なぜ米国は広島・長崎に原爆を投下したのか。戦争終結論を研究する千々和泰明さんは「米国側では『戦争を早く終わらせるための必要悪』と認識されてきた。
本当にそうだろうか。核使用の前にそれを避けるためのあらゆる手を尽くしたようには見えない」という――。(第2回/全3回)
※本稿は、千々和泰明『誰が日本を降伏させたか 原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■日本を降伏させるには、核を使うしかなかったのか
ポツダム会談の際に首脳会談と並行して開かれた米国と英国の連合参謀本部会合では、日本の組織的抵抗を終結させる予定時期は「1946年11月15日」とされていた。1945年ではない。米国と英国は、戦争は実際よりも1年3カ月も長く続くものと想定していた。
米側からすると、この間に日本の手によってさらに多くの連合軍兵士が犠牲になり、捕虜やアジア太平洋の非戦闘員の命が危険にさらされ続けることになる。かといって、日本軍国主義の脅威を根絶するためには、無条件降伏路線からポツダム宣言以上には引き下がることはできない。
米国は、早期戦争終結を、自分たちの掲げる条件の下で実現するために、かつ自軍の犠牲を最小限に抑えるために、あらゆる手立てを講じようとした。その手立てが、核使用であり、ソ連参戦だった。
核使用のみで日本を降伏させることができるのならそれに越したことはないが、核使用には不確実性がともなうため、ソ連参戦もオプションとして保持しておきたかった。これらは、核使用による人道問題より重視された。

こうして見てみると、コスト最小化説、すなわち米国の核使用の目的が、日本との戦争を早期に終結させることによって、そうでなかった場合に生じたであろう犠牲を回避するためだったこと自体に重大な疑いを差し挟むのは難しいように思われる。
しかし、核外交説(戦後を見据えてソ連に対する外交的な威嚇のために核を使ったと見なす学説)と比べてコスト最小化説のほうが妥当性が高いとしても、それがそのまま核使用の正当化につながるわけではない。
核使用の正当化のためには、実際に核使用によって早期戦争終結につながったという効果のレベルでの検証がなされなければならないだろう。それに先立って次の問題を考察しておきたい。すなわち、「コスト最小化のための手段として核使用以外の選択肢はなかったのか」という問いである。
■「本土侵攻で米軍100万人が犠牲になる」と言うが…
核使用以外の選択肢としてまず考えられるのは、日本本土侵攻の実施である。
しかし、ドイツで行なわれたものがそうであったように、日本で本土戦がなされていれば、敵味方を問わず膨大な犠牲が生じることになっていただろう。この点について、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、日本本土侵攻における自軍の死傷者を「100万人」と見積もったとした。
これに対して、スティムソンの見積もりは核使用を正当化するための過大な数字だとする、いわゆる「100万人神話」の批判がなされてきた。たしかに100万人は言いすぎかもしれない。だが100万という数字そのものは問題の本質ではないだろう。
問題の本質は、たとえ犠牲者数の見積もりがこれより低い数万人単位であったとしても、それは民主主義国家にとって簡単に許容できる数字ではないということである。
日本側の犠牲を考えても、本土戦によってむしろ核使用よりも被害が拡大したとみられる。
また、日本本土上陸よりも米軍側の犠牲が少なくすむ通常爆撃や海上封鎖でも、やはり日本側に甚大な被害をもたらしただろう。たとえば1945年3月10日の東京爆撃の死者は約10万人である。一夜でそれだけの死者が出たような攻撃が日本降伏まで繰り返されるだろうことは、想像に難くない。
■原爆とソ連侵攻がなくても降伏していたとは言い切れない
戦後、米陸海軍の合同機関である米戦略爆撃調査団がまとめた報告書では、核使用、ソ連参戦、日本本土侵攻がなくても、日本は1945年11月1日以前に降伏しただろうとの評価が示された。
この報告書に対しては根拠が不確かだといった批判も寄せられているが、仮に正しいとした場合でも、戦争終結をめぐるたとえ1~2カ月の差であれ、犠牲者数に大きな違いが出てくること自体に変わりはない。このように、日本本土侵攻や通常爆撃、海上封鎖のような、核使用の軍事的な代替策は、必ずしも核使用よりも好ましかったわけではなかったということになるだろう。
コスト最小化のための手段として、核使用以外の選択肢はなかったのか。言い換えると、核使用より前に日本がポツダム宣言をより受け入れやすくなるようなあらゆる手立ては尽くされたといえるのか。
もちろん、即時受諾を決断できなかった日本側の責任は重大であるが、そのことを認めたうえでなお、同宣言が実際とは違ったかたちで発出されていれば、異なる結果が得られた可能性があることは指摘できる。
違ったかたちの候補のうち、たしかに天皇制存置の保証は、日本がさらに条件をつり上げてくるという逆効果を招くおそれがあるので、少なくともそれ単独では出すことが難しい条件だったし、当時の日本がソ連仲介策に最後の希望を見出していたことを勘案すると、日本がポツダム宣言を早期に受諾する決定打になったとまでは言い切れない。
しかし、ポツダム宣言へのヨシフ・スターリンの署名、核使用の事前警告、同宣言の受諾期限の設定や外交チャネルを通じた発出のいずれか、あるいはそれらのいくつかの組み合わせによって、日本側の反応が異なった可能性はあったと言えないだろうか。

