太平洋戦争は1941年12月の真珠湾攻撃をきっかけに始まった。日本海軍の空母「蒼龍」に乗艦した元航空兵の吉岡政光さんは「ハワイで死ななくちゃならんな」と覚悟したという。
取材したノンフィクション作家・早坂隆さんの著書『戦争の肖像 最後の証言』(ワニ・プラス)より、一部を紹介する――。
■艦長「当艦隊はハワイを空襲する」
11月22日、「蒼龍」は他の艦船と共についに港に入った。
「山が見えて、上のほうには雪が積もっているのが見えました。波は高かったけれども、そんなに寒いとは感じませんでした。『どこだろう』と思っていたら、『千島列島の択捉島だ』と。驚きましたよ」
現在は「北方領土」となってしまった択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に、艦隊が集結していた。
翌23日、集合がかけられた。「蒼龍」艦長である柳本柳作大佐が「艦隊司令官である南雲中将の訓示を代読する」とのことであった。その訓示の骨子は「アメリカに対し、12月8日を期して開戦」「当艦隊はハワイを空襲する」という内容だった。吉岡さんはこう感じたという。
「頭の血がデッキに吸い取られるような気がしました。『もうこれは帰れない。
ハワイで死ななくちゃならんな』と。でも死は怖くなかったですね。覚悟はできていました。良い死に場所を与えてもらったと感じました」
■燃料タンクと火薬庫は使うつもりだった?
その後、具体的な細かな指示が与えられた。真珠湾の詳細な地図や艦型識別表が用意されていた。
「地図には、山や飛行場などの位置が細かく記されていました。艦型識別表というのは、米軍の艦船を分類したもので、船の形状が黒塗りになって描かれていました。艦砲の数とか艦橋の形なども記されていました。これらの情報を覚えておけということでしたが、よく用意しているなあと思いましたね。それから『赤城にオアフ島の模型があるから見に行け』と言われて行きました。燃料タンクと火薬庫の場所を教えられ、『ここは占領後に使うかもしれないから、攻撃してはいけないよ』と言われました」
現在、真珠湾攻撃に関して「なぜ、燃料タンクを攻撃しなかったのか」という批判がなされることがある。この疑念に関し、吉岡さんの追懐は一つの回答を示している。

