日本で近親性交が起こる背景にはどのようなものがあるのか。犯罪加害者の家族を支援するNPO代表の阿部恭子さんは「日本は世間へ迷惑をかけることを異常に嫌う。
※本稿は、阿部恭子『近親性交』(小学館新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ近親性交は禁忌なのか
「インセスト・タブー(近親性交の禁忌)」は、最後の人権問題と呼ばれることもある。成人同士の合意による性交であれば、家族同士であっても法的に禁止されているわけではない。
しかし、「倫理」という実に曖昧な概念によって、「普通の人はしないこと」としてポルノの世界に閉じ込められてきた。近親性交は遺伝性疾患を持った子が生まれるリスクが高いという説も、法律で婚姻の範囲を制限している根拠のひとつといわれているが、障がいのある子を産んではいけないというのは差別である。
血縁でありながら異なる環境で育った家族が、たまたま出会って恋に落ちるメロドラマのような出来事が、絶対に起こらないとは限らない。かつてタブーとされてきた同性間の結婚を認める国も増えており、日本でも訴訟が提起されるようになった。「結婚」という制度や「家族」の概念が再定義される時代、家族間の性交や結婚を認めよというカップルが現れても不思議ではない。
■日本の近親性交は「家族による性の束縛」
しかし、日本の近親性交の実態は、性の解放を求める家族同士の積極的・肯定的な結びつきではなく、社会に居場所を見つけられず家庭にこもり、家族に依存した状況下で生じる「家族による性の束縛」だった。
近親性交の当事者たちは、たとえ両者合意の上の関係であっても、家族と性交した事実を後ろめたく感じており、権利を主張するどころか事実を伏せたまま、いかに普通の家族と化して生活を送るかが課題なのである。
インセストも含む「禁断の愛」は、しばしば文学や芸術のテーマとして扱われてきた。
しかし、世間を敵に回してもふたりの愛を貫こうという強さを具えたカップルは、本書(『近親性交』)には登場していない。現代社会の価値観を揺るがすような家族同士の愛は、存在しなかった。
■個人よりも家族・世間体が優先される日本
刑事法学者で評論家の佐藤直樹氏は、『なぜ日本人は世間と寝たがるのか 空気を読む家族』(春秋社)において、世間学の視点から日本の家族を分析している。
日本では結婚式にゆくと、披露宴の会場入り口には、結婚する個人の名前ではなく、「○○家××家披露宴会場」と書いてある。このことに象徴されるように、日本の結婚は家と家とのつながりのことであって西欧のように個人と個人の間の契約とは考えられていない。
日本には「個人」がない。つまり、主体は「私」ではなく、常に「家」であり「世間」であって、恋愛やセックス、結婚といった私生活までもが「個人の選択」のように見えて、実は「家族」や「世間体」によって決められているのだ。
世間体に従うということは、幸せであることより、幸せに見えることのほうが重視されるのである。しかし実際、生活を続けていく中で、自らの感情と世間体の間にズレが生じてくることもあるはずだ。
加害者家族からの相談を長年受けていてつくづく感じることは、家族で悩んでいる人ほど、「あなたはどうしたいのですか」という質問に答えられず、世間体に即した回答を求めるのである。
しかし、アメリカやイギリスの加害者家族たちは、「私はこうしたい」と主張し、テレビカメラの前でも顔を出して堂々と意見を述べている。なぜなら欧米諸国では、個人と家族がきちんと分離されているからである。
■「世間をお騒がせして申し訳ありません」という謝罪
日本における個人と家族の境界線の不在は、加害者家族を取り巻く社会の在り方に顕著に表れている。日本には、家族から犯罪者を出した場合、一家が連帯して責任を負う縁座という制度が明治初期まで存在していた。家制度同様に、制度は消えても、家族連帯責任という思想は根強く残っており、未だに犯罪者の家族に対して苛烈なバッシングが浴びせられることがある。
本来、犯罪の責任は、罪を犯した本人が背負うものであるが、日本では、特に重大事件を起こした子の親たちは、失職を余儀なくされたり、自ら命を絶つまで責任を問われることがあるのである。
近年、日本でも疑問の声が上がるようになったが、著名人の家族の不祥事が発覚すると、加害者本人の代わりに、著名人が「世間をお騒がせして申し訳ありません」と頭を下げる謝罪会見が当然のように報じられてきた。
