより戦友のことを考えた水島上等兵ってすごいなと思いましたね。教会で聞いた聖書の話でも、イエス様が、すべての人のために命さえも捧げられたこと、同じように隣人のために犠牲を払うことが教えられています。それで、僕も牧師になって苦しんでいる人たちのために働こうと思ったんです」
■神学科を出て保育士に
この思いは一切ブレることなく、藤藪さんは子どもの頃からよく知る白浜バプテスト基督教会の牧師、江見太郎さんの推薦を受けて、東京基督教大学の神学科に進学する。
中高とバレーボールに明け暮れ、専門知識ゼロで入学したため、当初は自ら「底辺」と認める劣等生だった。しかし、先輩たちから「勉強しないと卒業できないぞ」と諭されて、一念発起。遊びもバイトもせず、長期の休みも勉強に励む。その甲斐あって、4年生の頃には「真ん中ぐらい」になった。

学生時代、教会の維持、運営のためとはいえ、信徒を増やし、献金を集めることを重視する教会が多いことに疑問を感じた藤藪さんは、大学卒業後、保育士になった。
「働きながら牧師をすることを、テントメイキングといいます。天幕づくりを生業としながら宣教を展開したパウロ(新約聖書に出てくる弟子のひとり)のように、自分も保育士をしながら宣教しようと考えていました」
1995年4月、キリスト教系の保育園に就職。その半年後の9月30日、大学のひとつ上の先輩、亜由美さんと結婚式を挙げた時にはすでに、無職だった。慣れない女性に囲まれた職場でうまく自分の気持ちを伝えることができずフラストレーションをためてしまい、体調を崩したこともあって、わずか半年でクビになってしまったのだ。結婚式では、式中によくある新郎の仕事の紹介や上司の挨拶などは一切省かれた。
白浜バプテスト基督教会の江見牧師から「一度話をしよう」と電話があったのは、結婚式の2カ月後。教会を訪ねると、江見牧師は「帰ってきなさい」と言った。
「お前が牧師になりたいと言った小学6年生の時から、それが実現できるようにいつも祈ってきたんだ。私もそろそろ引退しなきゃいけないから、後を継いでほしい。お前はここで頑張るべきだと思う」
■夫婦で月給5万円生活
いずれ宣教師として海外へ渡ろうと考えていた藤藪さんの心を捉えたのは、江見牧師から告げられた“勤務条件”だった。
「もしここで働くなら、給料は5万円だ。
夫婦ともに、アルバイトも禁止」
少し古いデータだが、日本基督教団の年鑑(2017年版)によると、牧師の平均謝儀(年収)は338万円。大卒の新人牧師の場合、新入社員程度の給料が出るのが一般的だ。
そもそも、大人ふたりが1カ月5万円で暮らすのは難しい。それを承知のうえで課されたこの条件に、牧師としての本気度を問われている気がした。
すぐに東京に戻り、夫婦で話し合った。当時、藤藪さんはガードマン、亜由美さんは日本語教師の仕事をしていて、夫婦で計50万円ほど稼いでいた。収入が10分の1になるにもかかわらず、結論はすぐに出た。
藤藪さんは亜由美さんとともに祖母が住んでいた白浜町の家に引っ越し、1996年4月、江見牧師のもとで働き始めた。牧師の仕事は主に礼拝の説教、結婚式や葬儀、洗礼式などの儀式、日曜学校など行事の運営、信徒のサポートが挙げられる。
藤藪さんは、献身的に江見牧師の仕事を手伝った。その姿を、信徒を含め、周囲の人たちはよく見ていたのだろう。毎月、気づけば給料を超える収入を手にしていた。
給料が10万円になった2年目も、14万円になった3年目も、同様だった。
「家に帰ったら玄関にたくさん野菜が置かれていたり、送り主がわからない現金が届いたりしました。本当にたくさんの人に助けてもらいましたね」
■「いのちの電話」を手探りで引き継ぐ
1999年、江見牧師が引退し、26歳の藤藪さんが白浜バプテスト基督教会の後を継いだ。同時に、江見牧師が1979年に始めた「三段壁いのちの電話」も担った。
これは、全国に支部があり、ボランティアが話の聞き役となる「いのちの電話」事業とは異なる。白浜町の観光名所「三段壁」は高さ最大50メートル、ゴツゴツとした岩が切り立つ断崖絶壁で、自殺者が多いことでも知られる。
