【前編のあらすじ】現在、中部地方に住む二藤瑞子さん(仮名・50代・既婚)の父親は国家公務員で仕事帰りに同僚や後輩を家に招き、夜な夜な宴会を開いた。母親を召使のように扱い、二藤さんにも暴力・暴言を繰り返した。小1の頃から父親に殺意を抱いた二藤さんは大学進学時に一人暮らしを始めて以降、あまり実家に顔を出さなくなった。22歳で結婚後、少しずつ実家に顔を出す頻度が増えたが、父親が87歳、母親が81歳の時、「横腹が痛い」と訴え続けていた母親を病院に連れて行くと、ステージⅣの大腸がんと判明。医師から「手の施しようがありません。余命3カ月でしょう」と告げられた――。
■生き地獄からの解放
2018年のはじめ。81歳の母親がステージⅣの大腸がんで余命3カ月だと知った娘の二藤瑞子さん(仮名・50代・既婚)は大きなショックを受けた。
「私としては母のそばにいてあげたいと思いましたが、実家には父(当時87歳)もいますし、通うには片道4時間ほどかかります。母に希望を聞くと、『あの人のところには帰りたくない』と言ったので、私は母方の叔父に相談し、叔父の家に住まわせてもらうことにしました」
二藤さんは職場(看護師)には、介護休業、介護休暇をMAXまで申請。洋服直しをしている会社の経営者兼職人の夫(50代)には、相談というより決定として話をして、荷支度をした。
「2人の子どもたちはもう大きいとはいえ、末娘はまだ高校生です。部活で夜遅くなった日の送迎などは夫にお願いしました。夫とは会話はあるけれど、『ありがとう。おかえり。気をつけて。楽しんでこいよ』などの温かみのある言葉掛けはしてくれない人でした。結婚後、しばらくは私だけでも言葉掛けを続けていたのですが、一方通行は虚しくなり、いつの間にか私もしなくなりました。でも、この時ばかりは私や母のことを気遣ってくれるとか、『しっかり看てきてあげな。こっちのことは心配ないから!』などの言葉を期待してしまいましたが、『行かせてくれるだけマシか』と気持ちを切り替えて母の元へ向かいました」
一方、父親は母親からがんだと聞くと、
「だから俺は早く病院に行けと言ってたのに!」
と怒り出した。
「母は何度も痛いと言ってたのに家事も畑も手伝ってあげず、命令だけしておいて、何、自分を正当化しているんだろう! と、腹が立ちました」
当初は父親も一緒に叔父の家に滞在していたが、全員が母親中心に動いている状況が面白くなかったのか、2週間後には荷物をまとめて1人で帰ってしまった。
気づけば母親は、闘病生活が始まると、がんの痛みや抗がん剤の副作用でつらいにもかかわらず、笑っている時間が増えていた。
「母自身、もう3カ月もたないと知っていましたが、親戚のみんなと一緒にお茶とお菓子でおしゃべりしたり、病院では主治医の先生や看護師さん、掃除のおばさんとお話ししては、大笑いしていました。
■血も涙もない
ある日、みるみる弱っていく母親のために、二藤さんは父親に言った。
「お母さんは、もう何日も生きられない。頼むから最期に『ありがとうな』って伝えてあげてほしい。きっと、喜んであの世に逝けると思うから」
なかなか首を縦に振らない父親に、二藤さんの長男も涙を流しながら言った。
「おじいちゃんの気持ちもあるけど、お願いだから、おばあちゃんに言ってあげてください。最後に『良かった』って思わせてあげたい」
2人で土下座して頼んだ。すると翌日、父親は母親の病室を訪れていた。二藤さんは邪魔しないよう、しばらく病室に行くのを控えた。
ところが30分ほど経って、二藤さんが病室へ行くと、母親は1人で号泣していた。二藤さんはタオルを渡し、母親が落ち着くのを待って聞いた。しかし、その後に聞いた母親の言葉は信じられない内容だった。
「あの人は……『お前と結婚したこと後悔している』って。『離婚すれば良かった』って私に言ったの。だから私は、『そんなことを言いに来たの? 私はもういなくなるから、わざわざ言いに来なくても良かったのに!』って言い返してやった」
そう言って笑い泣きする母親に二藤さんは「この後は、私に任せておきなね」とだけ返した。
「最低だと思いました。私はこの時、『母の人生を無駄にするものか!』と心に誓いました」
それから7日後の2019年2月、母親は二藤さんだけが病室にいた時間に息を引き取った。82歳だった。二藤さんには、微かに笑っているように見えた。
ところがその数分後、亡くなったという連絡を受けた父親が、酒を飲んでいたせいでよたつきながら母親に近づくと、
「お前は何をしとるんだーーーーーーーー!!!!!!!」
と大声で叫びながら、母親の頬をビンタしたり頭を叩いたりし始めた。
「亡くなってからも母をたたくんですか⁉ やめてください‼」
二藤さんが制止しようとしたが、88歳の父親の力は意外に強く、振り払われてしまう。
