京セラ創業者の稲盛和夫さんはどんな少年時代を過ごしていたのか。長年取材をしていたジャーナリストの井上裕さんは「最初に『ど真剣』に生きたのは、一家が闇市で生き延びた戦後しばらくの頃だろう。
※本稿は、井上裕『稲盛和夫と二宮尊徳 稀代の経営者は「努力の天才」から何を学んだか』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■海水をドラム缶で炊いて作った塩を売り歩いた
稲盛が最初に「ど真剣」に生きたのは一家が闇市で生き延びた戦後しばらくの頃だろう。
小柄で華奢な母・キミが稲盛も驚く気丈さを発揮し、闇市で仕入れた古着と村で買った食糧の物々交換で一家を支えていたのは(本書で)前述の通りだ。母だけを働かせるわけにはいかない。中学生の稲盛も父や兄と一緒に作った焼酎を闇市でさばいたり、海水をドラム缶で炊いて作った塩を売り歩いたり、自分にできることをやった。物資統制下、誰もが今日を生き延びるのに必死で闘っていた時代だった。
稲盛は後に自家製の焼酎や塩は品質に優れ、よく売れたと冗談交じりに自慢しているが、それは定かではない。むしろ、ドラム缶をほかの廃材を使って塩の簡易製造装置に組み上げたり、焼酎造りの温度管理を徹底したりするところは、稲盛が子どもの頃から技術者向きだったことを彷彿とさせ、面白い。
一家は終戦の3年後、疎開地の小山田から市内の薬師町に戻る。稲盛は高校進学を希望するが、父・畩市の猛反対に遭う。
それもそうだ。
■「高校へ行きたい」の一点張りで進学
ここで稲盛は「ごてやん」ぶりを発揮する。「高校へ行きたい」の一点張りで、平手打ちに遭っても、家の外に放り出されても初志を曲げない。結局、畩市が折れて、天保山に残っていたわずかな土地を売り、学費に充てた。
人の人生には譲れない分岐点がある。ここで稲盛が折れていたら、その後の稲盛の人生は相当変わっていただろう。進学がすべてではない。だが、その後、稲盛が鹿児島大学でセラミックスの研究に没頭し、京セラを起こし、通信自由化に身を投じ、日本航空(JAL)の再建を成功させたことを考えると、ごねて人を困らせる「ごてやん」ここにありと思わずにはいられない。岩をも通す信念。晩年の稲盛の言葉だ。
高校に進んだ稲盛は、父に少しでも報いようと紙袋売りの仕事に精を出すようになる。空襲で印刷所を焼かれ、家も失った失意から仕事をしようとしなかった畩市が、ようやく始めたのが紙袋作りの仕事だった。印刷の技術が生きたからだ。キミもそれを手伝った。稲盛は父母が作った紙袋を猛然と売りさばいた。いわば、家族総出での内職だった。
■人は人として正しいことをしなくてはならない
そうこうするうちに、稲盛家の紙袋は鹿児島市内の菓子店、菓子問屋からほかの商店、問屋へと、どんどん使われるようになり、生活は安定に向かった。稲盛も人の子だ。高校に入ると好きだった野球に熱中した。この時、稲盛を叱り飛ばしたのも、やはりキミだったという。親の苦労を見ていながら、よくもお前は遊んでばかりいられるものだ、と。
子供の頃の稲盛はやることも早いが、反省も早い。西田小のガキ大将の時からそうだった。やっちまった、と思うとすぐに自分を正した。
人は人として正しいことをしなくてはならない。稲盛は郷中の教え、またキミから幾度となく躾けられたこの大事を思い出し、猛反省したという。以来、稲盛は何をするにも「これは人として正しいことなのか」を自問し、身を処すことを覚えた。両親への感謝もこの先ずっと忘れなかった。
■結核が向かわせた「大量の読書」
稲盛は書物や講演で、幼い頃、若い頃の自分にはツキがなかったと語っている。おそらく中学受験の失敗やその頃に患った結核のことを言っているのだろう。しかし、私は稲盛からそうした愚痴を聞いたことは一度もない。むしろ、当時「不治の病」と恐れられた結核が稲盛を大量の読書に向かわせ、人間を超える力の存在に気づかせたことのほうが、稲盛の思想形成を見るうえで重要と考える。
