トランプ米大統領の右腕として、政権運営に深く関与してきたイーロン・マスク氏。その蜜月は、NASA長官人事の対立からわずか2週間ほどで一気に崩壊した。
ヴァンス副大統領の仲介で和解を演出した2人だったが、溝は埋まりそうにない――。
■マスク氏が推す実業家にトランプ氏が不信感
5月30日、ホワイトハウスで開かれたマスク氏の退任記者会見は、表向きは和やかな雰囲気に包まれていた。トランプ大統領とイーロン・マスク氏は並んで記者団の前に立ち、柔和な笑みを浮かべる。
しかし、報道陣のカメラがオーバルオフィスに入る直前、トランプ氏は心をかき乱されていた。側近の一人が書類を手渡すと、彼の表情は固くなった。ニューヨーク・タイムズ紙によると、書類を一瞥したトランプ氏は明らかに「苛立っていた」という。
書類には、マスク氏の側近であり、マスク氏が次期NASA長官に推薦していたジャレッド・アイザックマン氏の過去が記されていた。民間宇宙飛行士として知られるアイザックマン氏が、これまでに民主党の有力議員に多額の政治献金を行っていたというのだ。
報道陣の前では平静を保っていたトランプ氏だが、撮影が終わるや否や、マスク氏を詰問した。「こういう人間は最後には必ず裏切る。我々にとって良い結果にはならない」。共和党への忠誠を重視するトランプ氏にとって、民主党への献金歴は看過できない問題だった。

マスク氏は懸命に反論した。アイザックマン氏の宇宙開発における実績を強調し、政治的な立場よりも職務の遂行能力を重視すべきだと主張した。しかしトランプ氏の怒りは収まらない。
その後、マスク氏はトランプ氏を弾劾すべきだと主張し、トランプ氏はマスク氏のスペースXなどとの政府契約を打ち切るべきだと圧力を強めた。同紙は「過去には切っても切れないように見えた2人の男が、いまや互いに対立する立場にある」と評している。
■トランプ氏肝煎りの減税法案を「醜悪な怪物」と非難
NASA長官人事での対立から2週間と経たずに、マスク氏は今度は政策面でトランプ政権と真っ向から衝突することになった。
6月初旬、政権が議会に提出した大規模減税法案に対し、マスク氏はXで激しい批判を展開した。法案を「醜悪なモンスター」とこき下ろす内容だ。政権の要職にある人物としては、あまりにも過激な表現だった。
問題の法案は、法人税率の大幅引き下げと富裕層への減税を柱とする一方で、軍事費の大幅増額と移民対策への巨額投資も盛り込んでいた。USAトゥデイ紙は議会予算局による試算を取りあげ、法案により今後10年間で3兆ドル(約430兆円)もの財政赤字が生じるとしている。日本の国家予算の約4年分に相当する赤字額だ。