欧米諸国では、加害者家族が批判されたとしても、社会的責任を問われることはないが、日本では家族も社会的制裁を受けるべきといった同調圧力によって、家族は社会から排除されるのである。
■問題を抱える家族ほど社会的支援に頼らない
寄付やボランティアといった社会貢献活動が奨励される欧米諸国と違い、日本では幼い頃から「他人に迷惑をかけてはならない」と教え込まれて育っていることから社会との関わりは消極的にならざるを得ない。さらに、近年よく言われる自己責任という言葉によって、SOSを出しにくい社会になっている。
それでも、昨今、SDGsの観点から、企業も積極的に社会活動に参画するようになり、社会的孤立を防ぐ取り組みにも焦点が当てられるようになった。しかし、問題を抱える家族こそ、社会に迷惑をかけず、家族のことは家族で解決すべきと考える傾向にあり、社会的支援を遠ざけているのである。
■SNSでは匿名を好み、傍若無人になる
他人に迷惑をかけてはならないという外での厳しいルールがある反面、家庭内での差別や暴力については軽視されてきた。佐藤氏によれば、「日本人は、『世間の目』の届かないところでは傍若無人になる」という。
近年、SNSによる誹謗中傷が深刻化し、SNSの運営事業者に対し、被害を受けた人への迅速な対応を求める「情報流通プラネットフォーム対処法」が2025年4月1日に施行された。総務省の調査によれば、日本はSNSの匿名率が高く、Xの匿名率は75.1%で、アメリカ35.7%、イギリス31%、フランス45%と比べ突出している。
常に他人の評価を気にして生活するストレスの捌け口が、家庭や匿名の空間となっており、歯止めが利かなくなるのだろう。
日本は凶悪犯罪が少ないが、家族間殺人の割合が高い。韓国も同様の傾向を示しており、家族が重んじられる国の特徴という見方もある。
近親性交を引き起こす家族の親密化は、家族の中に個人が不在で、家族は一体であるという幻想から生まれているのではないだろうか。
■死ぬまで「親子関係」は終わらない
前掲書より引用する。
日本では、親が子どもの結婚に干渉したり反対したりするということがしばしば起きる。
子どもがたとえいくつになっても親の責任を問われる日本では、好むと好まざるとにかかわらず、親たちは子に対して過度のプレッシャーを抱えることになる。「いくつになっても親は親」という心情は理解できるが、日本の親たちは、「支配─服従」の上下関係に基づいて子に対する「永久監督責任」を課されているのである。
■「家族の殺し合い」にはめっぽう甘い
2019年、元農水事務次官だった男性(76歳)が、引きこもりの長男(44歳)を刺殺するという事件が起き世間の耳目を集めていた。両親は、長年、引きこもり生活を送る長男の暴力に悩まされていたという。事件直前、川崎市で引きこもりの男性が事件を起こしたことをきっかけに、息子が同様の事件を起こすのではないかという恐怖に囚われるようになり、数日後、息子の殺害に至ったと報道されている。
本件は、故意による殺人にもかかわらず、加害者の父親に同情が集まった。親の責任として当然だという意見や、将来の犯罪を未然に防いだと賞賛する声さえあった。
日本では、他人を犠牲にした犯罪に比べ、家族間の犯罪については報道も少なく、世間の評価は非常に甘い。無差別殺傷のような事件が起きると、多くの人が巻き込まれる危険性から事件の背景にまで分析が及ぶが、家庭内で起きた犯罪への反応は、敢えて乱暴な言い方をすれば、家族で殺しあうなら勝手にどうぞといったスタンスが表れている。
尊属殺人罪によって親殺しは厳しく罰せられた一方で、子殺しに対する罪は軽い。
日本では、母親が子を道連れに死亡した事件は「母子心中」と表現される。「心中」とは本来、双方の意志で命を絶つことであり、幼い子どもに明確な意志が存在するはずはなく、親による殺人に他ならない。
■家族間の被害・加害を隠蔽し続けているもの
再び前掲書より引用する。
アメリカにおいて母子心中で生き残った母親が、第一級殺人のように重く処罰されるのは、子どもは無垢で罪や汚れのない存在であり、そうした弱者を殺害することは、大人を殺害するより責任非難の度合いが大きいと考えられるからである。