小学校でガキ大将に育った稲盛は、中学、高校では人懐っこい笑顔で周囲を笑わせる明るい青年に育っていた。
明るい「ごてやん」は薬師町の家の近所でもかわいがられた。ある時、結核の初期症状である肺浸潤が見つかり、病床に伏した稲盛をかわいそうに思い、近所の奥さんが見舞いに来てくれた。そして、「これを読みなさい」と置いていったのが生長の家の創始者、谷口雅春の『生命の實相』だった。累計発行部数1900万部ともいわれ、戦前から一般家庭でもよく読まれた書物だ。
■著書で「12歳の時の闘病生活」を振り返り…
稲盛哲学を研究、伝承するため、京セラが2002年に創設した稲盛ライブラリー(京都市伏見区)は、この『生命の實相』を稲盛思想の源流と位置づける。ライブラリーによれば、『生命の實相』には「善きことは必ず成功する」「人生は魂が勉強する学校」「利己の否定」などの記述があり、稲盛の思想形成に少なからず影響を与えたと見られるという。
稲盛は逝去する3年前、87歳で出した著書『心。』(サンマーク出版刊、2019年)で、12歳の時の闘病生活をこう振り返っている。
「幼い私にとってそれは、暗くて深い死の淵をのぞいたような強烈な体験でした」「人生で起こってくるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。(中略)それは、この世を動かしている絶対法則であり、あらゆることに例外なく働く真理なのです」。そうした心のありようについて最初に気づくきっかけとなったのが『生命の實相』だったという。
稲盛は『心。』をこう書き出している。
「これまで歩んできた八十余年の人生を振り返るとき、そして半世紀を超える経営者としての歩みを思い返すとき、いま多くの人たちに伝え、残していきたいのは、おおむね1つのことしかありません。それは、『心がすべてを決めている』ということです」
私には稲盛の遺言にしか聞こえない。
■宗教的素養が持つ「土着的側面」
稲盛の宗教的素養は郷中教育と同様に土着的側面がある。「たしか5歳か6歳の頃」と、稲盛は亡くなる4年前のインタビュー(『日経トップリーダー』2018年3月号)で幼少期の思い出を語っている。鹿児島、特に小山田地方には「かくれ念仏」という読経の習わしが古くから伝わっていた。「ナンマン ナンマン アリガトウ」の念仏である。
稲盛と兄の利則はある晩、祖父と父に連れられ小山田の山を登った。提灯を下げ、山道を行き、1軒の民家にたどり着く。仏壇が押し入れの中に置かれている。経を読むお坊さんから稲盛兄弟はこう教えられたという。
「ナンマン」は南無阿弥陀仏の訛ったものだ。小山田には親鸞が開いた浄土真宗の信仰と弾圧の歴史があった。
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井上 裕(いのうえ・ゆたか)
ジャーナリスト
1957年東京生まれ。82年早稲田大学第一文学部卒、日本経済新聞社入社。東京社会部、長野県松本支局、産業部、欧州総局(ロンドン)特派員などを経て、2005年『日経ビジネス』編集長。その後、産業部長、証券部長、電波本部長などを歴任し、2013年制作担当としてBSジャパン(現・BSテレビ東京)取締役に就任。テレビ東京メディアネット代表取締役社長、テレビ東京顧問などを歴任。新聞記者時代から稲盛和夫氏を長く取材してきた。
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(ジャーナリスト 井上 裕)
父や兄と一緒に作った焼酎を闇市で捌いたり、海水をドラム缶で炊いて作った塩を売り歩いたりしていた」という――。
※本稿は、井上裕『稲盛和夫と二宮尊徳 稀代の経営者は「努力の天才」から何を学んだか』(日経BP)の一部を再編集したものです。
