若手社員の扱い方が分からず悩む上司層は多い。Z世代の生態を研究する経営学者、舟津昌平氏は「例えば若者から飲み会に行く意義について尋ねられたら。
まずは飲み会離れの背景に何があるか、正しく理解する必要がある」という――。
※本稿は、舟津昌平『若者恐怖症――職場のあらたな病理』(祥伝社)の一部を再編集したものです。
■あのとき社会の敵になった「酒」
若者と飲み会を語る時代背景として欠かせない要因がある。コロナ禍である。お酒の消費量は、2019年から2020年にかけて激減とまではいかずとも過去より大きなペースで減少した。「コロナ世代」、つまり2020年度に学校生活を経験、特に大学に入学した学生は飲み会文化を比較的経験できていない。職場の飲み会を肯定的にとらえる意見として次のような声も見受けられる。
「自分が大学のときはコロナで全然飲み会ができなかったので、むしろ会社で経験できるのが楽しみ」
飲み会の舞台となる居酒屋はコロナ禍初期に真っ先に「社会の敵」になった。酒を飲んで会話することが犯罪のように扱われ外食して飲み歩く著名人がどんどん摘発された。いま考えてもゾッとする異常な社会である。「飲み狩り」がほとんど省察されず、社会が半ば意図的に忘却したことに筆者は恐怖を覚える。
■「ワケわからん若者」が生まれた理由
若者が飲み会離れしているとしたら、酒を飲まなくなっているとしたら、それは若者の自主的で自由な行動変容ではなく、社会やオトナがそうさせているのではないだろうか。

若者恐怖症に紐づく言説はいずれも、エイリアンである若者がワケわからん言動をするというイメージに基づいている。ただそのワケわからん言動の根源は社会構造にあるんじゃなかろうか。「最近のわけぇのは飲み会誘っても来ないんだよねえ」と嘆いて不思議に思うとして、原因はオトナ側がつくっている可能性が高いはずだ。
■もはや懐かしい、学生が飲酒していた時代
一例として「自由の学風」で著名な京都大学を挙げよう。京都大学の文化祭は11月に行われるため通称11月祭と呼ばれ、「前夜祭」には2012年まで教員酒場という名物コンテンツがあった。教員有志の寄付により無料で酒類を提供していたのである。教員と学生が無料で酒を飲む絵づらは昭和そのものだ。この11月祭には毎年のように救急車が出動していた。理由は学生の急性アルコール中毒である。教員酒場との因果関係は定かではないが迷惑きわまりないのは事実だ。
そういった実態が黙認されていたなか2013年に転機が訪れる。教員酒場は恒例行事とはいえ教員と学生の合同イベントであるため毎年大学側にお伺いを立てる。
ところが突然「事実上の自粛を求められた」のだという(コロナ禍に先駆け自粛を要請する先進的な大学)。議論を重ねた結果、最終的に「教員が無償で酒類を提供した結果事故が生じる可能性を完全に防ぐことができない」ことを理由として翌年から「教員甘酒」になった。
■若者の育った背景を知る
この話と軌を一にする経験がある。当時の体育会系の部活に対し「未成年飲酒が発覚したら即廃部にする」という通達がなされたそうだ。この手の話は明文化された通達とも限らず実際にはどうだったのか不明な点もあるし、本当に廃部になった部活はなかったようだが。
ただ、大学生の飲酒が社会で長らく黙認されてきたのは自明であり困惑の声も多かった。現役大学生からは「厳しすぎる」という声もあった。脅しにしても「一発廃部」は過剰にも思える。
強調したいのは、別に大学生に未成年飲酒を認めろとか昔はおおらかで良かったとか、そういうことではない。未成年飲酒に起因する死亡事故は定期的に起きるし学祭のたびに救急車を呼ぶのは異常だ。規制は仕方ないというか当然である。
しかし、そうした背景で育った若者が進んで飲み会に行こうと思わないのは自然ではあろう。
若者の飲み会離れが起きているとして、それは若者どうこうではなく周りが変わったからじゃないのか。若者を変人扱いして恐怖する前に、背景事情を考えるべきだ。
■飲酒は代表的な「愚行権」
職場の飲み会の鍵はインフォーマルコミュニケーションにある。自然で密なコミュニケーションが焦点であり目的だ。この目的を鑑みると飲酒は手段のひとつでしかない。
そして酒を飲むことは社会において害悪とみなされつつある。健康リスクと不可分であり酒の失敗も世にあふれている。著名人もたくさん酒でトラブルを起こしている。にもかかわらず人類は酒を飲み続けている。ストゼロを口にする。愚かである。人類が口にした禁忌は知恵の実ではなくアルコールだったのではなかろうか。