日本では母子殺人について、子どもがひとり取り残されたら可哀想だと、半ば正当化されてきたともいえる。しかし、可哀想かどうかは生きてみなければわからない。子どもは権利を持った存在であり、親であっても子の生きる権利を奪うことは許されないはずだ。
家庭内での人権が確立されていないことに加え、他人を巻き込まなければ許されるといった社会的無関心が、家族間の被害と加害を隠蔽し続けているのである。
■女性の性欲は不可視化されてきた
さらに前掲書より引用する。
欧米の家族は、〈夫─妻〉の間の(中略)「愛情原理」が中心に置かれるから、お互いの間で愛情がなくなれば、簡単に離婚にいたる。(中略)しかし、日本の家族は(中略)愛情が失われても、それがかならずしも関係の破綻にはつながらない。(中略)〈夫─妻〉の関係が〈親─子〉の関係に変質するからだ。
夫からの拒絶によってセックスレスに悩まされている女性たちは実際のところ少なくないのかもしれない。
男性は旺盛な性欲が基本とされ、街には性欲を掻き立てる宣伝が溢れているが、女性の性欲は不可視化されてきた。
ところが最近、女性に人気のファッション誌でも女性向けのアダルトグッズが紹介され、女性のマスターベーションが「セルフプレジャー」として積極的に報じられるようになった。それでも、少しずつオープンになっていく性の流れに、目を背ける人々もいる。
女性の性欲を否定する男性の中には、「セックスは、男性の性欲を女性が受け入れるものだ」と言って譲らない人も存在した。女性は男性の面倒を見る相手であり、まさに母親代わりだという発想である。
■母親になった女性は性欲を捨てなければならないのか
パートナーにセックスを求めるのは、性欲の解消だけではなく、女性としての承認欲求もあるはずである。理由もなく一方的に拒絶されることは、人格を傷つけられるに等しい。それでも夫からの性行為の拒絶について、不満を訴えたり、話し合いを持ちたいとは言い出せない女性も多い。
芸能人の不倫報道でも、夫婦がどういった事情を抱えていたかはわからないにもかかわらず女性は厳しく非難される。母親であれば、「そんなことをして子どもが可哀想」といった批判が浴びせられるが、母親になったならば女性としての欲求は完全に捨てなければならないのだろうか。
そして本当に子どもが可哀想かどうかは、本人に聞いてみなければわからない。しかし、日本では子どもの気持ちより「子どもが不憫に思われる」という世間体に価値が置かれ、夫婦関係は破綻していても、家族を続けるカップルは少なくないのであろう。まさに『世間と寝る』家族だ。
格差社会が広がり、人々は「人よりいい思いをしている」という特権に敏感となっている。芸能人の不倫バッシングの盛り上がりも、「私は世間体に縛られ窮屈な生活を強いられているのにどうしてあの人は」といった妬み嫉みの表れかもしれない。
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阿部 恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長
東北大学大学院法学研究科博士課程前期修了(法学修士)。2008年大学院在籍中に、社会的差別と自殺の調査・研究を目的とした任意団体World Open Heartを設立。宮城県仙台市を拠点として、全国で初めて犯罪加害者家族を対象とした各種相談業務や同行支援などの直接的支援と啓発活動を開始、全国の加害者家族からの相談に対応している。著書に『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)、『加害者家族を支援する』(岩波書店)、『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)、『高学歴難民』(講談社現代新書)がある。
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(NPO法人World Open Heart理事長 阿部 恭子)
他人を巻き込まなければ問題ないという風潮が、近親性交の背景にある」という――。
※本稿は、阿部恭子『近親性交』(小学館新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ近親性交は禁忌なのか