そこにある公衆電話の横に「いのちの電話」の看板を立て、「重要な決断をする前に一度是非ご相談ください」と教会の電話番号を載せたのが江見牧師だ。三段壁で自殺しようとしていた人が看板を見て電話をかけてきた時、江見牧師は車に飛び乗って現地に急行し、思いとどまるように説得する。
帰るあてもない人は、教会が借り上げているアパートやホテルで一時的に保護した。その資金は、活動を支持する「支える会」からの支援や講演料でまかなっていた。
不思議なのは、1979年から20年間で672人を保護した江見牧師が、この件に関しては藤藪さんに「継がなくていい」と言い続けたこと。1年目から日中の電話対応だけは任されていたが、実は一度も江見牧師と三段壁に行ったことがなかった。
「継ぐしかない」と考えていた藤藪さんは、当然そう伝えていた。それでも、江見牧師は支える会を解散し、アパートを解約して、引継ぎなしで教会を去った。
■いかつい中年との2カ月
三段壁から電話をかけてきた人にどう声をかけたらいいのか、どう保護したらいいのか、保護した後にどうするのか。現場の経験ゼロの藤藪さんのもとに、次々とSOSが届く。
最初に保護したのは、26歳の女性。夜に三段壁から電話があって保護したものの、その時夫婦で住んでいた祖母の家は狭くて受け入れるスペースがない。仕方なく教会の一室に寝かせると、翌日、母親が途中まで迎えに来ることになり、帰っていった。
この一件で、今の家では保護活動ができないとわかり、すぐ教会内に引っ越した。その数日後の17時頃、男性からの電話で三段壁に向かうと、いかつい風貌の中年男性が泥酔していた。藤藪さんを見るなり、「お前みたいな若いやつになにがわかる。話すことはない。帰れ!」。それでも、放っておくわけにはいかない。正面に座り込み、朝8時まで話を聞いて、なんとか保護した。
その男性は、「帰る場所がない」という。藤藪さんは妻の亜由美さんと話し合い、「2週間ぐらいならガマンできるだろう」と自宅に受け入れた。男性が藤藪家を離れたのは、2カ月後だった。
「そのおじさんは結局、僕とケンカをして、白浜で路上生活に戻りました。でもね、見慣れないほかの路上生活者に『教会に行かないか、助けてくれるぞ』って声をかけて、連れてくるようになったんです。『先生、こいつ今日出会ったんだけど、ちょっと危ないと思うんだ』って。それで何人も保護しました」
■「共同生活の心得」を定めた理由
中年男性が2カ月間、自宅に滞在している間に、さらに3人を保護。これ以後、複数の自殺志願者を保護し、教会で共同生活を送るのが藤藪さんの日常になる。
それぞれ深刻な事情を抱えているとはいえ、好き勝手に過ごしていたら、共同生活は成り立たない。ある時、保護していたメンバーのひとりが、「自分たちがみんなで一緒に生活しやすいように」と教会生活ガイダンスというルールを作った。藤藪さんは、のちに挨拶や清掃などのルールを定めたこの「共同生活の心得」を改定し、署名を求めるようになった。そこには、「今までの自分の生き方や価値観を否定されることを覚悟してください」と記されている。
「気持ちに寄り添うということは、その人が望むことを一緒に続けるという選択になりがちです。例えば、部屋から出たくないという人に対して、自分から部屋を出るのを待とうという話になる。でも、うちで保護した人には自立して生きる道を探してほしい。そのために、それまでの考え方や行動を改めてもらうことも必要だと考えています」
藤藪さんが保護した人たちのなかには、見たこともない食事の仕方、トイレの使い方をする人もいる。「優しく仲良く」だけでは成り立たない現実が、目の前にあるのだ。
共同生活は常時5、6人、多い時には10人に及ぶ。当然、藤藪さんの方針に反発する人も出てくる。それでも、「ここで改善しないと、よそに行ってもうまくいかない」という確信から、一切妥協しない。ただし、一方通行のコミュニケーションにならないように、気を付けている。全員と、毎日欠かさず、交換日記をしているのだ。
藤藪さんのもとで共同生活を送る人たちの平均的な滞在期間は、3年。最長で8年過ごした人もいる。信頼関係がなければ、これほど長く一緒に時間を過ごさないだろう。
■Tシャツ店で大失敗