政府効率化部門(DOGE)のトップとして、連邦政府の無駄遣いを削減する任務を負っていたマスク氏にとって、法案は自身の努力を無にする愚策に映った。彼は数カ月にわたって政府機関の効率化と歳出削減に取り組み、DOGEの試算によると、すでに1千億ドル以上の削減案を提示している。それなのに、削減額の数十倍の赤字を生み出す法案が提出されたのだから、怒りは理解できないでもない。
下院議長のマイク・ジョンソン氏は、批判を続けるマスク氏に直接電話をかけ、法案への理解を求めた。減税による経済成長効果や、共和党として減税の公約を履行する責任を説いたが、マスク氏は譲らない。議長は後に側近に漏らしている。「マスク氏は議会プロセスを理解していない」。理想論では政界は立ちゆかないのだ、と。
実業界の効率性を重視するマスク氏と、政治的妥協は必要だとするトランプ政権。彼らの間の溝は、この時点で既に修復不可能なほど深まっていた。
■SNSで繰り広げられた“子供のけんか”
政策面での意見の相違は、もはや政府内での調整では収拾がつかなくなっていた。6月5日、両者の対立はついに公の場で爆発することになる。
きっかけは、ドイツのフリードリヒ・メルツ新首相とトランプ大統領との会談後の記者会見だ。
記者の一人がマスク氏との関係について質問すると、トランプ氏はもはや感情を隠そうとしなかった。「失望している」と切り出したトランプ氏は、マスク氏が「トランプ錯乱症候群(TDS)」を発症したとまで言い放った。
TDSとはトランプ氏の支持者の間で流行しているフレーズであり、トランプ氏に対して闇雲に批判的な態度を取る敵対者たちを、病的な精神状態にあるとあげつらう意味で使われる。
この侮辱発言がメディアで報じられるや否や、マスク氏はXで即座に反撃に出た。自身が選挙戦で投じた2億8800万ドル(約414億円)という巨額の資金なしには、トランプ氏の当選はあり得なかったと主張。さらに政権の看板政策である関税引き上げについても、年内に景気後退を引き起こすだろうと警告した。
両者はわずか数時間の間に、互いが所有するソーシャルメディアを使って激しい応酬を繰り広げた。まるで子供の口げんかだ。トランプ氏は自身のTruth Socialで、マスク氏を「恩知らず」と罵り、マスク氏はXで政権の政策を次々と批判した。
選挙戦では固い絆で結ばれていたはずの二人は、今や支持者らを引き連れ公然と罵り合う敵同士となってしまった。CNNはこの応酬について「劇的かつ公然とした」決裂だったと表現している。
政権発足からわずか4カ月余りで訪れた、青天の霹靂だった。
■マスク氏が突かれた急所
SNS上での激しい応酬が続く中、トランプ氏はマスク氏の急所を突いた。政府がマスク氏のスペースXと結んでいる総額約220億ドル(約3兆2000億円)の契約を打ち切ると示唆したのだ。マスク氏の宇宙事業に大打撃を与える、極めて現実的な脅威だった。
窮地に立たされたマスク氏は、なりふり構わぬ反撃に出る。アメリカ製としては唯一、国際宇宙ステーション(ISS)への有人輸送手段である宇宙船「ドラゴン」を廃止すると、X上で宣言したのだ。
ロイター通信はこの発言を「前例のない爆発的発言」と表現している。現在ISSに滞在している宇宙飛行士の帰還手段を事実上、人質に取るような発言だ。ドラゴンなしには、ISSに滞在中の宇宙飛行士を地球に帰還させることができない。代替手段としてロシアのソユーズ宇宙船が存在するが、宇宙開発におけるアメリカ独立性は大きく損なわれる。
しかし、強硬姿勢はわずか数時間しか続かなかった。X上のフォロワーから冷静になるよう助言を受けたマスク氏は、「良いアドバイスだ。
ドラゴンは廃止しない」と投稿し、あっさりと前言を撤回した。
政権との対立が激化すれば、スペースXの収益への打撃は避けられない。マスク氏は政府の宇宙開発政策における自社の重要性を誇示しようとしたが、結果的に政府契約への依存度の高さを自ら証明することになってしまった。
■マスク氏が使った「黒い人脈疑惑」という禁じ手
政府契約の打ち切りをめぐり立場の弱さを露呈したマスク氏は、6月上旬、政治的にきわめて危険な一手に出た。富豪で性犯罪者として知られ、2019年に獄中で死亡したジェフリー・エプスタインの名前を持ち出したのだ。エプスタインは生前、政財界の著名人と幅広い交友関係を持っていたとされ、その「黒い人脈」は今もアメリカ社会でタブー視されている。
マスク氏はX上で、トランプ氏の名前がエプスタインの「機密ファイル」に載っているという主張を展開した。その根拠は一切示していない。CNNは、数あるマスク氏の投稿の中でもこれが「最も扇動的なメッセージ」だったと評している。証拠なく性犯罪への関与を示唆という、極めて卑劣な攻撃だった。
AP通信は、仮にエプスタイン関連文書に名前があったとしても、それだけでは不正行為の証拠にはならないと指摘している。
いずれにせよ、この時点で両者の対立は、もはや政策論争の域を完全に逸脱していた。
選挙戦で固い絆で結ばれていた二人の信頼関係は、泥沼の中傷合戦にかき消された。
■テスラの時価総額22兆円、個人資産4兆9000億円が消失
