なぜ「為替感覚」が暮らしに必要か。エコノミストの崔真淑さんは「資産をどう持つか、働き方をどう選ぶか、子どもにどんな教育を与えるか。
それらすべてが『為替』という小さな数字の先にある大きな時代の流れにつながっている」という――。
■経済に関心がある人の直感的な不安
先日、ある企業の40代のビジネスマンの方からこんなことを訊かれました。
「旅行もモノも高すぎて、為替のニュースが怖くなってきたんですよ。“第二のプラザ合意”って言葉も聞きますけど、あれってどういう意味ですか?」
この声には、経済に関心を持つ多くの人の“直感的な不安”が表れているように思います。
ここ数年で円安が進行。輸入品は軒並み値上がりし、海外旅行は「夢のまた夢」に。給料も大きくは上がらない。2025年現在、1ドルは157~160円あたりを推移中。過去30年で最も“円が弱い”水準です。
そんな中で囁かれるのが、「“第二のプラザ合意”が近いのでは?」という見方です。歴史の教科書に出てきた、あのプラザ合意の再来です。「いや待ってくれ。
円安が苦しいって言ってるのに、今度は“円高圧力”?」というビジネスマンの嘆きは当然です。
なにしろ為替の変動は、見る者によって物語が変わる“劇”だから。円高になると、輸出企業によっては「試練の悲劇」、しかし消費者にとっては「朗らかな喜劇」。そして国にとっては「信頼の証し」という名のドラマであるとも言えます。ではさっそく、為替をめぐる表と裏、そして生活と政策の“ねじれ”について考えてみましょう。
■G5の「ドル高是正」から40年
まずは前提から。1985年9月、アメリカ・ニューヨークのプラザホテルで、G5(米・日・独・仏・英)の財務大臣と中央銀行総裁が集まり、協調して「ドル高是正」に合意したのが「プラザ合意」です。
当時、レーガン政権下の米国は“超ドル高”で輸出が不利になり、貿易赤字が拡大。特に日本からの輸入が急増していたため、「ドル安・円高」を人工的に起こす必要がありました。
その結果、ドル円相場は2年で240円台から120円台へとほぼ半減。日本の輸出産業は打撃を受け、“バブル経済”の引き金ともなりました。
こうした「多国間協調による為替修正」から40年が経とうとしている今、“プラザ合意の再来”が予見される理由は、次の3つの背景からでしょう。