保護する人が増えると、救済の活動費を教会の資金でまかないきれなくなった。そこで支援を広く募るため、2006年、NPO法人・白浜レスキューネットワークを設立した。
これで活動を継続する目途が立ったものの、保護した人たちの自立を促すには、それぞれの生活力が欠かせない。そこで、仕事が見つかった人に関しては、「100万円貯金」を目標にした。藤藪さんが給料を全額預かり、ある場所の金庫に保管。本人には毎月1万円のお小遣いを渡し、共同生活から自立する際に貯金を渡す。
一方で、どうしても仕事が続かない、仕事が見つからないという人も少なくない。その人たちのためにと最初に手掛けたのが、NPO主体のTシャツ店。2009年、雇用促進の補助金1000万円を得て、外部から2人、共同生活者から1人を雇って始めた事業はしかし、早々にとん挫した。
「家内の父に、お前はアホか! 3人の給料を払うために、一枚数千円のTシャツをどれだけ売ればいいのかわかってるのか! とものすごく怒られました。それで県庁に、失敗するのが目に見えているので、違約金を払ってでも傷が浅いうちに辞めさせてほしいと謝罪に行きました。でも、それはできないと言われて。やむなく1年間、事業を続けた後に畳みました」
藤藪さんを一喝した亜由美さんの父親は、某大手自動車部品メーカーで部長を務めていた。そのビジネス感覚が、大きな助けになる。
■弁当店を成功に導いた義父のアドバイス
Tシャツ店が迷走していた時期、藤藪さんは中華料理店の開業にも動いていた。その時期に保護していた人のなかに、たまたま中華の料理人がいたという理由だ。こちらは300万の補助金と150万円の自己資金で物件を借り、リフォームして、必要な機材を揃える予定だった。その計画を聞いた義父は、藤藪さんにこう突っ込んだ。
「ぜんぶ揃えて器ができて、さあ、お客さん来てくださいと言って、本当にお客さんは来てくれるのか? 来てくれなかったら、どうなるんだ?」
当時を振り返り、藤藪さんは苦笑する。
「僕はもともと、自分の給料の額が働きがい、生きがいにつながるというモチベーションで仕事をしていません。そういう人間が収益事業をするのは、もうまったくの畑違いで。やらざるを得なくなって始めたものの、まったく才能がありませんでした」
義父は、次のように助言した。飲食店ではなく、弁当屋にすること。リフォームをせず、50万円で必要最低限の備品を用意すること。知り合い20人に声をかけ、1週間、モニターになってもらうこと。その20人からメニューや味付けについて意見を募り、参考にすること。店を開けて待っていてもお客さんは来ないから、弁当を配達し、そこで1週間のメニューを配って営業すること。
このアドバイスに従ってオープンした「まちなかキッチン」は見事、軌道に乗る。2010年の開業から注文が右肩上がりで伸び続け、今では1日約300個、月間約6000個の注文が入る。その収益はNPOの資金の柱になり、保護している人たちにとっても大切な職場になった。
■いくら悔やんでも悔やみきれない出会い
生活から仕事まで、藤藪さんが徹底的に保護した人たちと向き合うのは、絶対に忘れられない出来事があったからだ。
ある年の夏の終わり、青白い顔をした若者を三段壁で保護した。話を聞くと、大阪の実家には重いうつ病の兄がいて、若者自身も人間不信で何度も転職を繰り返した末に、働けなくなっていた。生活を支えているのは会社員の父親だったが、長男の看病との両立に疲弊。若者は「自分がいたらお父さんがもっと大変になる。でも自立する自信もない。もう死ぬしかない」と思い詰めていた。
共同生活を始めて2カ月が過ぎた頃、若者は自らホテルの仕事を見つけてきた。藤藪さんは「まだ早いんじゃないか」と感じつつ、自立に向けて歩み始めた若者を応援することに。若者は少しずつ明るく、元気になっているように見えた。ところが、就職から1カ月後、「職場に睨んでくる人がいて、怖い」と訴えるようになる。藤藪さんは、その時に自分が口にした言葉を今も悔やんでいる。
「その人、ほんまに睨んでるんか? もしそうなら、なんでそんなに睨んでくるんですかって確かめてみたら?」
