愛子さまには「敬宮(としのみや)」という御称号があるが、報道でもあまり使われない。系図研究者の菊地浩之さんは「ファーストネームを呼ぶのは戦前なら不敬だが、内親王、女王の呼ばれ方も時代に合わせて変わってきた」という――。

■人気の三笠宮彬子さまは、大正天皇の曾孫
最近、三笠宮彬子(みかさのみやあきこ)さまに人気があるという。三笠宮家は大正天皇の四男・三笠宮崇仁(たかひと)親王を祖とする。彬子さまは、現在の天皇から見て「祖父の弟の孫である女王」ということになる。一般人なら「はとこ」「またいとこ」という関係性だ。
大正天皇は4人の男子に恵まれ、長男が昭和天皇、次男が秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王、三男が高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王、四男が三笠宮崇仁親王なのである。秩父宮殿下、高松宮殿下にはお子さんがいらっしゃらなかったが、三笠宮崇仁親王は三男二女に恵まれた。長男が三笠宮寛仁(ともひと)親王、次男が桂宮宜仁(かつらのみやよしひと)親王、三男が高円宮憲仁(たかまどのみやのりひと)親王で、寛仁親王の長女が彬子さまなのだ。なお、昭和天皇の次男、上皇様の弟は常陸宮正仁(ひたちのみやまさひと)親王だ。
なんで兄弟なのにみんな苗字が違うのか、と思われるかもしれないが、「○○宮」というのは苗字ではなく、ミドルネームなのだ。
■なぜ「敬宮」ではなく「愛子さま」と呼ぶのか
日本人男性は明治維新までミドルネームを持っており、ミドルネームで呼び合うことが一般的だった。古代中国の思想で、ファーストネーム(諱(いみな))を呼ぶことが呪術の対象になるため、タブーとされていた。だから、幕末に死んだ坂本龍馬(諱は直柔(なおなり))、高杉晋作(春風(はるかぜ))、近藤勇(昌宜(まさよし))、土方歳三(義豊(よしとよ))、沖田総司(房良(かねよし))はみんなミドルネームで呼ばれている。
天皇家のお名前は、古(いにしえ)の日本の風習を今に伝えているのだ。
現天皇は幼少時には「浩宮(ひろのみや)さま」、それから皇太子殿下。天皇陛下――とファーストネーム(徳仁(なるひと))を呼ばれないようになっている。弟宮の文仁親王も幼少時には「礼宮(あやのみや)さま」、成人後に「秋篠宮さま」と呼ばれている。浩宮、礼宮は幼名のようなもので、礼宮が秋篠宮になるのは、竹千代(幼名)が三郎(通称名)になるようなものだ。
みんなすっかり忘れているが、愛子さまは「敬宮愛子」なので、「敬宮さま」と呼ぶのが正しい。平成の天皇の清子(さやこ)内親王は、「紀宮(のりのみや)さま」と呼ばれることのほうが多かった。
ただ、現在でも男性同士の友人では苗字で呼び合うのが比較的多いのに比べて、女性同士はファーストネームで呼ぶことが多いのではないか。そういった文化的な背景から「愛子さま」と呼ばれているのだろう。
■秋篠宮家のお子さまは御称号がない
現代的なアレンジでいうならば、三笠宮、秋篠宮というのは本来個人のミドルネーム、もしくは家号である。だから、たとえば、悠仁親王や眞子さま、佳子さまにも「○宮」という幼名を用意すべきなのだが、省略されている。これが、たとえば、江戸時代の有栖川宮家であれば、個人個人に「○宮」という幼名が与えられていた。
戦後日本ではファーストネームで呼んでも、そんなに失礼には当たらないという解釈なのだろう。
また、「○○天皇」というのは諡(おくりな)(諡号)といって、法名みたいなものだ。昭和世代であれば、昭和天皇のファーストネームが裕仁(ひろひと)であることは周知の事実であろうが、平成世代には知らない方も多かろう。また、昭和世代であっても、大正天皇が嘉仁(よしひと)、明治天皇が睦仁(むつひと)であることはご存じないだろう。これもファーストネームで呼ばない知恵なのだ。
■明治、大正時代は側室がいたが、昭和天皇は…
明治天皇には六男九女、15人の子女がおり、もちろん母親は一人ではない。大正天皇の母親は側室である。昭和天皇は久しぶり(?)の正室の子で、実のところは不明だが、公式には大正天皇には側室がいない。昭和天皇は、良子(ながこ)皇后との間に最終的に二男五女をもうけるが、最初の4人のお子さんは立て続けに女子だった。周囲が側室を勧めたが、「人倫に悖(もと)ることはしたくない」と拒否している。
明治天皇の男子は、大正天皇以外はみな早世したが、大正天皇には昭和天皇を含めて4人の男子があり、次男以下は会津松平子爵家、徳川侯爵家、高木子爵家から夫人を迎えている。一方、大正天皇に娘がいないが、明治天皇の娘4人はみな当時の皇族に嫁いでいる(早世した娘を除く)。

