■なぜハーバード大をターゲットにしたのか
――2025年3月から現在までのトランプ大統領とハーバード大学の対立をどのように見ていますか
【佐藤智恵、以下・佐藤】助成金の凍結については、十分ありうる政策だと思っていましたが、留学生受け入れ資格停止措置が発表されたときは、本当に驚きました。まさか日本人留学生に直接、影響が出るような措置に踏み切るとは思ってもいませんでしたから。この措置が発表されたのは5月22日(米国時間)。ちょうどハーバード大学経営大学院の学生たちが研修旅行で来日している最中だったので、「無事に帰国できるだろうか」と心配になりました。
トランプ大統領とハーバード大学の対立は、「トランプ大統領が極端な措置を発表する→ハーバード大学が裁判所に訴える→措置が一時差し止めになる」といったことが続いていますが、法廷闘争と平行して、水面下で交渉も続けていると思います。長々と法廷闘争を続けても、双方にとってメリットがないので、早期に妥結するのではないでしょうか。
――トランプ大統領はなぜハーバード大学をターゲットにしたのでしょうか。
【佐藤】トランプ大統領がハーバード大学をターゲットにする理由について、メディアでは「エリート」対「反知性主義」といったイデオロギーの観点から分析されていることが多いですが、私は交渉学の観点からもっと単純に考えていて、「ハーバード大学とディールをするとトランプ大統領の得になるから」だと思っています。
ではどういう得になるのか。主に3つあります。
主要国との関税交渉であえて極端な要求をしているのも、極端な数字を出せば出すほど、大きなニュースとして取り上げられるからです。ハーバード大学に対して極端な要求をするのも同じ論理です。つまり、自らが発表した施策が大きなニュースになればなるほど、無料の宣伝ができて、支持者は喜ぶ。それで目的の半分は達成したことになります。あとは、1対1の交渉に持ち込んで、自分の望むものをもらえればよいわけです。
2つめは、他の大学への影響力です。
3つめは、ハーバード大学に圧力をかけて、交渉に持ち込めば、自分にメリットのあるものを得られること。ハーバード大学には莫大な資金力と人脈があります。ディールをするときは、さまざまな交渉材料を遡上(そじょう)にのせます。何がのっているかはわかりませんが、留学生の情報だけではないのは確かです。ハーバード側が提示する交渉材料の中にトランプ大統領がほしいものが必ずあるはずなのです。
■大学基金が約7.7兆円、すぐには困らない?
――ハーバード大学には世界一の大学基金があるとのことですが、このまま政府の助成金が打ち切られても問題ないのでしょうか。
【佐藤】助成金が打ち切られても、しばらくは問題なく大学を運営できると思います。ハーバード大学の収入は年間65億ドル。うち11%(約7億ドル)が国からの助成金です。ハーバード大学は収入における国の助成金の割合が比較的低く、大学基金の運営収入や寄付などの収入も潤沢なので、仮に11%が複数年分、なくなっても、他からの収入で補えると思います。
一方、コロンビア大学は2025年3月、トランプ政権の要求に応じ、助成金の凍結を早々と回避することを選択しました。その理由は、コロンビア大学はハーバード大学よりも収入における助成金の割合が大きいことです。トランプ政権の4年間、ずっと助成金を減額されてしまえば、大学の運営そのものが危機に陥るおそれがありました。そのため、運営上の視点から、妥協することを決断したのだと思います。
とはいえ、ハーバード大学の運営にとって、23億ドル(複数年分の助成金及び契約金の総額)もの凍結は痛手であることは間違いありません。そのため、できるだけ早く解決できるように、水面下で交渉していくと思います。
■今こそ“ハーバード流交渉術”の出番
――7月21日には、ハーバード大学が助成金差し止めを巡りトランプ政権を訴えた裁判の口頭弁論が予定されています。トランプ大統領とハーバード大学の対立は、今後、激化していくでしょうか。
【佐藤】6月5日にトランプ大統領が「ハーバード大学と解決に向けた緊密な話し合いを続けており、来週ぐらいにはディールの内容を発表できる見込みだ」と投稿したことからも、両者は法廷闘争とは別に、水面下でかなり緊密な話し合いを続けていることがうかがえます。
交渉学の発祥の地であるハーバード大学には独自の交渉術があり、トランプ政権ともこの交渉術を使って話し合いを続けていると思います。
ハーバード流交渉術は、「原則立脚型交渉」(Principled Negotiation)とも言われ、アメリカの経営大学院や法科大学院で広く教えられています。
原則立脚型交渉は、次の4つの原則に基づいています。
(1)人――人と問題を切り離す
(2)利益――「条件や立場」ではなく「利益」に注目する
(3)選択肢――お互いの利益に配慮した複数の選択肢を考える
(4)基準――客観的基準にもとづく解決にこだわる
出典=『ハーバード流交渉術 必ず「望む結果」を引き出せる!』(三笠書房)
一方、トランプ大統領が使っているのは古典的な「駆け引き型交渉」。勝ち負けにこだわる交渉術です。その中でも、毎回、使っているのが「ハイボール、ローボール」という戦術です。これは交渉のはじめに極端に高い、あるいは、安い金額を最初に提示するという交渉術です。非常にわかりやすいのが現在進行中の関税交渉。極端な数字を最初に出しているのは、あえてハイボール戦術を使っているからです。
ここで交渉相手が知っておくべきなのは、トランプ大統領本人は「ハイボール戦術」で極端な要求をしているだけなので、最初から全部が全部、自身の要求が通らないことは百も承知であることです。
トランプ大統領との交渉は、ある意味、「ハーバード流交渉術」の真価が問われるものなので、この交渉術を使って、どのようにハーバード大学がウィンウィンの決着に持っていくのか、世界中が注目していると思います。
■ハーバード大はトランプに対して妥協する?