「インセスト・タブー(近親性交の禁忌)」は、最後の人権問題と呼ばれることもある。成人同士の合意による性交であれば、家族同士であっても法的に禁止されているわけではない。
しかし、「倫理」という実に曖昧な概念によって、「普通の人はしないこと」としてポルノの世界に閉じ込められてきた。近親性交は遺伝性疾患を持った子が生まれるリスクが高いという説も、法律で婚姻の範囲を制限している根拠のひとつといわれているが、障がいのある子を産んではいけないというのは差別である。
血縁でありながら異なる環境で育った家族が、たまたま出会って恋に落ちるメロドラマのような出来事が、絶対に起こらないとは限らない。かつてタブーとされてきた同性間の結婚を認める国も増えており、日本でも訴訟が提起されるようになった。「結婚」という制度や「家族」の概念が再定義される時代、家族間の性交や結婚を認めよというカップルが現れても不思議ではない。
■日本の近親性交は「家族による性の束縛」
しかし、日本の近親性交の実態は、性の解放を求める家族同士の積極的・肯定的な結びつきではなく、社会に居場所を見つけられず家庭にこもり、家族に依存した状況下で生じる「家族による性の束縛」だった。
近親性交の当事者たちは、たとえ両者合意の上の関係であっても、家族と性交した事実を後ろめたく感じており、権利を主張するどころか事実を伏せたまま、いかに普通の家族と化して生活を送るかが課題なのである。
インセストも含む「禁断の愛」は、しばしば文学や芸術のテーマとして扱われてきた。
恋人同士が、身分の違いや周囲の反対を乗り越えて結ばれる物語は、いつの時代もラブストーリーの定番と言っても過言ではない。その愛が、タブーであればあるほどふたりは燃え上がり、絆を強くする。愛は社会と戦う力になり得るものである。
しかし、世間を敵に回してもふたりの愛を貫こうという強さを具えたカップルは、本書(『近親性交』)には登場していない。現代社会の価値観を揺るがすような家族同士の愛は、存在しなかった。
■個人よりも家族・世間体が優先される日本
刑事法学者で評論家の佐藤直樹氏は、『なぜ日本人は世間と寝たがるのか 空気を読む家族』(春秋社)において、世間学の視点から日本の家族を分析している。
日本では結婚式にゆくと、披露宴の会場入り口には、結婚する個人の名前ではなく、「○○家××家披露宴会場」と書いてある。このことに象徴されるように、日本の結婚は家と家とのつながりのことであって西欧のように個人と個人の間の契約とは考えられていない。
日本には「個人」がない。つまり、主体は「私」ではなく、常に「家」であり「世間」であって、恋愛やセックス、結婚といった私生活までもが「個人の選択」のように見えて、実は「家族」や「世間体」によって決められているのだ。
世間体に従うということは、幸せであることより、幸せに見えることのほうが重視されるのである。しかし実際、生活を続けていく中で、自らの感情と世間体の間にズレが生じてくることもあるはずだ。
過去の事例においても、世間の同調圧力に従わざるを得なかった家族の後悔とも取れる証言が度々出ている。
加害者家族からの相談を長年受けていてつくづく感じることは、家族で悩んでいる人ほど、「あなたはどうしたいのですか」という質問に答えられず、世間体に即した回答を求めるのである。
しかし、アメリカやイギリスの加害者家族たちは、「私はこうしたい」と主張し、テレビカメラの前でも顔を出して堂々と意見を述べている。なぜなら欧米諸国では、個人と家族がきちんと分離されているからである。
■「世間をお騒がせして申し訳ありません」という謝罪
日本における個人と家族の境界線の不在は、加害者家族を取り巻く社会の在り方に顕著に表れている。日本には、家族から犯罪者を出した場合、一家が連帯して責任を負う縁座という制度が明治初期まで存在していた。家制度同様に、制度は消えても、家族連帯責任という思想は根強く残っており、未だに犯罪者の家族に対して苛烈なバッシングが浴びせられることがある。
本来、犯罪の責任は、罪を犯した本人が背負うものであるが、日本では、特に重大事件を起こした子の親たちは、失職を余儀なくされたり、自ら命を絶つまで責任を問われることがあるのである。
近年、日本でも疑問の声が上がるようになったが、著名人の家族の不祥事が発覚すると、加害者本人の代わりに、著名人が「世間をお騒がせして申し訳ありません」と頭を下げる謝罪会見が当然のように報じられてきた。