若者はその数日後に仕事を辞め、実家に帰ると言い出した。藤藪さんは「お父さんもお兄ちゃんも大変で、戻ってもうまいこといかんのちゃうか」と引き留めたが、若者は去った。
2カ月後のある日、長崎県の警察から電話があった。藤藪さんの名刺を持っている遺体が発見されたという連絡だった。その若者は藤藪さんと別れた後、実家に戻らず、長崎まで行って自殺したことがわかった。
■「私は、覚悟が決まったよ」
藤藪さんは、自分がいくつも判断ミスを重ねたように感じた。仕事をするにはまだ早いと思ったのに、認めたこと。「その人ほんまに睨んでるんか?」と疑い、自分で確かめろと突き放したこと。うまくいかないとわかっていたにもかかわらず、そのまま帰らせたこと。若者の父親に電話をかけ、「自分のせいだ」と謝った。
「自殺防止の活動をしてますって言いながら、関わった人が亡くなるわけやから、これはもう続けたらあかんのちゃうかな」
そう考えていた藤藪さんを踏み止まらせたのは、若者の父親と妻の亜由美さんだった。電話で話をした際、若者の父親は藤藪さんを責めることなく、「(自殺防止の活動を)これからも続けてください」と認めてくれた。それでも落ち込み、迷っている藤藪さんに、亜由美さんはこう言った。
「私は、覚悟が決まったよ」
いくら自分たちが手を尽くしても、届かないところがある。最後に決断を下すのはその人だと理解して、納得して関わっていくしかない。もしかしたらまた同じようなことが起きてしまうかもしれない。それを含めて腹をくくらないと、この仕事は務まらない――。それが、亜由美さんの覚悟だった。
藤藪さんは妻の言葉を聞いて、「もう1回頑張ろう」と思うことができた。ふたりは今も、若者の死を胸に深く刻みながら生活しているのだ。
■9人の里子を育てる
牧師、NPO代表、まちなかキッチンの経営者として駆け回りながら、藤藪さんは子どもたちにも目を向けてきた。なによりも気にかけてきたのは、長男と長女だ。藤藪さんは「親である自分たちが普通じゃない家庭を作っている」と自覚していた。長男が幼稚園に通っている時、敬老の日にひとりだけたくさんのおじいちゃん、おばあちゃんの絵を描き、保育士に「うちにはいっぱいおる」と言って物議を醸したそうだ。
自分たちの活動が悪影響を与えることがないよう、藤藪夫妻は子どもたちにかける時間を惜しまなかった。保護している人たちとの関係にも気を配り、些細な間違いも起きないようにした。
子どもたちも、両親が困っている人を助けていることを理解していたのかもしれない。長女が小学校1年生の時、ある同級生が「家庭の事情」で学校を長く休んだ。なにも詳しいことを知らない長女が突然、その同級生を「うちで預かったら?」と言ってきたのだ。
藤藪さんは娘からの突然の提案に戸惑ったが、以前からその同級生の親が問題を抱えていることを把握していたため、児童相談所に相談。亜由美さんと一緒に里親研修を受けて、その同級生を引き取った。その後、さらに6人の子どもを受け入れ、育ててきた。
■必要なのは子供時代からの支援
任意団体を立ち上げて、自然のなかでさまざまな体験をする「はじめ人間自然塾」を始めたのは2005年。NPOを設けた2006年には、子どもたちの宿題や自習をサポートする放課後クラブ「コペルくん」もスタートした。これらの活動は、保護してきた人たちの大半が幼い頃になにかしらの傷を負っていると知り、子どものうちから社会性、人間関係を学ぶ機会を作ろうという思いからだった。
自殺の予防は子ども時代から、という思いは今も変わらない。2019年には、不登校などさまざまな事情を抱えた子を受け入れる通信制高校「明誠高校和歌山白浜SHIP」を開講。2023年には「くまのっ子児童家庭支援センターのこのこ」も設立した。
「啓蒙活動も水際対策もたくさんあるけど、根本的な原因はどこにあるのかを突き詰めると、育ってきた環境に問題があることが多い。そう考えると、幼少期から中学、高校を卒業するまでの間をどう支援するかが、自殺を減らすことにつながると思っています」
■スマホに110件の通知