■「多国間協調による為替修正」が予見されるワケ
1 円安と米国の“黙認”
2021年以降、米国の利上げで日米の金利差は拡大。一方、日本は超低金利を維持し続けたことも影響し、資金は円からドルへ流出していきました。
2024~2025年には、円相場は150~160円台をうろうろします。米国はインフレ抑制のためドル高を容認してきましたが、輸出企業の不安、貿易赤字、製造業の停滞も顕在化。よって「このままでいいのか?」という疑念が、政策担当者の間でも強まりつつあります。
2 日本の円安容認への海外の不信感
2024年、日銀はついにマイナス金利を解除しましたが、その後の利上げペースはきわめて緩慢。為替市場では「日銀は緩和マインド」と見なされており、円安の流れは続いています。
一方、欧州やアジアからは「日本は円安で輸出を稼いでいるだけ」との批判も出始めました。かつての“日本叩き”に似た構図が、一部で蘇りつつあるのです。
3 トランプ課税の“裏の狙い”
さらに注目すべきは、トランプ大統領による通商政策の強化です。「トランプ課税」は、単なる貿易政策では終わりません。通貨のルールを書き換えるための布石だとも海外主要メディアから指摘されています。
「ドル安への牽制」と「円安を誘導する国への圧力」、そして為替協調をアメリカが主導しやすくする「政治的下地」。これらすべてが、保護主義的な通商政策の“裏の狙い”かもしれないのです。
■“第二のプラザ合意”はあり得るか
さて、本題です。“第二のプラザ合意”が、近い将来に起こる可能性はあるのでしょうか。
結論から言えば、可能性はきわめて低いでしょう。ただ、「“それに近い動き”はすでに始まっている」というのが私の見立てです。理由は次の通りです。
① G5からG20の時代へ
1985年当時の世界経済は「G5」が中心でしたが、今は「G20」の時代。中国やインドなどの利害を無視できません。特に中国は通貨安を戦略的に利用する国です。米中対立の中でも、中国との関係を維持したいだろう米国。一方、西側諸国からの信頼を失いつつある中で、米国との通貨合意に踏み切る国がどれほどいるのか……。
つまり、「5カ国で合意して即実行」という構図は、今は成立しにくいのです。
② 通貨より“資本移動”が主戦場に
かつては、為替レートそのものを各国がコントロールしようとしていた時代もあります。しかし、今は違う。現在は資本市場の影響力が圧倒的に強い時代です。為替レートも、短期的には“マネーの流れ”で決まります。もしアメリカが本気でドル安を望むなら、利下げや資産購入(QE)のような「市場へのメッセージ」を出すはず。現在、トランプ大統領はFRBに利下げを要求しており、ドル安誘導をしたいようですが、長期金利の上昇やドル離れから、じわりじわりと円高に進みつつあります。
③ すでに水面下で協調が始まっている
とはいえ、日本の円安容認が国際的な批判を受けているのも事実。実際、2024年末から2025年にかけて、日米の財務当局間では非公式の為替協議が増えているという報道も。つまり、市場を動揺させずに、段階的な円高を模索している可能性があります。
要は「第二のプラザ合意」という派手な宣言はないが、それに近い“実質的な協調”がすでに水面下で進んでいる――これがリアルな現状です。
■家計に直結する為替変動への防衛策
ここまで見てきたように、マクロ経済の構造上は「ドル安・円高」の方向性が、じわじわと政策の中に織り込まれ始めています。
しかし、それがすぐに市場に反映されるとは限りません。
「通貨の潮目」は数年単位で変わりますし、地政学リスクや金融市場の混乱によって、再び円安に振れることもあり得ます。しかも、為替の問題は、大企業や政府だけの話ではありません。私たちの家計や将来設計にも直結します。
だからこそ、柔軟な備えが必要なのです。「円高になるはず」と賭けに出るのではなく、「円安が長引いても、円高が急に来ても」対応できるバランスの取れた構えです。「マクロの政策」と「ミクロの生活防衛」、いわば鳥の目と虫の目が生活者に求められている。そこへ「通貨の潮目」を読む“魚の目”が加われば無敵。とくに40代のビジネスパーソンや私のような子育て世代にとっては重要な視点です。喫緊の「円安防衛策」を具体的に考えてみましょう。
1 “円”だけで生活設計を組まない
もはや「円だけ持っていれば安心」ではない時代です。外貨資産(ドル建て債券や外貨MMF)や、海外株・REITなどを組み合わせることで、為替変動のリスクヘッジになります。
資産運用においても、NISAやiDeCoを通じての“分散”がより重要になります。「為替の未来は誰にも読めない」からこそ、複数の通貨にまたがる設計が安心材料になるのです。
2 教育費・旅行費は“ドル基準”で見積もる
円安が進めば、留学費や海外旅行費は1.5~2倍に膨らむことも。将来的な計画を立てる際は、「そろそろ円高になるはず」と楽観せず、当面はこの水準が続く前提で計画しておくのが現実的です。「円が戻れば行こう」と待ち続けるより、「1ドル160円でも行ける計画」を立てる。重要なのは、“円でしか考えない”ことからの脱却です。ドルやユーロ基準で必要額をざっくり把握しておくと、貯金や準備の計画がずっと立てやすくなります。
3 為替は“未来の景気予報”と見る
円安はインフレを招き、物価上昇、やがて金利上昇の契機になりやすい。為替の動きは、1~2年先の景気を映す鏡という側面もあります。
たとえば、「米国が利下げを始めれば、ドルは安くなるかもしれない」「日本が本格的に利上げをすれば、円高に振れるかもしれない」「貿易摩擦や地政学リスクが高まれば、これまでの反動で円が買われる可能性も」。こうした“先取りの景気予報”として為替を見る習慣が大事です。
■為替という“日常の経済”を味方につける
予測して、準備する。これからの時代、「為替に無関心」でいること自体がリスクになるのかもしれません。いわば、私たちに求められているのは「経済を完璧に読む力」ではなく、「変化のサインを見逃さない感度」だと思います。
経済とは“構造の変化”の連続だと私は考えています。為替も、株価も、金利も、「上がった/下がった」で一喜一憂するのではなく、「なぜそうなったのか」「これから何が起きそうか」という“構造の目線”で見ることが、自分を守る大きなヒントになります。
たとえば、今の円安を「一時的な現象」だと軽く見るか、それとも「構造的な通貨の信用の再編」と見るのかでは、将来への準備が全く違ってきます。
資産をどう持つか、働き方をどう選ぶか、子どもにどんな教育を与えるか――それらすべてが、「為替」という小さな数字の動きの先にある「大きな時代の流れ」とつながっている。こうした認識が、今後の“生活防衛”には不可欠です。
最後に、こんな言葉を共有したいと思います。
「経済は“読むもの”ではなく、“使うもの”へ」
今こそ、為替という“日常の経済”を、味方につけるチャンスです。
数年後、「あの時の円安がきっかけだった」と振り返る日がきっと来る。その時に「ちゃんと備えていてよかった」と思える未来になるように。変化を恐れるのではなく、変化を用いて共に動く柔軟さと冷静さを鍛えていきたい。それが私の願いです。

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崔 真淑(さい・ますみ)

エコノミスト

2008年に神戸大学経済学部(計量経済学専攻)を卒業。2016年に一橋大学大学院にてMBA in Financeを取得。一橋大学大学院博士後期課程在籍中。研究分野はコーポレートファイナンス。新卒後は、大和証券SMBC金融証券研究所(現:大和証券)でアナリストとして資本市場分析に携わる。債券トレーダーを経験したのち、2012年に独立。著書に『投資一年目のための経済と政治のニュースが面白いほどわかる本』(大和書房)などがある。

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(エコノミスト 崔 真淑 構成=池田純子)
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