欧米諸国では、加害者家族が批判されたとしても、社会的責任を問われることはないが、日本では家族も社会的制裁を受けるべきといった同調圧力によって、家族は社会から排除されるのである。
■問題を抱える家族ほど社会的支援に頼らない
寄付やボランティアといった社会貢献活動が奨励される欧米諸国と違い、日本では幼い頃から「他人に迷惑をかけてはならない」と教え込まれて育っていることから社会との関わりは消極的にならざるを得ない。さらに、近年よく言われる自己責任という言葉によって、SOSを出しにくい社会になっている。
それでも、昨今、SDGsの観点から、企業も積極的に社会活動に参画するようになり、社会的孤立を防ぐ取り組みにも焦点が当てられるようになった。しかし、問題を抱える家族こそ、社会に迷惑をかけず、家族のことは家族で解決すべきと考える傾向にあり、社会的支援を遠ざけているのである。
■SNSでは匿名を好み、傍若無人になる
他人に迷惑をかけてはならないという外での厳しいルールがある反面、家庭内での差別や暴力については軽視されてきた。佐藤氏によれば、「日本人は、『世間の目』の届かないところでは傍若無人になる」という。
近年、SNSによる誹謗中傷が深刻化し、SNSの運営事業者に対し、被害を受けた人への迅速な対応を求める「情報流通プラネットフォーム対処法」が2025年4月1日に施行された。総務省の調査によれば、日本はSNSの匿名率が高く、Xの匿名率は75.1%で、アメリカ35.7%、イギリス31%、フランス45%と比べ突出している。
常に他人の評価を気にして生活するストレスの捌け口が、家庭や匿名の空間となっており、歯止めが利かなくなるのだろう。
日本は凶悪犯罪が少ないが、家族間殺人の割合が高い。韓国も同様の傾向を示しており、家族が重んじられる国の特徴という見方もある。
近親性交を引き起こす家族の親密化は、家族の中に個人が不在で、家族は一体であるという幻想から生まれているのではないだろうか。
■死ぬまで「親子関係」は終わらない
前掲書より引用する。
日本では、親が子どもの結婚に干渉したり反対したりするということがしばしば起きる。
たとえ子どもが20歳をこえていても、〈親─子〉の関係が一種の「支配─服従」の上下関係として考えられている。これも、〈親─子〉の関係が、基本的には個人と個人との関係としてとらえられている西欧社会とは決定的に異なる。
子どもがたとえいくつになっても親の責任を問われる日本では、好むと好まざるとにかかわらず、親たちは子に対して過度のプレッシャーを抱えることになる。「いくつになっても親は親」という心情は理解できるが、日本の親たちは、「支配─服従」の上下関係に基づいて子に対する「永久監督責任」を課されているのである。
■「家族の殺し合い」にはめっぽう甘い
2019年、元農水事務次官だった男性(76歳)が、引きこもりの長男(44歳)を刺殺するという事件が起き世間の耳目を集めていた。両親は、長年、引きこもり生活を送る長男の暴力に悩まされていたという。事件直前、川崎市で引きこもりの男性が事件を起こしたことをきっかけに、息子が同様の事件を起こすのではないかという恐怖に囚われるようになり、数日後、息子の殺害に至ったと報道されている。
本件は、故意による殺人にもかかわらず、加害者の父親に同情が集まった。親の責任として当然だという意見や、将来の犯罪を未然に防いだと賞賛する声さえあった。
日本では、他人を犠牲にした犯罪に比べ、家族間の犯罪については報道も少なく、世間の評価は非常に甘い。無差別殺傷のような事件が起きると、多くの人が巻き込まれる危険性から事件の背景にまで分析が及ぶが、家庭内で起きた犯罪への反応は、敢えて乱暴な言い方をすれば、家族で殺しあうなら勝手にどうぞといったスタンスが表れている。
尊属殺人罪によって親殺しは厳しく罰せられた一方で、子殺しに対する罪は軽い。
日本では、母親が子を道連れに死亡した事件は「母子心中」と表現される。「心中」とは本来、双方の意志で命を絶つことであり、幼い子どもに明確な意志が存在するはずはなく、親による殺人に他ならない。
■家族間の被害・加害を隠蔽し続けているもの
再び前掲書より引用する。