■日米交渉は妥結せず、開戦を告げる電文
11月26日、「蒼龍」は第一航空艦隊の一角として、単冠湾を出航。やや南下しつつ東進した。米軍に動きを気づかれぬよう、無線は封鎖された。
この最中も、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は日米交渉の進展に最後の望みを託し、交渉が妥結した場合はすぐに引き返すよう命じていた。吉岡さんはこう証言する。
「『日米はまだ交渉中だから、このまま何も連絡がなければ、12月8日の朝に決行』という話でした」
12月1日、御前会議が「米英蘭に対し開戦す」との旨を決定。山本大将の望みは潰(つい)えた。
翌2日、山本大将から第一航空艦隊に向けて「ニイタカヤマノボレ一二〇八」との電文が発信された。「開戦を12月8日とす」との意味である。その内容を伝えられた吉岡さんは、こう思った。
(交渉はやっぱりうまくいかなかったんだ)
自決用の拳銃が手渡された。「万が一、不時着しても捕虜になるな」ということだった。
普段は付けられる落下傘も取り外された。
7日、第一航空艦隊はオアフ島まで約700浬(かいり)(約1296キロ)の位置まで近づいた。
■800キロ魚雷を搭載した「雷撃隊」が8機
8日当日、吉岡さんは0時過ぎくらいに起こされた。艦内の時間は、ずっと日本時間が使用されていた。
搭乗する九七式艦上攻撃機は3人乗りだが、同乗する3人揃ってすぐに食事となった。いつもと異なり、大量の食事がテーブルに並んでいた。しかし、半分くらいしか食べられなかった。
同じく3人で、艦内にある神棚状の「蒼龍神社」に拍手(かしわで)を打って一礼。その後、飛行甲板に上がり、搭乗する九七式艦上攻撃機のもとへ向かった。辺りは暗く、水平線も見えなかったが、800キロ魚雷が確かに搭載されていることを確認した。
3人の役割は、操縦員と偵察員と電信員である。機長である吉岡さんは、偵察員の役であった。
偵察員は飛行位置を割り出すのが軍務だが、戦闘となったら魚雷を投下する役目を担う。艦長からは以下のような訓示が告げられた。
「俺たちは弓だ。しっかり準備を整えた。君たちは矢である。間違いなくしっかりと敵に当たってきてくれ」
操縦員を先頭に、偵察員、電信員という順番で縦一列に座る。電信員は戦闘になったら、後部の機銃を担当する。
吉岡さんの搭乗機は、第一中隊第二小隊の2番機であった。当時の階級は二等飛行兵曹。年は満23歳。
発艦は戦闘機隊、水平爆撃隊などと続き、雷撃隊は最後だった。重い魚雷を搭載している雷撃機は、離陸までに距離を要するため、最も後ろに並んで最後に出発する。
雷撃隊8機の内、吉岡さんの搭乗機は4番目に発艦した。1時半頃のことである。
■「強襲」ではなく「奇襲」
第一次攻撃隊として、「蒼龍」を含む6隻の空母から、実に183機もの機体が発艦した。大編隊は約230浬(約426キロ)先の真珠湾を目指した。機体の下方には、分厚い雲が広がっていた。
発艦から約2時間後、真珠湾付近に到達。雲の切れ間から白い波打ち際が見えた。
敵からの迎撃はなかった。相手の迎撃態勢が整っていない状況で攻撃するのが「奇襲」、相手が迎撃態勢を整えて待ち構えている状況で攻撃するのが「強襲」である。
第一次攻撃隊の総指揮官である淵田美津雄中佐は、現地時間の午前7時49分、「全軍突撃せよ」と命令。続く午前7時52分、「赤城」に向けて「トラ・トラ・トラ」と打電した。意味は「ワレ奇襲ニ成功セリ」。
「強襲ではなく奇襲でいける。これから奇襲を行う」という主旨である。
吉岡さんが標的地として命じられていたのは、真珠湾内にあるフォード島の西側だった。標的である空母か戦艦を探して高度を下げていったが、空母の姿は見当たらなかった。
■高度10メートルで投下の合図を待った
「私の席から前方を見ても、前に座っている操縦員の後頭部しか見えません。ですから両脇から周囲を確認するのですが、戦闘はすでに始まっており、ボコッとした黒い塊のような煙があちこちから多く出ていて、よく見えないんです」
しかし、懸命に状況を探る中で、かろうじて1隻の戦艦らしき艦船を見つけることができた。それはコロラド型の戦艦と思われた。機内に声が上がった。
「あれをやろう」
2機ずつで同じ標的を狙うことになっていた。吉岡さんの搭乗機はもう1機と共に、高度10メートルという超低空に入って接近。艦の「土手っ腹」を狙って肉薄した。
魚雷を撃つ役目の吉岡さんは、安全装置を外し、ワイヤー(投下索)の先に巻き付けてある木の棒を右手で握った。ワイヤーを引けば、魚雷が投下される。投下の合図を送るのは操縦員である。吉岡さんは合図を待った。
「怖いとかそういうことはありませんでした。死ぬとか生きるとか何も考えていない。そんなことを考えていたら戦争なんてできませんよ。私はとにかく魚雷をしっかり当てるというそのことだけを考えていました。しかしですね、攻撃対象の船の艦橋のつくりが少し簡単な気がして、ちょっとおかしいなと思ったんです。その時、事前にこんな話を聞いていたのを思い出しました。『コロラド型に似た船で“ユタ”というのがいるが、これは昔の戦艦で演習用の標的艦だから間違えるな』と。でも、私は前方がよく見えないし、本当に“ユタ”なら操縦員がおかしいと思うはずだと思って黙っていたんです」
■公文書「コロラド型戦艦を撃沈」の真相