天皇家を含む皇族は、戦前、然るべく家系と婚姻することが決められていた。そのため、明治天皇の皇后は五摂家の一条家、大正天皇は同じく五摂家の九条家、昭和天皇は旧皇族の久邇宮(くにのみや)家から迎えた。
■戦前にはたくさんの宮家があった
昭和天皇は7人の子をもうけたが、その婚姻相手は旧皇族が1人、公家(五摂家・鷹司家)が1人、大名家が3人で、明仁天皇(以下、平成の天皇と呼ぶ)の皇后のみ、旧皇族・華族以外からとなっている。平成の天皇のお子さんはいずれも旧皇族・華族以外と婚姻しており、時代の変化がうかがえる。
昭和天皇の皇后(香淳(こうじゅん)皇太后/良子)は旧皇族・久邇宮家出身である。
では、そもそも「旧皇族」とはなにか。簡単に言えば、徳川御三家のようなもので、古くに天皇家から分かれ、皇族待遇を保持していた家系である。明治天皇に兄弟がなく、維新の元勲たちが皇統の断絶を危惧して、かれらを皇族として手厚く遇した。
しかし、日本占領下の1947年の皇室典範改正によって皇籍を離脱させられた。その方々を旧皇族と呼んでいるのだ。
江戸時代末期には、有栖川宮(ありすがわのみや)、伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)の四家(四親王(ししんのうけ)家)があった。江戸時代には四親王家の後継ぎがなければ、天皇家から養子を迎えていたのだが、明治以降は養子が禁止とされ、伏見宮家以外は途絶えてしまった。

■いまや伏見宮家だけが続いている「四親王家」
閑院宮家は113代・東山(ひがしやま)天皇(1675~1710)の子を家祖として、2代典仁(のりひと)親王の子が119代・光格(こうかく)天皇として即位し、現在の天皇家に繋がっているのだが、嗣子がなく途絶えた。
有栖川宮家は107代・後陽成(ごようぜい)天皇(1571~1617)の子を家祖とし、初代は高松宮を名乗っていた。14代将軍・徳川家茂の正室、和宮が有栖川宮熾仁(たるひと)親王の許嫁(いいなづけ)だったことは有名だ。では、許嫁を失った熾仁親王は誰と結婚したかといえば、徳川慶喜の異母妹だ。慶喜の母も有栖川宮家出身で、熾仁親王の大叔母にあたる。有栖川宮家も大正時代に嗣子がなく途絶えた。次女が徳川慶喜の嫡男・慶久と結婚、その娘が昭和天皇の弟・宣仁親王と結婚して有栖川宮家の祭祀を引き継ぎ、高松宮を名乗った。
桂宮は107代・後陽成天皇の弟を家祖とし、明治時代に嗣子がなく途絶えた。伏見宮家は北朝3代・崇光天皇(1334~1398)の子を家祖とし、四親王家で唯一現在まで血脈を保持している家系である。のみならず、伏見宮家は子だくさんで、かえって皇族が増えた。江戸時代、天皇家を含む皇族で次男以下は僧籍に入ったのだが、その風習が途絶えたため、宮家が増設されたのだ。旧皇族といえば、何かとお騒がせの竹田恒泰氏も、この伏見宮家の末裔にあたる。

■元皇族の家柄、竹田恒泰氏の場合は?
たとえば、竹田氏も女系を辿れば、明治天皇の玄孫(やしゃご)にあたるのだが、男系となると、南北朝時代に分かれた家柄ということになる。
ただ、それを言ったら、14代将軍・徳川家茂と、その跡を継いだ15代将軍・徳川慶喜も江戸時代初期に分かれた家柄で、ほぼほぼ他人である。しかし、血脈でいえば、もっと近い候補(?)がいた。11代将軍・徳川家斉の娘が加賀前田家に嫁いで、自分の息子(家茂の従兄弟)を将軍にしようと画策したというのだ。「女系天皇」ならぬ、「女系将軍」だ。徳川家出身(男系)でないのに将軍位を狙うなんて荒唐無稽な、と思っていたが、現在だったら支持されてしまうのかもしれない。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。
著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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