それでも「これ以上痛い思いをさせたくない」一心で必死に腕を掴むと、父親の力は徐々に抜けていった。ベッドサイドには、医師や看護師、二藤さんの子どもたちや親戚が揃っていた。
■「女優」始めます
母親の葬儀などの後、二藤さんは遺品整理のため、しばらく実家に滞在しなければならなかった。
最後の日、みんなで夕食会を開くと、父親は酒が飲めるのが嬉しそう。しかしそこにはもう、母親はいない。酒がなくなっても注いでもらえない父親は、二藤さんに命令した。
「おい、酒! お前は言う前にコップの量で気づけ!」
すると叔父がたしなめる。
「お兄さん。お願いするんだから、そんな言い方だと可哀そうだよ」
苦言を呈されて面白くない父親は、今にも叔父に食ってかかりそうになる。二藤さんはすぐさま、母親が亡くなったら実行に移そうと考えていた演技を始めた。
「母が亡くなり、父を一人で生活させるのは心配……。私が面倒をみなきゃいけないけど、義両親のこともある。だからお父さん、私の家の近くの施設に入ってほしい。何かあったら私がすぐ動けるようにしたいと思ってる。
それを聞いた叔父と叔母は、二藤さんを口々に褒め始める。施設に抵抗を感じていた父親も、「そこまで考えてくれていたのなら」と、まんざらでもない様子。
「私の2つの本心は親戚にもばれていません。1つ目の本心は、実家と私の家は車で4時間ほどかかるため、私がもう実家に来たくなかったこと。でも一番の本心は、これだけ距離があると、『死に目に会えないかもしれない』と思ったから。50年近く苦しみを受けてきた私は、母の分も父がもがき苦しむ姿を見ることで、復讐として満たされるんじゃないかと思っていたのです」
実は父親の施設探しは、母親ががんと診断された後から始めていた。
「父は、以前から老人ホームのことを『牢屋みたいなとこだ』と偏見を持ち、断固として拒否していました。そんな人が『良いところだ』と思う施設を探さなくてはならず、必死でした。5箇所くらい見学に行き、父の気性を話した上で引き受けてくださる施設があり、そこに申込をして空室待ちの状況でした」
そして母親が亡くなってから3カ月後のこと。
たまたま実家にいたところ、施設から「部屋が空きました」と連絡がきた。
「『このままあの人を置きに行ける!』とタイミングの良さに嬉しさがこみ上げました。母がそうしてくれたのだと思いました。
■憎まれっ子世に憚る
二藤さんは飲酒OKの有料老人ホームに父親を入所させた。ところがその4カ月後、強制退去を申しつけられる。理由は、酒を飲んで暴れ、職員にセクハラまで働いたからだった。
そのタイミングで父親は誤嚥性肺炎を起こして入院したが、すぐに回復してしまう。そして入院から2週間後。二藤さんが電話に出られず、夫が電話に出ると、父親の病院からだった。
「お義父さん、強制退院だって。看護師にセクハラだってよ」
急いで夫と2人で病院に駆けつけると、医師から信じられない話をされた。
「事情があって退職する若い女性看護師に向かって『記念に陰毛を数本くれ』と言い、お尻に手を出したのだそうです……」
二藤さんは怒りの涙が溢れ、夫は呆然と立ち尽くした。
「師長さんの話では、看護師は看護のプロだから、残りの出勤日は、父と関わらないようにシフトを組むからいいと言ってくれていました。でもこういうことがあると、入退院時の説明にもありましたが……と言いにくそうにされたので、平謝りして、次の施設が見つかるまでなんとかお願いしました」
2軒目の施設では、「アルコールは禁止」と医師から説明してもらった。
しかし2軒目の施設でも、「外出したい」と言って聞かず、大声を出したり暴れたりする。職員の手に負えなくなると、二藤さんのスマホに施設から着信がある。仕事中ですぐには対応できないと、直接父親から
「お前は俺が邪魔なんだな! よーくわかった。切腹するぞ!」
などという電話がかかってきた。
さすがに2軒目の施設を追い出されたくない二藤さんは、父親の言うことを聞いて、東奔西走していた。
それから約4カ月後。今度は施設勤務の看護師にセクハラを働いたと連絡がある。
「さみしいんや。一緒に寝てくれ」と掛け布団をあげて誘ったという。
しかし相手は60代くらいのベテラン。父親をうまくかわし、嗜めてくれた。それが面白くない父親は、ベテラン看護師や施設に対して文句を言うようになり、二藤さんは渋々3軒目を探すことにした。
■「女優」でなく「子ども」になる
2025年4月の大型連休前。2022年8月から入所した3軒目の施設で、またもや女性職員数名にセクハラをしたとの連絡があり、強制退去を申しつけられた。二藤さんは目の前が真っ暗になり、被害に遭った職員たちに申し訳ない気持ちで居た堪れなくなった。
「父は94歳です。これまで私が知っている限りで、喧嘩で刃物を持ち出し警察の世話になり、傷害事件として牢屋に入れられる、近所の女性を性的に襲おうとする、家族に包丁を振り回して脅す……なんてことがありました。昔は、姥捨山があったと聞きますが、本当にあの人、捨てたいです。情けない。恥ずかしい。なんで私ばかりが苦しまなければならないのでしょう? 先祖に責任をとってもらいたいです」