――それはつまり、双方が互いに譲歩する可能性があるということでしょうか?
【佐藤】交渉の中で重要なのは、相手の「絶対に譲れない条件」を見極めること。逆にいえば、こちらにとっては、絶対に譲れない条件でも、相手にとっては「別に譲ってもいいかな」という条件であることも多々あるわけです。
トランプ大統領は「駆け引き型」で交渉をはじめていますが、現場で交渉している政権の担当者は、「原則立脚型」を使っている可能性が高いので、ウィンウィンの合意になるのではないでしょうか。
先ほども申し上げたとおり、ハーバード問題は、大きなニュースになった時点で、トランプ大統領としては目的の半分は達成しているわけですから、次は「素晴らしい内容で合意した」というニュースがまた大きく取り上げられればよいのです。
また、繰り返しになりますが、トランプ政権には、おそらく学生ビザ保持者の情報以外にも何かほしいものがあり、「ハーバード大学と1対1の交渉に持ち込めば、政権にとってメリットがある条件を引き出せる」と考えていると思います。
双方にとって全くメリットがないのは、長々と法廷闘争を続けること。ここは一致していると思いますので、この問題は早期に妥結するのではないでしょうか。
■東大などがハーバード大の学生受け入れを発表
――万が一、ハーバード大学で学べない留学生が出る事態になった場合、留学生が東京大学に編入してくる可能性はあるのでしょうか。
【佐藤】現地の日本人留学生たちに聞いてみましたが、仮に学生ビザが差し止められても、「他の大学に転出する」という人は極めて少なく、「休学」を検討している人が多かったです。その理由は、「すでにここには多くの友人がいて、ハーバード大学のコミュニティから離れたくないから」だそうです。
万が一、アメリカの大学で学べない状況になっても、留学生が大学ランキングでハーバード大学より下のランクの大学に転出する可能性は極めて低いと思います。あるとすれば、単位を認定する交換留学のような形ではないでしょうか。
というのも、中国でも韓国でもインドでも卒業した大学のブランド力は、就職に直接、関わってくるからです。世界の一流企業や組織に就職する上でハーバード大卒のブランド力は絶大ですから、他の大学に転出する人は極めて少ないと思います。
――今後、トランプ大統領vs.ハーバード大学の対立は収まるところに収まり、関税問題ほど、大きな影響を日本にもたらさないと思いますか。
【佐藤】6月18日、米国務省は新しい指針に基づき学生ビザの申請のための面接予約を近く再開すると発表しました。これから留学する日本人学生も8~9月の入学までにビザを取得できる可能性が高いのではないでしょうか。つまり短期的には日本への影響は最小限で済んだといえそうです。
一方で、長期的には日本経済に少なからず影響をもたらすと思います。私自身、コロンビア大学経営大学院の入学面接官をつとめていますが、トランプ政権の方針で、今後、アメリカの大学における留学生の数が全体的に減ってしまわないか、アメリカ留学に挑戦する日本人学生がさらに減ってしまわないか、懸念しています。現在、ハーバード大学・大学院で学んでいる日本人学生数は110人。中国人学生数は1282人、韓国人学生数は252人ですから、近隣国にくらべても圧倒的に少ないのがわかります(出所:HARVARD International Office)。
ただでさえ、日本人留学生は少ないのに、こういう騒動があると、「学生ビザが取得できないのでは」「日本人は不利なのでは」と心配して、アメリカへの留学をとりやめる人が出てくるのではないかと。とするならば、日本にとっては大きなマイナスとなります。歴史的に見ても、日本の政治、経済の中枢において、変革リーダーとして活躍してきたのは留学経験者だからです。
ハーバード大学の教員にインタビューをすると「日本からの留学生がもっと増えてほしい」といった声を必ず聞きます。日本政府も日本企業もアメリカの大学に挑戦する学生のサポート体制をより強化し、より多くの日本の若者が留学に挑戦することを願っています。
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佐藤 智恵(さとう・ちえ)
作家、コンサルタント
1992年東京大学教養学部卒業。2001年コロンビア大学経営大学院修了(MBA)。NHK、ボストンコンサルティンググループなどを経て、12年、作家・コンサルタントとして独立。『ハーバードでいちばん人気の国・日本』(PHP新書)、『ハーバード日本史教室』(中公新書ラクレ)など著書多数。最新刊は『なぜハーバードは虎屋に学ぶのか』(中公新書ラクレ)。
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(作家、コンサルタント 佐藤 智恵 構成=池田純子)