アメリカにおいて母子心中で生き残った母親が、第一級殺人のように重く処罰されるのは、子どもは無垢で罪や汚れのない存在であり、そうした弱者を殺害することは、大人を殺害するより責任非難の度合いが大きいと考えられるからである。
日本では母子殺人について、子どもがひとり取り残されたら可哀想だと、半ば正当化されてきたともいえる。しかし、可哀想かどうかは生きてみなければわからない。子どもは権利を持った存在であり、親であっても子の生きる権利を奪うことは許されないはずだ。
家庭内での人権が確立されていないことに加え、他人を巻き込まなければ許されるといった社会的無関心が、家族間の被害と加害を隠蔽し続けているのである。
■女性の性欲は不可視化されてきた
さらに前掲書より引用する。
欧米の家族は、〈夫─妻〉の間の(中略)「愛情原理」が中心に置かれるから、お互いの間で愛情がなくなれば、簡単に離婚にいたる。(中略)しかし、日本の家族は(中略)愛情が失われても、それがかならずしも関係の破綻にはつながらない。(中略)〈夫─妻〉の関係が〈親─子〉の関係に変質するからだ。
夫からの拒絶によってセックスレスに悩まされている女性たちは実際のところ少なくないのかもしれない。
男性は旺盛な性欲が基本とされ、街には性欲を掻き立てる宣伝が溢れているが、女性の性欲は不可視化されてきた。
ところが最近、女性に人気のファッション誌でも女性向けのアダルトグッズが紹介され、女性のマスターベーションが「セルフプレジャー」として積極的に報じられるようになった。それでも、少しずつオープンになっていく性の流れに、目を背ける人々もいる。
女性の性欲を否定する男性の中には、「セックスは、男性の性欲を女性が受け入れるものだ」と言って譲らない人も存在した。女性は男性の面倒を見る相手であり、まさに母親代わりだという発想である。
■母親になった女性は性欲を捨てなければならないのか
パートナーにセックスを求めるのは、性欲の解消だけではなく、女性としての承認欲求もあるはずである。理由もなく一方的に拒絶されることは、人格を傷つけられるに等しい。それでも夫からの性行為の拒絶について、不満を訴えたり、話し合いを持ちたいとは言い出せない女性も多い。
芸能人の不倫報道でも、夫婦がどういった事情を抱えていたかはわからないにもかかわらず女性は厳しく非難される。母親であれば、「そんなことをして子どもが可哀想」といった批判が浴びせられるが、母親になったならば女性としての欲求は完全に捨てなければならないのだろうか。
そして本当に子どもが可哀想かどうかは、本人に聞いてみなければわからない。しかし、日本では子どもの気持ちより「子どもが不憫に思われる」という世間体に価値が置かれ、夫婦関係は破綻していても、家族を続けるカップルは少なくないのであろう。まさに『世間と寝る』家族だ。
格差社会が広がり、人々は「人よりいい思いをしている」という特権に敏感となっている。芸能人の不倫バッシングの盛り上がりも、「私は世間体に縛られ窮屈な生活を強いられているのにどうしてあの人は」といった妬み嫉みの表れかもしれない。
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阿部 恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長
東北大学大学院法学研究科博士課程前期修了(法学修士)。2008年大学院在籍中に、社会的差別と自殺の調査・研究を目的とした任意団体World Open Heartを設立。宮城県仙台市を拠点として、全国で初めて犯罪加害者家族を対象とした各種相談業務や同行支援などの直接的支援と啓発活動を開始、全国の加害者家族からの相談に対応している。著書に『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)、『加害者家族を支援する』(岩波書店)、『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)、『高学歴難民』(講談社現代新書)がある。
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(NPO法人World Open Heart理事長 阿部 恭子)
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