なぜイスラム教では偶像崇拝が禁止されているのか。九州大学大学院准教授の小笠原弘幸さんは「魂を持つと考えられている人や動物の似姿を描くことは、神への挑戦とみなされたこともある。
とはいえ、歴史的にイスラム世界で絵画が描かれなかったわけではなく、現代では、世俗の絵画への忌避感はほとんどない」という――。
※本稿は、小笠原弘幸『オスマン帝国の肖像 絵画で読む六〇〇年史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■モスクにはムハンマドの人物画は一切存在しない
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教の流れをくむ、一神教の系譜に位置する。預言者ムハンマドは、偶像崇拝を厳しく戒め、神の似姿を造ってそれを拝むことを禁じた。彼はメッカを征服したさい、それまでカアバ神殿に納められていた多神教の神像を、棒をもって打ち壊したのである(マリアとイエスの聖母子像のみは認めた、という伝承もある)。
そのため、イスラム寺院であるモスクには、神はもちろん、預言者ムハンマドや聖者をはじめとしたいかなる人物についても、それを描いた絵や彫像は存在しない。そのかわり堂内には、幾何学的な模様、とくにアラベスクと呼ばれる草木文様が描かれるのが一般的である。
もちろん、偶像崇拝の禁止については、イスラム教だけではなく、ユダヤ教やキリスト教においても同様のおきてがある。ユダヤ教の礼拝施設であるシナゴーグは、モスクと同じく、一切の具象を排した幾何学文様で飾られている(ただし7世紀くらいまでは、聖書の場面が壁や床に描かれることがあった)。
■実はキリスト教も偶像崇拝は禁止
そしてキリスト教も、本来は偶像崇拝を禁じている。しかし、布教のさいにキリストの似姿を用いる利点が認められたため、キリスト教世界では聖画像の制作と利用が許された。このためヨーロッパでは、イエス・キリストや聖母マリア、あるいは聖者たちの聖画像が多数つくられ、教会を飾ることになる。

イエス・キリストは神ではあるが受肉しているから人たる姿を描くことは赦(ゆる)される、あるいは、物質としての聖画像を崇拝しているのではなく、それを通して神を崇敬しているから問題はない、という神学的な理由づけも行われた。
とはいえすべてが許容されたわけではなく、丸彫りの彫像は偶像崇拝に傾きやすいと見なされ、避けられることもあった。
■キリスト教は世俗の絵画は許容していた
聖画像の許容は、まぎれもなく、ヨーロッパにおける造形美術の発展を促した要因といえる。ただし、純粋な一神教の教えからいうと、キリスト教世界のありかたは、変則的だと言わざるをえず、偶像崇拝にたいする忌避感はたびたび表出した。
たとえばビザンツ帝国では8世紀、皇帝の命令によって、聖画像を否定する聖イコノクラスム画像破壊の運動が巻き起こった。これにより、国内を埋め尽くしていたであろう聖画像の多くは廃棄された。
聖画像破壊の波は100年ほどで収まったが、その影響は大きく、7世紀以前の作品はほとんど残っていない。現在の研究では、聖画像破壊運動の範囲について再検討が進められているものの、偶像崇拝否定と聖画像のあいだに、一定の緊張感があったのは間違いない。
また、16世紀に宗教改革が起こったさい、プロテスタントのカルヴァン派は聖画像を破壊することをためらわず、ネーデルラントでは貴重な宗教画が多数失われている。現在、プロテスタントの教会では、宗教的な美術品を飾らないのが一般的である。
ただし、キリスト教世界における議論は、すべて宗教的な画像についてのものであった。世俗の絵画が、問題視されることなく許容されていたことは、イスラム世界とのおおきな違いといえよう。

■人の似姿を描くのは神への挑戦
イスラム教にとってもっとも重要な書物は、預言者ムハンマドにもたらされた啓示をまとめた聖典『クルアーン(コーラン)』である。もちろん『クルアーン』には、偶像崇拝を厳しく戒めた文言が記されている。しかし、絵画そのものにたいして批判的な記述は、じつは存在しない。
絵画にたいする批判は、『クルアーン』ではなく、ハディースに記されている。ハディースとは、預言者ムハンマドの言行を、ムハンマドの教友たちが覚え記したものであり、イスラム教にとって、『クルアーン』に次ぐ重要性をもつ。
ただし、ハディースには信憑性が低いものもあり、伝承経路(誰が誰からハディースを伝え聞いたか)を精査して信憑性の高いハディースのみを集めた書籍がまとめられている。
たとえば、高名なウラマー(イスラム知識人)であるブハーリー(810~870)によってまとめられた『真正集』は、もっとも権威あるハディース集のひとつである。その『真正集』には、預言者ムハンマドが、絵画や画家に忌避感を抱いていたことを示唆するハディースが、いくつも収録されている。そこから、ふたつ紹介しよう(牧野信也訳より、一部表記を変更)。
ムスリムがマスルークと、ヤサール・ブン・ヌマイルの家に居たとき、マスルークはソファの上にある絵を見て「アブド・アッラーから聞いたところによると、預言者[ムハンマド]は〈復活の日、最もひどい罰を受けるのは、絵を描いた者達である〉と言った、そうだ」と叫んだ。
アブド・アッラー・ブン・ウマルによると、神の使徒[ムハンマド]は「これらの絵を描いた者は復活の日に罰せられ、〈お前たちの描いた物に命を吹き込んでみよ〉と命じられるであろう」と言った。