■海水をドラム缶で炊いて作った塩を売り歩いた
稲盛が最初に「ど真剣」に生きたのは一家が闇市で生き延びた戦後しばらくの頃だろう。
小柄で華奢な母・キミが稲盛も驚く気丈さを発揮し、闇市で仕入れた古着と村で買った食糧の物々交換で一家を支えていたのは(本書で)前述の通りだ。母だけを働かせるわけにはいかない。中学生の稲盛も父や兄と一緒に作った焼酎を闇市でさばいたり、海水をドラム缶で炊いて作った塩を売り歩いたり、自分にできることをやった。物資統制下、誰もが今日を生き延びるのに必死で闘っていた時代だった。
稲盛は後に自家製の焼酎や塩は品質に優れ、よく売れたと冗談交じりに自慢しているが、それは定かではない。むしろ、ドラム缶をほかの廃材を使って塩の簡易製造装置に組み上げたり、焼酎造りの温度管理を徹底したりするところは、稲盛が子どもの頃から技術者向きだったことを彷彿とさせ、面白い。
一家は終戦の3年後、疎開地の小山田から市内の薬師町に戻る。稲盛は高校進学を希望するが、父・畩市の猛反対に遭う。
それもそうだ。
戦前、羽振りのいい頃は衣装持ちだったキミの着物も、売り尽くしてもはやない。一家挙げての闇市での商売も闇市自体がすでに廃れ始めており、家計に余裕はない。長男はなんとか高校に行かせたが、次男のお前は働いて家計を助けてもらいたいというのが、畩市の本音だった。
■「高校へ行きたい」の一点張りで進学
ここで稲盛は「ごてやん」ぶりを発揮する。「高校へ行きたい」の一点張りで、平手打ちに遭っても、家の外に放り出されても初志を曲げない。結局、畩市が折れて、天保山に残っていたわずかな土地を売り、学費に充てた。
人の人生には譲れない分岐点がある。ここで稲盛が折れていたら、その後の稲盛の人生は相当変わっていただろう。進学がすべてではない。だが、その後、稲盛が鹿児島大学でセラミックスの研究に没頭し、京セラを起こし、通信自由化に身を投じ、日本航空(JAL)の再建を成功させたことを考えると、ごねて人を困らせる「ごてやん」ここにありと思わずにはいられない。岩をも通す信念。晩年の稲盛の言葉だ。
それが中学生、稲盛の未来を救った。
高校に進んだ稲盛は、父に少しでも報いようと紙袋売りの仕事に精を出すようになる。空襲で印刷所を焼かれ、家も失った失意から仕事をしようとしなかった畩市が、ようやく始めたのが紙袋作りの仕事だった。印刷の技術が生きたからだ。キミもそれを手伝った。稲盛は父母が作った紙袋を猛然と売りさばいた。いわば、家族総出での内職だった。
■人は人として正しいことをしなくてはならない
そうこうするうちに、稲盛家の紙袋は鹿児島市内の菓子店、菓子問屋からほかの商店、問屋へと、どんどん使われるようになり、生活は安定に向かった。稲盛も人の子だ。高校に入ると好きだった野球に熱中した。この時、稲盛を叱り飛ばしたのも、やはりキミだったという。親の苦労を見ていながら、よくもお前は遊んでばかりいられるものだ、と。
子供の頃の稲盛はやることも早いが、反省も早い。西田小のガキ大将の時からそうだった。やっちまった、と思うとすぐに自分を正した。
人は人として正しいことをしなくてはならない。稲盛は郷中の教え、またキミから幾度となく躾けられたこの大事を思い出し、猛反省したという。以来、稲盛は何をするにも「これは人として正しいことなのか」を自問し、身を処すことを覚えた。両親への感謝もこの先ずっと忘れなかった。
■結核が向かわせた「大量の読書」
稲盛は書物や講演で、幼い頃、若い頃の自分にはツキがなかったと語っている。おそらく中学受験の失敗やその頃に患った結核のことを言っているのだろう。しかし、私は稲盛からそうした愚痴を聞いたことは一度もない。むしろ、当時「不治の病」と恐れられた結核が稲盛を大量の読書に向かわせ、人間を超える力の存在に気づかせたことのほうが、稲盛の思想形成を見るうえで重要と考える。