ラガーマンのような体型でエネルギッシュな印象の藤藪さんだが、これだけたくさんの人に関わり続ける毎日に、心身は疲弊していたのかもしれない。冒頭に記したように、2020年、腹膜偽粘液腫というがんがステージ4の状態で見つかり、死の瀬戸際まで追い詰められた。しかし、脾臓、胆嚢、胃と肝臓、小腸の一部、結腸、大腸、腹膜のすべてを取るという14時間に及ぶ大手術が成功し、生還。術後、さらに想像していなかった展開が待っていた。
「がん保険で、娘の大学の1年分の学費が出たんです。しかも、知り合いに勧められてその保険に入ってから、そんなに時間も経ってなくて。すっごくビックリしましたね。こういうことだったのか、すべてがつながった……みたいな。これはもう自分の力じゃないって、いつも思わされます」
学費の話には思わず笑ってしまったが、がんが発覚した絶望的な状況から、ひとり5役を務める現在を考えると、「自分の力じゃない」と感じるのも、わかる気がした。
取材の日、藤藪さんが手元に置いたスマホが絶え間なくブルブル震えていた。今や藤藪さんの活動は全国に知れ渡り、NPOのホームページに番号が公開されている「いのちの電話」には、全国から昼夜を問わず電話がかかってくる。その数、月間200件。そのすべてが、藤藪さんのスマホに転送される。緊急事態に備えて365日24時間体制で対応しており、仕事中も取材中も、電源を切ったり、サイレントモードにすることができない。さらに教会、弁当店、通信制高校、児童家庭支援センターからも、連絡が来る。
インタビューが始まってからおよそ1時間20分、藤藪さんが一度退席して戻ってきた時に、「1日にどれぐらい連絡があるんですか?」と尋ねると、彼はスマホを確認した。
「(取材のため)僕がスマホを見ていない間に、110件ありました。でも大丈夫です。大切な要件の時は電話が鳴るので」
■共同生活からの卒業
驚いたのは、スマホの通知の数だけでなく、藤藪さんを訪ねてくる人の多さだ。インタビュー中、何度も部屋がノックされ、そのたびに藤藪さんは中座した。そのうちのひとりは、まさに取材の日、白浜町内のアパートに引っ越して、共同生活を卒業していく若い女性だった。その女性と話をして部屋に戻ってきた藤藪さんは、「めっちゃ嬉しい」と笑った。
「あの子は、三段壁にあるお店の人から連絡をもらって、保護しました。最初は無口で、笑顔なんてぜんぜんなくて。それから1年で仕事もアパートも決めて、本当によく頑張ったと思います。彼女の職場はすぐ近くだから、またいつでも遊びに来てねと伝えました」
この女性のように自立していく人を、藤藪さんはいつも同じように祝福し、送り出しているのだろう。そう考えると、藤藪さんが保護してきた1100人という人数は、途方もない。ここに電話対応は含まれず、教会で共同生活を送った人たちの数だ。これだけの人たちと真正面からぶつかりながら、夫、父でもある生活は想像もつかない。
「どうしてそんなに頑張れるんですか?」
思わずそう投げかけると、藤藪さんはその日一番の笑顔でこう答えた。
「キリスト教としては、人生って輪廻じゃないんですよ。だから1回しかない人生、どれだけ一生懸命になれるかなって思っているんですよね。死んだら天国に行けると信じているので、神さまに答え合わせをしてもらいたいです。僕が関わった人、ひとりひとりに対して自分がやったことは正解だったんか、間違ってたんか。そして最後は、神さまに『よく頑張った』と言ってほしい。それが楽しみです!」
取材の日、三段壁ではインバウンドの外国人たちがあちこちでセルフィーをしていた。観光客で賑わうその入り口と駐車場に、10円玉とテレホンカードが用意された公衆電話があった。藤藪さんは、そこから電話をかけてくる人がいない日が続くことを願っている。

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川内 イオ(かわうち・いお)

フリーライター

1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。

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(フリーライター 川内 イオ)
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