がんで死ぬことは不幸なのか。長年、消化器外科医やホスピス医として勤務し多くのがん患者を看取った小野寺時夫さんはそれを否定する。
■「ポックリ死」は本当にいい死に方なのか
日本人は、死を口にするだけで「縁起でもない」と嫌う傾向が強い民族ですが、折に触れて「死」について考え、語り合うことが、逆によく生き、よい死を迎えるために欠くことのできないことだと私は信じています。
高齢になるにつれて身近な人や知人の死に接することが多くなると、自分はいつ、どういう死に方をするだろうかと誰もが考えると思います。
近年は、「ポックリ死」や「ピンピンコロリ」を望む人が増え、ぽっくり寺(寝たきりや認知症にならず、ぽっくり往生できることを祈願する寺)参りも盛んだと聞きます。仲間の医師のなかにも、眠ったまま目を覚まさないで逝くのが理想だという人もいます。
長い間寝たきりになったり、ひどい認知症になったり、がんで苦しんだりしたくないからでしょう。
認知症の進んでいる人やかなり高齢の人なら、ローソクの火が消えるようにフッと死ぬのはメリットがあります。しかし、そうでない多くの人にとって「ポックリ死」が本当にいい死に方なのでしょうか? 私にはそうとは思えないのです。
■死ぬ前に別れの一言も交わせず…
腰痛持ちの女性Kさん(71歳)のカルテを見ると、飲んでいる睡眠薬と抗うつ薬の量が次第に増えているので、飲み始めたきっかけを聞くとこうでした。
2年前のある日、夕食の後に些細なことが原因でKさんは夫に小言をいいました。無言になった夫は毎日欠かしたことのない風呂にも入らず、早々に床につきました。翌朝、いつも早起きの夫が起きてこないので覗いてみたら、息をしていなかったというのです。
Kさんの夫は農家の次男で、分家してもわずかな農地しかもらえませんでしたが、荒れ地を安く買い足して夫婦で苦労して開拓し耕地を増やし続けました。やがて、優良農家として表彰されるまでになりました。亡くなる数年前からは、老夫婦だけで無理なくやれる広さだけに縮小し、これから旅行などを楽しもうと話し合っていたそうです。50年間一心同体で励まし合いながら生きてきたのに、死ぬ前に何の世話もできなかったこと、別れの一言も交わさなかったこと、そして些細ないさかいをしたことの無念さで頭がいっぱいになり、どうしても眠れなくなるというのです。
■夫の突然死で経済的に追い込まれた
私が担当した肝臓がんの女性Mさん(70歳)の夫は、従業員15人ほどの医療機器会社を経営していましたが、3年前に心筋梗塞で急死しました。
「ワンマン経営」を続けていたので、Mさんと2人の娘さんは会社経営のことにはまったく無知で、そのため結局、会社は閉鎖に追い込まれました。その後、空いたビルを隣の産婦人科病院院長の女医に病室修理の間だけと頼まれ、しかもほんのわずかな家賃で半年貸したのですが、2年経っても立ち退かず、結局は大変安く買い叩かれたそうです。
残されたMさんと娘さんは夫の突然の死をきっかけに経済的にも追い詰められ、高額な不動産を破格の安さで手放さざるを得ない破目になったのです。
場合によって「ポックリ死」は、本人にとってはいいかもしれません。しかし、比較的若くして亡くなる場合はもちろんですが、高齢になってからでも配偶者や家族との絆の強い場合は、遺族に、癒やすことがときには困難な心の傷を残すことが多いのです。
30代や40代で夫を突然亡くした女性で、精神不穏(興奮して落ち着きがなくなること)や原因のわからない痛み・灼熱感の発作が生涯続く人がいるということをよく聞きます。
高齢になっても突然の別れは、遺族に無念さを残すことがあります。
■突然死が家族に与える重大な影響
絆が強い夫婦で配偶者が突然死したときの心の傷は、病気で世話をした期間を経て亡くなったときよりも深いのです。やはり「突然死」は家族の心に激しい一撃を与えるのです。
家族が死を受け入れるためには、ある程度の準備期間が必要であり、亡くなっていく人の世話をしたという心情も大切で、それがないと心に癒やし難い無念さを残すことになるのです。親に突然死された子どもの情緒障害は治療が極めて困難だと聞きます。
友人の弁護士は奥さん(71歳)が突然、心筋梗塞死し、多忙ゆえに奥さん孝行をまったくしなかったことを嘆いていました。その友人は奥さんの死後1年ごろから認知症になり、次第に進行してしまいました。
私の従兄(73歳)の奥さんが脳出血で突然死したのですが、その後1年経っても、従兄が奥さんに長年世話になったのに何のお返しもできなかったと悔やんでいました。そして、急に認知症が進み、奥さんの死の2年後に老衰様で自分も亡くなったのです。知人の高名な大僧正も、死が家族に与える衝撃は、突然死が最も強く、長く尾を引くといっています。
