■時給2500円時代に突入するドイツ
3年連続でのマイナス成長が視野に入るドイツは、太っ腹な分配戦略を放棄できずにいる。ドイツの最低賃金委員会は6月27日、現在12.82ユーロである法定最低時給を、2026年から13.9ユーロに、また2027年から14.6ユーロに引き上げるべきだと勧告した。
それでも、フリードリヒ・メルツ首相が目指していた15ユーロには届かなかったかたちだ。
ドイツでは、労使と学会の代表から構成される最低賃金委員会が、政府に対して最低賃金の水準を勧告するという体裁を取り、最低賃金の水準が決まる。現在、ドル不安もあってユーロ相場は堅調であり、1ユーロ=170円をうかがう勢いだ。このレートだと14.6ユーロは約2500円となる。つまり、ドイツは時給2500円時代に突入するのである。
企業業績が堅調で、それが配分されるかたちで家計の所得が増加するなら、何の問題もない。しかし、3年連続でのマイナス成長が視野に入るドイツの企業に、そうした余裕など存在しない。メルツ首相自身、経済界と近い中道右派のキリスト教民主同盟(CDU)の党首であり、本来は所得分配を可能にするためにも経済成長を重視する立場だ
しかし、メルツ首相は2027年までに最低賃金を時給15ユーロに引き上げることを目標にしていた。これは、中道左派の社会民主党(SPD)出身のオラフ・ショルツ前首相が目指していた水準でもある。経済成長を重視するメルツ首相が15ユーロに最低賃金を引き上げようとした最大の理由は、SPDに「塩を送る」ことにあったようだ。
■「最低賃金の引き上げ」の帰結としての高インフレ
メルツ首相が率いる現政権は、CDUとSPDの保革大連立だ。閣僚ポストはCDUが7、姉妹政党のキリスト教社会同盟(CSU)が3、SPDが7と、SPDに配慮された構成となっており、分配政策を担う労働相のポストはSPDのバーベル・バス共同党首が務める。
メルツ首相が最低賃金の引き上げを目指すのは、SPDへの気配りだろう。
裏を返せば、CDUとCSUがSPDに配慮するのは、ドイツで急速に支持を伸ばしている右派政党「ドイツのための選択肢」(AfD)を封じ込めるためでもある。AfDの意向が国政に反映されるのを防ぐという「大同」のためには、中道右派と中道左派という立場は「小異」となる。それゆえ、メルツ首相はSPDに対して融和的に臨んでいる。
マクロ経済的に気がかりなのが、せっかく落ち着いたインフレの加速が再燃することだ。ただでさえ経済界が悲鳴を上げている最中で、最低賃金の一段の引き上げに踏み込んだのだから、企業は労働分配を強化するためにも、さらなる値上げを行う必要が出てくる。結局、最低賃金の引き上げがインフレにつながるという悪循環を描くのである。
ドイツは2015年に最低賃金を導入したが、それ以降、賃金・物価スパイラルの傾向を強めてきた。コロナショック後の粘着的な高インフレは、ショルツ前政権が政治主導で最低賃金を大幅に引き上げたことによってもたらされた側面も大きい。仮にショルツ前政権が最低賃金の引き上げを抑制していれば、インフレの粘着性も弱まっただろう。
2024年以降の問題は、労働コストの伸びがインフレをはるかに上回っていることだ。にもかかわらず、今後、ドイツはどんどん最低賃金を引き上げるのだから、高インフレが再燃する可能性は極めて高い。
高インフレが定着すれば実質所得が目減りし、かえって消費が停滞する。つまり、スタグフレーション(景気停滞と物価高進の併存)そのものだ。
■拡張型予算も高インフレを促す
またドイツでは、現在暫定予算が執行中の本年度予算が、夏季休暇後の9月にも成立する見込みとなっている。通常予算は5030億ユーロと前年比6.1%増となるが、2026年以降も段階的にドイツは予算を拡張させることになる(図表2)。財政拡張のメインエンジンはインフラ投資と防衛支出の拡大で、歳入の不足分は国債の発行で賄う。
歳出を拡大させれば、いわゆる「乗数効果」(家計の所得増や個人消費の増加につながる効果)が働く。特にインフラ投資は、将来的な経済成長につながるものであるし、インフラの老朽化が叫ばれて久しいドイツの場合、大きな意味を持つ。しかし歳出、つまり公需は、同時にクラウディングアウト効果(民需を圧迫する効果)を持っている。
とりわけ防衛支出、要するに軍需は、クラウディングアウト効果が強い公需である。ヒト・モノ・カネが一定である中で軍需向けのモノやサービスの生産を優先するなら、民需向けの軍需向けのモノやサービスの生産が後回しになる。そのため、軍需が膨らむことは必ずしもポジティブなことばかりではなく、むしろネガティブな側面も大きい。
それに、ドイツ国民は今、働かなくなっている。
それに、移民労働力を制限する方向にもある。つまり、ヒト・モノ・カネといった生産要素のうち、特にヒトの面でボトルネックが生じている。こうした供給制約の解消なく公需、特に軍需を膨らまそうというのだから、クラウディングアウト効果は非常に強いものになると言わざるを得ない。
いずれにせよ、財政を拡張、つまり公需を膨張させると、最終需要を刺激するため高インフレにつながる。つまるところ、ドイツでは多方面からインフレ圧力が高まっていることになる。歴史的教訓から低インフレをよしとしてマクロ経済運営に努めてきたドイツだったわけが、その経済運営観は、もはや大きく転換したと言っていいのだろう。
■名目と実質が乖離している
コロナショック以降のドイツの名目GDPと実質GDPの動きを確認すると、名目GDPは急激に増加しており、コロナショック時を100とする指数で測ると、すでに130近く、3割増の状況である(図表3)。一方で、実質GDPはゼロ成長が続いており、コロナショック前のピーク時近傍にとどまっている。これは日本より深刻な状況だ。
最低賃金の大幅な引き上げや拡張型予算を受けて、ドイツの名目GDPはますます増えるだろう。一方で、その牽引(けんいん)役は高インフレに過ぎず、実質GDPはそれほど増えないと予想される。ドル不安もあってユーロ高が定着し、ドイツの米ドル建て名目GDPはどんどん増えて、日本との乖離(かいり)が拡がる。
しかし、実質GDPはあまり増えない。
ところで、ドイツでは株価が絶好調だ。企業業績はインフレで改善するので、ドイツの株価はまだまだ上がるだろう。しかし好況という実績を伴わないインフレで押し上げられた株価は、文字通りの「バブル」だから、いつ何時、それが崩壊するかも分からない不安定なものである。市場は決して、ドイツの「強さ」を評価しているわけではない。
翻って、日本の賃金は低過ぎる印象は否めず、政策的に引き上げていく必要はある程度、あるのかもしれない。ただしそれは、企業収益の範囲内でないと、消費の悪化につながるインフレにつながるだけだ。それに残念ながら、ドイツと異なり、日本の財政には余力がない。それでも財政を拡張するなら、さらなる円安インフレが日本を襲う。
(寄稿はあくまで個人的見解であり、所属組織とは無関係です)

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土田 陽介(つちだ・ようすけ)

三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員

1981年生まれ。2005年一橋大学経済学部、06年同大学院経済学研究科修了。浜銀総合研究所を経て、12年三菱UFJリサーチ&コンサルティング入社。
現在、調査部にて欧州経済の分析を担当。

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(三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員 土田 陽介)
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