「汚いもの」がかき消され「間違ったもの」が糾弾されるデオドラントな世の中で、頽廃の象徴のようにストロングチューハイが消費される。若い女性も与している意味で、老若男女問わないふるまいだろう。そこには確かに、愚かな行いで欲望を満たしたいという煩悩が、切り離せない人間の根っこがあると感じられる。人間には愚行権があるのだ。
愚行権について述べた著名な本にジョン・スチュアート・ミルの『自由論』がある。愚行権は「他の人から見て賢明であるとか正しいからといって、何かを強制することは正当ではあり得ない」とする考えに基づく。
■若者に愚行を教えるのも会社の度量ではないか
「医療の中止」は代表的な愚行権である。積極的に生き延びたくないから薬を飲もうとしない人がいたとして、他人は愚かだと言おうが自分の意思に基づく限り愚行権として行使できる。日本を含む多くの国で認められた権利である。
「トー横キッズ」や「限界OL」がストゼロに溺れたのも、つらい世の中を生き抜くための本人なりの善処であり愚行権の行使なのだろう。いやホントに。
イマドキの若者は大学やコロナ禍における飲酒の制限からもわかる通り、教育の過程で相当に愚行を制限されているから愚かな行いに慣れていない可能性がある。
時には愚行権行使のリアルを教えてあげるのも会社の度量ではなかろうか。楽観的すぎるだろうか。
■「飲み会に行かないと損しますか?」と訊かれたら
最後に、職場の飲み会問題に残った重要な論点について触れておきたい。
飲み会がインフォーマルコミュニケーションの場であり繰り返し行われる限り、毎回参加する人同士でコミュニケーションを重ね、まったく出ない人はコミュニケーションをとらなくなっていく。必然的に出席者と欠席者のあいだに情報や信頼の格差が生じる。これは当然、仕事の出来不出来や昇進にもかかわる要素になるだろう。
若者としては率直に訊いてみたい点だろう。「行かないと損しますか?」と。難問である。だって「インフォーマル」なのだ。会社が命じたわけではない。たとえば休日に自分の家で仕事に関する勉強をしている人が結果的に成果を上げ昇進しても、まあ不公平だとか文句はそうそう出ないだろう(いや、不公平だと主張する方は必ずいる。
公平性は現代において議論が著しく錯綜する危険な議題である)。
「でもインフォーマルだし……」と言いたいところだが、飲み会は性質としては半公式、セミフォーマルに近い。「行かないと損するんですか?」という問いに、会社としての答えは準備しておく必要がある。
■「飲み会に行く意味はありますか?」と訊かれたら
若者に「飲み会って行く意味ありますか?」と訊かれたら何と答えたらいいだろうか。
よく「勉強をする意味ってなんですか?」みたいな問いが浮上する。専門家っぽい人がまことしやかに「勉強をしないといけない理由は実は……」とか言ってバズって、「勉強をしないといけない理由に絶賛の声」などのネット記事が書かれる。
しかしこの手の「理由」に、いったい何の意味があるだろうか。勉強を嫌がる子どもに勉強しないといけない理由を訊かれて「将来役に立つからだ」とか「悪い人に騙されないためだ」と答えたとしよう。こうしたもっともらしい理由の導出には不備がある。
まず、もっともらしい理由が説得に役立たないことは当然ある。「将来役に立つんだよ」と言ったとして「データは? エビデンスは?」とか返してくるク○ガキだったら、まあ説得は困難である。エビデンスは教育学や社会学で丁寧に積み重ねられている。そしてエビデンスを示す文献は、大人に難癖付けて勉強を渋るような子どもには理解不可能な程度には難しい。エビデンスの理解自体がもはや勉強である。
■「理由バトル」の意味
もうひとつ重要なのは、実際に勉強をしている子どもの動機がそうした理由に基づいていないことである。毎日こつこつ勉強する感心な子どもに理由を問うたら「親がやれと言った」「お小遣いやご褒美を貰える」「○○に負けたくない」などがほとんどだろう。「理由……? 考えたこともない」と言うかもしれない。
こうした動機を苦々しく思う人もいそうだ。でも、結果的に勉強してたらいいとも言えるのではないか。もっともらしい理由を知ってて勉強しないのと、たいした理由もないけど勉強しているのだったら後者のほうがよほど望ましい。少なくとも会社の仕事に置き換えたら、後者のほうが社内評価も昇進機会も周りの信頼も得られるだろう。
昨今「理由バトル」をしている方々を見受けることがあるが、かなり無意味だと思う。理由を特定したとて実際に人は動かないし、動く人の動機にもなっていないからだ。
■もっともらしい理由は必要か
人間が生きる理由とは何か。結婚する理由とは。こうした問いは深遠であり、そして回答困難だ。この「理由」は「意味」や「動機」など他の言葉にも置換可能で、かつ混用されている。インフルエンサーが語ったとかで、人間が生きる理由がもっともらしく確定されたとしよう。でも、インフルエンサーが素晴らしい理由を見いだしたところで、ほとんどすべての人は「気付いたら生きていた」わけであり、現前の生は確たる理由に基づいていない。われわれがいま生きる理由は別に説明できない。
むしろ理由というより意味を見いだして、意味を「構築」していくのがふつうだ。万人が納得可能な理由など往々にして存在せず、理由は個々で築く固有のものなのだ。
飲酒だって、「酒を飲む理由を教えてください」と言われても困る。うまいからだよ。楽しいからだよ。納得できる理由にはなってないですとか言われても、知らんがな……君を納得させるために飲酒してるわけないでしょ……としか言えないだろう。
飲み会も同じだ。何のために行くんですか? もっともらしく理由を求める若者がいたら、親切に言ってあげるべきだと思う。行きたいからだよ。あなたが行きたいのかは自分で考えなさいよ、と。

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舟津 昌平(ふなつ・しょうへい)

経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師

1989年、奈良県生まれ。京都大学法学部卒業、京都大学大学院経営管理教育部修了、専門職修士(経営学)。2019年、京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。京都産業大学経営学部准教授などを経て、2023年10月より現職。著書に『経営学の技法』(日経BP社)、『Z世代化する社会』(東洋経済新報社)、『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房/2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門、2024年度企業家研究フォーラム賞著書の部受賞)、『組織変革論』(中央経済社)など。

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(経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師 舟津 昌平)
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