■「がん死」が最も自然な死に方
「ポックリ死」がよくない、といっても、そもそも人は死に方を自分で選ぶことができません。
がんは40代から80代までにおいて死因の第1位です。
90代になると心臓病が多くなりますが、がん死は全年代を平均すると3人に1人の割合になります。60代から80代前半に限れば2人に1人の割合に近づいているのです。がん死の割合は今後の高齢化の進行に伴ってますます大きくなるとみられています。
がんになると、若い人だけでなく高齢の人でも大抵は、「どうして自分がこんながんなどになったのか」と自分の不運を嘆き、早晩訪れる死に向かっていかなければならないつらさがあるので、多くの人が「がん死」を嫌っているようです。しかし、人の死に方として「がん死が最も自然」なのです。
「がん死」は「ポックリ死」と違い、例外もありますが、多くの場合で助からないとわかってからも半年から2年ぐらい普通に生活できる期間があります。そう長くはない期間ですが、人生の最期を自分なりに締めくくることもできます。
たとえ短くても、人生の最終期にやりたいことをやったり、死後のために整理をしたり、周囲の人に別れをいったりすることもできるのです。そして、実際にがん死を前にしての生き方は人それぞれ、百人百様なのです。
■だから医師は「がんで死にたい」と話す
・配偶者が死を迎えるまでの数年間は、夫婦としての精神的な結びつきが一層深まり、人生の原点に立ち戻ってお互いに語り合いながら濃密な時間を過ごすことができ、それまでの何十年にも勝る価値のある生活だったと語る人が時々います
・自営業者などで、死後のための整理や対策を立派にする人がいます
・死の直前まで仕事を続ける人、あるいは趣味に没頭する人もいます
・亡くなる前に、親友や兄弟姉妹などとの宴会を頻繁にする人がいます
・亡くなる1週間から数日前に、家族に最後の言葉をかけ、私たち医療スタッフにも丁重にお礼をいう人がいます
がん死につらい面があるのは事実ですが、がん死は心、魂、感情を持つ人間に最も相応しい死に方なのです。
人の死に関わっている私の友人の医師たちのなかでも、「自分はがんで死にたい」という人が多いのです。
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小野寺 時夫(おのでら・ときお)
ホスピス医
1930年生まれ。
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(ホスピス医 小野寺 時夫)
小野寺さんの同名書籍を新装復刊した『私はがんで死にたい』(幻冬舎新書)より紹介する――。(第1回)
■「ポックリ死」は本当にいい死に方なのか
日本人は、死を口にするだけで「縁起でもない」と嫌う傾向が強い民族ですが、折に触れて「死」について考え、語り合うことが、逆によく生き、よい死を迎えるために欠くことのできないことだと私は信じています。
高齢になるにつれて身近な人や知人の死に接することが多くなると、自分はいつ、どういう死に方をするだろうかと誰もが考えると思います。
近年は、「ポックリ死」や「ピンピンコロリ」を望む人が増え、ぽっくり寺(寝たきりや認知症にならず、ぽっくり往生できることを祈願する寺)参りも盛んだと聞きます。仲間の医師のなかにも、眠ったまま目を覚まさないで逝くのが理想だという人もいます。
長い間寝たきりになったり、ひどい認知症になったり、がんで苦しんだりしたくないからでしょう。
認知症の進んでいる人やかなり高齢の人なら、ローソクの火が消えるようにフッと死ぬのはメリットがあります。しかし、そうでない多くの人にとって「ポックリ死」が本当にいい死に方なのでしょうか? 私にはそうとは思えないのです。
■死ぬ前に別れの一言も交わせず…
腰痛持ちの女性Kさん(71歳)のカルテを見ると、飲んでいる睡眠薬と抗うつ薬の量が次第に増えているので、飲み始めたきっかけを聞くとこうでした。
2年前のある日、夕食の後に些細なことが原因でKさんは夫に小言をいいました。無言になった夫は毎日欠かしたことのない風呂にも入らず、早々に床につきました。翌朝、いつも早起きの夫が起きてこないので覗いてみたら、息をしていなかったというのです。