■イスラム教は世俗画も許さなかった
すなわち、人の似姿を描くのは、想像主たる神に挑戦する行為であり、許されない大罪だとするのである。
そこに、宗教画であるか世俗画であるかの区別はない。『クルアーン』に次いで信仰のよりどころとなる、権威あるハディース集にこのようなかたちで言明されては、一般のムスリムが絵画にたいして忌避感を覚えるのも、無理はなかろう。
ただし、一部のハディースには、絵画が限定的に許容されていたとする伝もある。それらによれば、ムハンマドは敷物や毛布などに描かれた絵は問題ないとした。あるいは、カアバ神殿に鎮座する多神教の神像を打ち壊したとき、マリアとイエスの聖母子を描いた絵のみは認めた、という。
こうしたハディースは、古い情報源に由来すると考えられる。しかししだいに、前述した『真正集』に見られるような、厳しく絵画への禁忌を定めたハディースにとってかわられてゆく。
■「魂のない樹木などの絵は許容する」教えもある
また、人間や動物など魂を持つと考えられた存在の絵は許されないが、樹木や生命のないものの絵であれば許容しうる、とするハディースも伝わる。実際、イスラム世界最古のモスクのひとつであるウマイヤ・モスクに、楽園を題材にしたモザイク画が描かれているのは有名である。
おなじく、イスラム教第三の聖地エルサレムにある岩のドームにも、楽園が描かれた。これらの絵は、庭園や草木、建物からなり、人や動物はみられない。その描き方は、古代ローマのモザイク装飾に影響を受けたものとされる。

なお、最古のモスクに前例があるとはいえ、モスクに風景画を描くことは、広く受容されたわけではなかった。前述したように、モスクに用いられる装飾としては、幾何学文様や草木文様のほうが一般的である。なお、18世紀のオスマン帝国では、モスクに風景画を描くことが流行したが、これは初期イスラム時代のモスクにおける絵とは文脈を異にすると思われる。
■「どうしても絵を描きたい」画家たちの弁明
伝統的なムスリム社会のあいだに、たとえ世俗的な内容であっても、人物画にたいする忌避感が存在していたことは疑いない。
しかし、イスラム世界においても、人物や動物をあつかった絵は確かに描かれたし、それはおおきな発展を遂げた。物語や歴史上の登場人物の活躍を、あるいは美しい人物や動物を、視覚的に鑑賞したい、描きたいという感覚は、自然のものであり、抑え込めるものではなかったからであろう。
ムスリムの画家たちは、前述のハディースに見られるような画家や絵画への批判にたいして、自己弁護をこころみ、絵を描くことの重要性を唱えた。
そのひとつは、画家は姿を描くだけで、その魂を写そうとするわけではない、というものである。これは、先に見た、草木や建物は魂がないため描いても良い、とする発想を応用したものであろう。
また、絵師サーディーキー(1533~1610)は、絵のなかの動物は様式化されていて現実の動物とはかけ離れているから問題はない、と画論で主張している。近代の写実主義の視点から見ると、イスラム世界の細密画で描かれた人物や動物は、陰影がなく平板にみえる。しかしこれは、画家たちが意図的に選び取った方法だということである。

■「信仰を深めるために絵画は有用」という考え
細密画がもっとも発展した王朝のひとつ、ムガル朝の君主アクバル(位1556~1605)は、信仰をより深めるために絵画は有用である、と述べたと伝わる。これは、ヨーロッパにおいて、布教のため聖画像が是とされたのに類する考え方といえるかもしれない。
イスラム世界につたわる伝説を、絵画の正統化に利用する言説もあった。『旧約聖書』に登場するダニエルは、イスラム教においても預言者として讃(たた)えられる存在である。彼は、イスラム世界においては卓越した画家だとされた。サファヴィー朝の絵師ドゥースト・ムハンマド(1564以降没)は、ダニエルの逸話を引きつつ、肖像画やそれを描く画家の正当性を訴えたのである。
■「公共の場での人物画」に対する抵抗感
イスラム世界における絵画への社会的忌避は、こうした画家たちの弁明や、実際に絵画作品が生み出されつづけたことで、徐々に後退していったといえる。それでも、プライベートではなく公に鑑賞できる場で人物画を飾ることにたいしては、かなりの抵抗があった。
19世紀に入ると伝統的な細密画はその役割を終え、西洋絵画の技法を用いた洋画が描かれるようになる。この時代にあっても、民衆のなかで絵画への忌避感は、まだ残っていた。19世紀後半のオスマン帝国において、民衆の啓蒙に尽力した文人アフメト・ミドハト(1844~1912)は、次のように述べ、絵画を弁護している。
イスラム教において厳しく禁じられているのは、絵画や彫像を拝み、これらを崇拝することです。
しかし、イスラム教における真正なる崇拝の対象である神以外を拝むのでないならば、真なる信仰を害するわけではない。したがって、この事実にたいして、家のなかの絵画については、恐れを抱く必要はありません。
■近代化で絵画への忌避感は失われつつある
絵画や彫像は、それを崇拝すれば罪だが、そうでなければ問題はない、という主張である。しかし、このように19世紀後半にいたっても根強く存在した絵画への抵抗は、20世紀に入り近代化と西洋化が加速することで、急速に失われていく。おそらく、映像をはじめとしたテクノロジーの進展が、こうした忌避感をアナクロニズムにしてしまったからだろう。
現代では、一般的な絵画への忌避はほとんど存在しないといってよい。ただし現代でも、アッラーの姿が描かれることはなく、預言者ムハンマドの肖像を描くことも基本的に避けられている。

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小笠原 弘幸(おがさわら・ひろゆき)

九州大学大学院 准教授

1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『ハレム:女官と宦官たちの世界』(新潮選書)、『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容』(刀水書房)、『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書)、編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容』(九州大学出版会)などがある。

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(九州大学大学院 准教授 小笠原 弘幸)
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