■「東京陥落」は避けられた
これらのことは後知恵ではなく、ポツダム宣言発出の時点でも、日本側が早期に受諾する確率を高めることにつながると米国は理解できたはずである。
実際にポツダム会談中にスティムソン陸軍長官は、天皇制存置条項以外にも、対日宣言にスターリンの署名や核使用の事前警告のうちいずれか一つの要素を加えることで、日本を降伏に導くことができると考えていた。
ところが、リチャード・フランクなど、コスト最小化説に立って核使用を正当化する論者は、核使用の軍事的な代替策だけでなく、外交的なそれをも、さまざまな理由を挙げて否定する。フランク以外にも、歴史家のマイクル・コートは、米軍の日本本土侵攻に対する日本側の備えに着目する。そして「日本軍の増強は、日本が最後まで徹底抗戦する決意であることの証拠」だったとして、核使用以外に選択肢がなかったことを強調している。
だが、このような主張は受け入れがたい。敵の侵攻を想定した軍事的な備えを進めつつ、降伏という政治的決断を行なうことは両立できるからである。これらの論者は、もしも日本本土戦が行なわれていたら、次のように言っていたのではないだろうか。
「昭和天皇がポツダム宣言受諾の聖断を下すことは不可能だった。もし聖断が下されていれば、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相は詔書への署名を拒否しただろう。あるいは、辞表を出して鈴木内閣を総辞職に追い込み、国体護持の一条件のみによる受諾賛成派の動きを封じたに違いない。日本軍部が国体護持に加えて、占領拒否、自主的武装解除、責任者の自国による処理、の四条件にこだわり、本土決戦を呼号する限り、東京陥落は避けられなかったのである……」。

だが現実には「東京陥落」以外のコースが存在したのだ。
■米政府高官「核使用は中世の野蛮人と変わらない」
核使用は軍部を含めて米国政府の総意だったわけではなかった。ウィリアム・レーヒ大統領付参謀長は戦後、核使用を「中世の野蛮人の倫理水準と同等」の所業だったと非難している。
ポツダム宣言発出に先立つ6月19日、天皇制存置論者だったジョン・マクロイ陸軍次官補は、当時は暫定委員会の大統領特別代表のポストに就いていたジェームズ・バーンズに、もし日本側が米側からの天皇制存置の保証の申し出を拒否した場合、米国が核を保有していることを明らかにし、「原爆の具体的な警告を与える」との意見を伝えた(James Reston, Deadline)。
また6月28日、海軍省のラルフ・バード海軍次官はスティムソン陸軍長官に覚書を提出した。このなかでバードは、次のような提言を行なっている。
「三巨頭会談〔ポツダム会談〕後に、米国の使節が中国沿岸のどこかで日本代表と接触し、ソ連の態度を伝え、原爆使用計画を知らせるとともに、無条件降伏後における皇帝〔天皇〕および日本国の処遇に関して大統領がどのような保証をするつもりでいるかを伝えるべきである。それによって、日本が探し求めている機会を提供することになるのは確かだ」。
たしかにこの提言には現実離れしたところもある。バード自身も、このような方策が成功するかどうかは分からないと認めている。それでもバードはこう言った。
「唯一の方法は、試みてみることである」。

■「都市への爆撃」が日常化していた
そしてバードの提案のいくつかは、(中国で日米両国代表が接触するということではなくとも)ポツダム宣言発出という実際にとられたかたちの一部を修正するだけでも盛り込むことが可能なものだった。
ここまで、核使用より前に日本がポツダム宣言をより受け入れやすくなるようなあらゆる手立ては尽くされたと言えるのか、という問題を中心に検討した。そうではなかった、というのが本稿の結論である。
その背景には、ヨーロッパも含め第二次世界大戦を通じて都市への爆撃が「日常化」するなかで、敵国民の大量虐殺に関する感覚が麻痺(まひ)していたことが考えられる。日本本土に対しても、1944年末から米軍による戦略爆撃は激しさを増し、前述のとおり1945年3月の東京爆撃では民間人を中心に約10万人が殺害されるなど、すでに各地に壊滅的な被害がもたらされていた。
また、多額の予算を投入して開発した核が結局は使われなかったという場合に責任当局が米国内から批判にさらされることへの恐れや、せっかく開発した新兵器の効果を測ってみたいという残酷な思惑も一部に存在しただろう。これらも、核使用に関する慎重さを欠く背景になったといえるだろう。
■広島・長崎への核使用は、慎重さに欠けていた
加えて、最初の広島に対する核使用から、次の長崎への使用までにわずか3日しかあいだが空いておらず、二発目の核使用の是非についてあらためて検討された形跡がないことも見過ごすことはできない。
都市とそこに住む民間人に対する核使用という、人道主義に合致しない行為の前に、それを避けるための十分な手立てが打たれたとは言い切れない。これは歴史家のサミュエル・ウォーカーの言葉を借りると、「原爆を使用しないという動機の欠如」と言い換えることができるだろう。
核使用が慎重さに欠ける行為だったことは、たとえそれが核外交のためではなく、コスト最小化のためであったとの立場に立ったとしても、認めざるをえないのではないだろうか。

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千々和 泰明(ちぢわ・やすあき)

防衛研究所国際紛争史研究室長

1978年生まれ、福岡県出身。
広島大学法学部卒業。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士課程修了。博士(国際公共政策)。防衛省防衛研究所教官、内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)付主査、防衛研究所主任研究官などを経て、25年より同研究所国際紛争史研究室長。専門は防衛政策史、戦争終結論。主な著書に『安全保障と防衛力の戦後史 1971~2010』(千倉書房、猪木正道賞正賞)、『戦争はいかに終結したか』(中公新書、石橋湛山賞)、『戦後日本の安全保障』(中公新書)、『日米同盟の地政学』(新潮選書)、『誰が日本を降伏させたか』(PHP新書)などがある。

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(防衛研究所国際紛争史研究室長 千々和 泰明)
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