エプスタイン疑惑まで持ち出した両者の泥仕合は、マスク氏の企業価値を毀損した。6月6日、テスラの株価は14%という大幅な下げ幅を記録し、時価総額にして1500億ドル(約22兆円)が1日で失われた。
マスク氏が所有する株式の価値としても340億ドル(約4兆9000億円)が吹き飛んでおり、ワシントン・ポスト紙は、「ブルームバーグ億万長者指数の歴史上、2番目に大きな損失」だと伝えている。
株価暴落の引き金は、トランプ政権の税制改革法案に含まれていた電気自動車(EV)税額控除の廃止案だった。トランプ氏との対立により、テスラの生命線とも言えるEV優遇措置が停止される可能性が現実味を帯びてきたのだ。
イェール大学経営大学院のジェフリー・ソネンフェルド准学部長は同紙に対し、「彼の富は極めて不安定だ」と指摘した。JPモルガンのアナリストは、この措置が実施されればテスラの年間利益は約12億ドル(約1700億円)減少すると試算している。
実際、テスラは政治とは別の次元でも苦境に立たされている。マスク氏が政府効率化部門(DOGE)で推進した連邦職員の大量解雇は、消費者の反感を買い、テスラの最新四半期の利益は前年同期比で71%も減少していた。
政治への深入りが、本業のビジネスにまで悪影響を及ぼし始めたことは明らかだ。富の源泉であるテスラの経営基盤が揺らぐ中、マスク氏は政治への関与が招いた代償の大きさを痛感したことだろう。
■ヴァンス副大統領が仲裁に乗り出す
二人の対立により、ホワイトハウス内部にも動揺が広がっていた。事態の収拾に乗り出したのは、J.D.ヴァンス副大統領とスージー・ワイルズ首席補佐官だった。2人はマスク氏に電話をかけ、大統領との関係修復を促した。
仲裁において、ヴァンス氏の立ち回りは巧妙だった。大統領を支持する姿勢を明確にしながらも、マスク氏への批判は控え、両者の間であくまで中立の立場を保った。
以前行われたトランプ氏とウクライナのゼレンスキー大統領との会談では、両首脳の怒りの火付け役となってしまったヴァンス氏。以降、関与の行い方を改めたのか、今回はある意味で適役だったかもしれない。
ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、副大統領としてのヴァンス氏を「攻撃犬であると同時に問題解決者」と評価している。必要に応じて政敵を激しく攻撃する一方で、政権内の対立を調整する役割も果たしているとの分析だ。
ヴァンス氏らの仲裁は功を奏した。3日後の夜、トランプ氏とマスク氏は電話で直接会話を交わした。大統領は当初、「特に話したいとは思わない」と述べていたにもかかわらず、最終的には電話に応じた。
政権幹部たちは、世界最大の権力者と世界一の富豪の対立が長期化すれば、政権運営にも経済にも深刻な影響が及ぶことを懸念していた。両者の直接対話は、事態打開への第一歩となった。
■表面的な和解、埋めがたい溝はそのまま
仲裁の結果、ついにマスク氏は白旗を掲げた。6月11日午前3時4分、深夜にX上に投稿されたメッセージは、「トランプ大統領に関する先週の投稿の一部について後悔している。行き過ぎてしまった」と綴られている。世界が注目する中での屈辱的な降伏だった。一方、減税法案を「醜悪なモンスター」とした投稿や、選挙での貢献を主張した投稿はそのまま残した。
米公共放送のNPRの分析では、マスク氏は政府との関係悪化で事業に悪影響が及ぶことを恐れたという。完全な降伏ではなく、最低限の譲歩で事態の収拾を図ろうとしたのだろう。深夜の投稿は、眠れぬ夜を過ごした末の決断だったのかもしれない。
マスク氏の謝罪を、トランプ氏はどう受け止めたのか。ニューヨーク・ポスト紙のポッドキャストで大統領は「恨みはない」と語り、一定の寛大な態度を示した。だが同時に「しばらくは話さない」とも付け加えた。表面的な和解の裏に、埋めがたい溝が残っていることは明らかだ。
確かにマスク氏の2億8800万ドル(約414億円)の選挙資金は、トランプ氏の勝利に貢献したかもしれない。しかし、一度権力を握った大統領にとって、もはやマスク氏は必要不可欠な存在ではなかった。政府契約という生命線を握られた瞬間、マスク氏の敗色は見えていた。
同時に、トランプ氏が失ったものも大きい。あまりにも容易く冷静さを失い、子供じみたけんかを演じ世界から失望を買った。政界と実業界の盟友だった2人だが、強力に見えたタッグは政権発足から5カ月と持たずに脆さが露呈した。

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青葉 やまと(あおば・やまと)

フリーライター・翻訳者

1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。

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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)
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