小学校でガキ大将に育った稲盛は、中学、高校では人懐っこい笑顔で周囲を笑わせる明るい青年に育っていた。
後年、記者会見などでも見せた、はにかむような笑顔だ。
明るい「ごてやん」は薬師町の家の近所でもかわいがられた。ある時、結核の初期症状である肺浸潤が見つかり、病床に伏した稲盛をかわいそうに思い、近所の奥さんが見舞いに来てくれた。そして、「これを読みなさい」と置いていったのが生長の家の創始者、谷口雅春の『生命の實相』だった。累計発行部数1900万部ともいわれ、戦前から一般家庭でもよく読まれた書物だ。
■著書で「12歳の時の闘病生活」を振り返り…
稲盛哲学を研究、伝承するため、京セラが2002年に創設した稲盛ライブラリー(京都市伏見区)は、この『生命の實相』を稲盛思想の源流と位置づける。ライブラリーによれば、『生命の實相』には「善きことは必ず成功する」「人生は魂が勉強する学校」「利己の否定」などの記述があり、稲盛の思想形成に少なからず影響を与えたと見られるという。
稲盛は逝去する3年前、87歳で出した著書『心。』(サンマーク出版刊、2019年)で、12歳の時の闘病生活をこう振り返っている。
「幼い私にとってそれは、暗くて深い死の淵をのぞいたような強烈な体験でした」「人生で起こってくるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。(中略)それは、この世を動かしている絶対法則であり、あらゆることに例外なく働く真理なのです」。そうした心のありようについて最初に気づくきっかけとなったのが『生命の實相』だったという。
稲盛は『心。』をこう書き出している。
「これまで歩んできた八十余年の人生を振り返るとき、そして半世紀を超える経営者としての歩みを思い返すとき、いま多くの人たちに伝え、残していきたいのは、おおむね1つのことしかありません。それは、『心がすべてを決めている』ということです」
私には稲盛の遺言にしか聞こえない。
■宗教的素養が持つ「土着的側面」
稲盛の宗教的素養は郷中教育と同様に土着的側面がある。「たしか5歳か6歳の頃」と、稲盛は亡くなる4年前のインタビュー(『日経トップリーダー』2018年3月号)で幼少期の思い出を語っている。鹿児島、特に小山田地方には「かくれ念仏」という読経の習わしが古くから伝わっていた。「ナンマン ナンマン アリガトウ」の念仏である。
稲盛と兄の利則はある晩、祖父と父に連れられ小山田の山を登った。提灯を下げ、山道を行き、1軒の民家にたどり着く。仏壇が押し入れの中に置かれている。経を読むお坊さんから稲盛兄弟はこう教えられたという。
これから毎日、「ナンマン ナンマン アリガトウ」と言って仏に感謝するように。
「ナンマン」は南無阿弥陀仏の訛ったものだ。小山田には親鸞が開いた浄土真宗の信仰と弾圧の歴史があった。
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井上 裕(いのうえ・ゆたか)
ジャーナリスト
1957年東京生まれ。82年早稲田大学第一文学部卒、日本経済新聞社入社。東京社会部、長野県松本支局、産業部、欧州総局(ロンドン)特派員などを経て、2005年『日経ビジネス』編集長。その後、産業部長、証券部長、電波本部長などを歴任し、2013年制作担当としてBSジャパン(現・BSテレビ東京)取締役に就任。テレビ東京メディアネット代表取締役社長、テレビ東京顧問などを歴任。新聞記者時代から稲盛和夫氏を長く取材してきた。
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(ジャーナリスト 井上 裕)
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