2025年2月に父親は認知症の検査を受けたが、認知機能に全く問題はなかった。「天井を見るだけでイライラする」と言うため、興奮を抑える薬が処方されたが、服薬しても父親に変化は見られなかった。
セクハラのことを知らない二藤さんの社会人の長女は、
「おじいちゃんに好物の鰻でも食べに連れて行ってあげようかな」
などと言ってくれている。
二藤さんの子どもたちは祖父の性格を知っているが、さすがに今回のことは娘に言えず、「そうだね」などと空返事をしている。
父親は施設の女性職員数人に、卑猥な言葉をかけ、身体を触り、「ベッドで一緒に寝てくれ」と言ったのだという。
「気持ち悪い」という気持ちが先立ち、会いに行きたくない二藤さんは、藁にもすがる思いでケアマネジャーに相談した。もう、「良い娘」を演じる「女優」になんてなる余裕はなかった。
「もう関係を切りたい。病院に入れてしまいたい。『元気で長生きで』なんて思ってない。なんなら、体力落ちてボケて、『早くお迎えが来てほしい』と本音を吐き出しました」
ケアマネから精神科医に伝えてもらうと、まずは病院の相談員に話をすることになった。
そこでも同様に、「もう関わりたくない。とにかく困っている。本当に助けてほしい」ということを話すと、涙が止まらなくなった。
その2日後、相談員から電話があった。
「娘さんのお考えやお父様の施設でのご様子、今までの問題、そして今回の問題、おそらくアルコール中毒の既往から、精神科への入院案件として進めさせてもらうとの医師の見解でした」
二藤さんは半ば諦めの気持ちで4軒目の施設を探し始めていたが、電話を受けて安堵した。
「精神科に入院するくらいの案件だったんだ。我慢しなくて良かったんだ。もう無理だって正直に話して良かった。女優にならず、子どもになって正直に話せて良かった……と心からほっとしました」
■共依存関係を断ち切る
二藤さんは、セクハラを知ってから1カ月経った現在も、父親と会うことを避けている。
「今頃になって、これまで自分がしてきたことを後悔しています。父が60代の頃、脳ドックで腫瘍を見つけてしまって、早期発見・早期治療してしまったこと。70代の時にトイレでぶっ倒れてチアノーゼになっていたのに、母と近所の人があの人を助けてしまったこと。近所の奥様に性的暴行した時は、母親と親しかったよしみで土下座で許されてしまいました。喧嘩で暴れたり、店員さんを包丁で刺したこともありましたが、いつも被害者が大ごとにせず示談にしてくださいました。そして、施設や病院で4度にわたり、セクハラを起こし、本人よりも私や夫が頭を下げて、新しい施設を支度してしまったこと。全部後悔しかありません」
「死んでほしい」と願うほど憎んでいるなら距離を置けば済むものを、必要以上に世話を焼いてしまう。父親と母親、そして二藤さんは、共依存関係だったのだろう。
「父親が苦しむ姿が見たいから近くの施設に入れる」と言いながら、実際に苦しみ続けてきたのは自分自身だった。
「命は大切と言いますが、こんな人にまだ生き続ける価値があるのでしょうか? 地獄という世界があったとして、あの人がそこに行くのは確定だと思いますが、私はどうなのでしょうか? 大人になった今も、私はあの人が怖いのです。小1の時からずっと、ただひたすら心の中で『死んでしまえ』と願ってきました。私はあの人のせいで歪んだ子どもになってしまいました」
共依存を断ち切るためには、まず共依存関係であることを自覚し、相手と距離を置くことが先決だ。多くの場合、共依存関係に陥っている人は自己肯定感が低く、自分の感情に蓋をしてしまっている。そうした自身に気づき、自分の本当の気持ちを理解・整理し、コントロールするための「自分の取り扱い説明書」を作ることが必要不可欠だ。
また、日本の福祉サービスは、自分から獲得しにいかないと得られない。二藤さんはよい娘を演じる「女優」になるべきではなかった。つらくない演技、親孝行者の仮面を被っていては、いつまで経っても救いの手は差し伸べられない。
そして、「子どもは親を介護しなくてはならない」という法律はない。子どもを縛るものがあるとすれば、「親を介護しない子どもは親不孝者だ」などと思い込み、「世間体」や「体裁」を気にする自分自身くらいだ。
子どもが親を介護するのは、あくまでも「余裕があれば」でいい。
憎しみ続けることと囚われ続けることは同じことだと気付いてほしい。二藤さんは父親への依存を認め、それを手放して初めて、アダルトチルドレンの自分を癒やし、自分の人生を生き始めることができるのかもしれない。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)