深く考えている時間などない。攻撃対象に400メートルほどまで近づいた所で、操縦員が、
「よーい、テッ(撃て)」
と叫んだ。吉岡さんは思いっきりワイヤーを引っ張った。
「重いんですけど、まっすぐ引くのがコツです」
800キロもの重量を切り離した機体が、一瞬ふわっと浮き上がった。
数秒後、白い水柱がスーッと上がった。少し遅れてもう1本上がり、水柱が2本並んだ。自機が放った魚雷はもちろん、もう1機のものも命中したと分かった。
「その時は嬉しかったですね。安心しました」
しかし、その喜びは束の間だった。攻撃した艦が何だったのか心配になって後甲板を確認すると、戦艦だと思ったその艦船に、砲塔はあるが砲身は付いていなかった。
「それで『ああ、しまった』と。『あれはユタだよ』と」
公文書では、吉岡さんの搭乗した九七式艦上攻撃機はコロラド型戦艦を撃沈したことになっている。しかし、真相は異なっていたのであった。
■米国史上、未曽有の被害をもたらした
この第一次攻撃により、戦艦「ウェスト・ヴァージニア」や戦艦「アリゾナ」は撃沈。ただし、攻撃目標の中核であった空母群は真珠湾にいなかった。
轟沈した「ユタ」では、50人以上が亡くなったとされる。
その後、戦闘は計167機から成る第二次攻撃へと移行し、日本軍はさらなる戦果をあげた。
結局、この真珠湾攻撃により、日本軍は戦艦8隻を撃沈破。これは米国史上、未曾有の壊滅的被害であり、死傷者は約2400人に及んだ。日本軍の攻撃は軍事施設に限定されたものであり、民間施設などへの攻撃は控えられたが、それでも民間人に100人ほどの犠牲者が出ている。
第三次攻撃は見送られたが、これにより米軍は速やかに修復作業に入ることができた。燃料タンクが無傷だったことも、その後の戦況を米国にとって優位なものにした。
「多数の潜水艦なども見えていましたからね。どうしてもう一度やらなかったのかと思いました」
日本側の戦死者は55人。吉岡さんと仲の良かった1つ年下の兵士も戻らなかった。
真珠湾攻撃後、「蒼龍」はウェーク島攻略の支援や、ダーウィン空襲などに参加。その後、内地に凱旋となり、吉岡さんは搭乗員の補充要員の養成を命じられて「蒼龍」を下りた。「蒼龍」は昭和17年6月のミッドウェー海戦で沈没した。
■テレビ番組で投げかけられた思わぬ質問
吉岡さんは以後、鈴鹿海軍航空隊や第五八二海軍航空隊などを経て、昭和20年1月、茨城県の百里原海軍航空隊に教官として赴任。しかし、もはや飛行機も充分になく、一度は硫黄島への特攻作戦を命じられたが、結局、中止となった。玉音放送を聴いた時には、涙が止まらなかった。
戦後は民間企業や海上自衛隊に勤めた。
令和3年、テレビ番組の取材を受けたが、その際にキャスターの櫻井翔氏が発した質問は物議を醸した。
「アメリカ兵を殺してしまったという感覚は、当時は?」
吉岡さんは番組内でこう答えている。
「私は『航空母艦と戦艦を沈めてこい』という命令を受けているんですね。『人を殺してこい』ってことは聞いてないです。従って、命令通りの仕事をしたんだ。もちろん人が乗っかっていることはよく分かっていますけど、しかし、その環境というのは、私も同じ条件です」
この騒動について、吉岡さんはこう回顧する。
「思わぬ質問だったのですぐに答えることができませんでしたが、私はただ『ああ、そういう考え方もあるんだな』と思っただけです」
そう語る吉岡さんの表情には、怒りも諦めもない。達観を思わせる潔さがあるのみである。
■「ハワイには行きたくありません」
真珠湾攻撃については、日本の外務省の失態という問題もある。日本側としては、攻撃の30分前に最後通告(宣戦布告)を手交する段取りだったが、駐米大使館が文書の作成に手間取ったため、予定時刻に間に合わなかったのである。この不手際によって、「奇襲」は「だまし討ち」と米国側に受け取られてしまった。これについて吉岡さんは言う。
「その話は後になって聞きました。しかし、私は全然、無関心です。そういったことは現場の兵士は何も知らない。私は魚雷を撃つことしか考えていませんでした。それが私にとっての真珠湾攻撃です」
戦後、ハワイには一度も行っていない。「ユタ」は今もその残骸が遺構として保存されている。吉岡さんはこう話す。
「私はハワイには行きたくありません。命令通りとはいえ、心の中では申し訳ないと思っています。だから行かないほうがいいと。行けないですね」
真珠湾攻撃の生き証人であり主役でもあった元兵士は、そう言って静かに目を閉じた。105歳とは思えぬ姿勢の良さは、私たちに何を伝えているのであろう。

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早坂 隆(はやさか・たかし)

ノンフィクション作家

1973年、愛知県生まれ。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。日本の近代史をライフワークに活躍中。世界各国での体験を基に上梓した「世界のジョーク」の新書シリーズも好評。

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(ノンフィクション作家 早坂 隆)
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