Kさんの夫は農家の次男で、分家してもわずかな農地しかもらえませんでしたが、荒れ地を安く買い足して夫婦で苦労して開拓し耕地を増やし続けました。やがて、優良農家として表彰されるまでになりました。亡くなる数年前からは、老夫婦だけで無理なくやれる広さだけに縮小し、これから旅行などを楽しもうと話し合っていたそうです。50年間一心同体で励まし合いながら生きてきたのに、死ぬ前に何の世話もできなかったこと、別れの一言も交わさなかったこと、そして些細ないさかいをしたことの無念さで頭がいっぱいになり、どうしても眠れなくなるというのです。
■夫の突然死で経済的に追い込まれた
私が担当した肝臓がんの女性Mさん(70歳)の夫は、従業員15人ほどの医療機器会社を経営していましたが、3年前に心筋梗塞で急死しました。
「ワンマン経営」を続けていたので、Mさんと2人の娘さんは会社経営のことにはまったく無知で、そのため結局、会社は閉鎖に追い込まれました。その後、空いたビルを隣の産婦人科病院院長の女医に病室修理の間だけと頼まれ、しかもほんのわずかな家賃で半年貸したのですが、2年経っても立ち退かず、結局は大変安く買い叩かれたそうです。
残されたMさんと娘さんは夫の突然の死をきっかけに経済的にも追い詰められ、高額な不動産を破格の安さで手放さざるを得ない破目になったのです。
場合によって「ポックリ死」は、本人にとってはいいかもしれません。しかし、比較的若くして亡くなる場合はもちろんですが、高齢になってからでも配偶者や家族との絆の強い場合は、遺族に、癒やすことがときには困難な心の傷を残すことが多いのです。
30代や40代で夫を突然亡くした女性で、精神不穏(興奮して落ち着きがなくなること)や原因のわからない痛み・灼熱感の発作が生涯続く人がいるということをよく聞きます。
高齢になっても突然の別れは、遺族に無念さを残すことがあります。
そして、特に自営業者の場合、経営者の突然死で経営が破綻し遺族は経済的に困窮する例が意外に多いのです。
■突然死が家族に与える重大な影響
絆が強い夫婦で配偶者が突然死したときの心の傷は、病気で世話をした期間を経て亡くなったときよりも深いのです。やはり「突然死」は家族の心に激しい一撃を与えるのです。
家族が死を受け入れるためには、ある程度の準備期間が必要であり、亡くなっていく人の世話をしたという心情も大切で、それがないと心に癒やし難い無念さを残すことになるのです。親に突然死された子どもの情緒障害は治療が極めて困難だと聞きます。
友人の弁護士は奥さん(71歳)が突然、心筋梗塞死し、多忙ゆえに奥さん孝行をまったくしなかったことを嘆いていました。その友人は奥さんの死後1年ごろから認知症になり、次第に進行してしまいました。
私の従兄(73歳)の奥さんが脳出血で突然死したのですが、その後1年経っても、従兄が奥さんに長年世話になったのに何のお返しもできなかったと悔やんでいました。そして、急に認知症が進み、奥さんの死の2年後に老衰様で自分も亡くなったのです。知人の高名な大僧正も、死が家族に与える衝撃は、突然死が最も強く、長く尾を引くといっています。
■「がん死」が最も自然な死に方
「ポックリ死」がよくない、といっても、そもそも人は死に方を自分で選ぶことができません。
がんは40代から80代までにおいて死因の第1位です。
90代になると心臓病が多くなりますが、がん死は全年代を平均すると3人に1人の割合になります。60代から80代前半に限れば2人に1人の割合に近づいているのです。がん死の割合は今後の高齢化の進行に伴ってますます大きくなるとみられています。
がんになると、若い人だけでなく高齢の人でも大抵は、「どうして自分がこんながんなどになったのか」と自分の不運を嘆き、早晩訪れる死に向かっていかなければならないつらさがあるので、多くの人が「がん死」を嫌っているようです。しかし、人の死に方として「がん死が最も自然」なのです。
「がん死」は「ポックリ死」と違い、例外もありますが、多くの場合で助からないとわかってからも半年から2年ぐらい普通に生活できる期間があります。そう長くはない期間ですが、人生の最期を自分なりに締めくくることもできます。
たとえ短くても、人生の最終期にやりたいことをやったり、死後のために整理をしたり、周囲の人に別れをいったりすることもできるのです。そして、実際にがん死を前にしての生き方は人それぞれ、百人百様なのです。
■だから医師は「がんで死にたい」と話す
・配偶者が死を迎えるまでの数年間は、夫婦としての精神的な結びつきが一層深まり、人生の原点に立ち戻ってお互いに語り合いながら濃密な時間を過ごすことができ、それまでの何十年にも勝る価値のある生活だったと語る人が時々います
・自営業者などで、死後のための整理や対策を立派にする人がいます
・死の直前まで仕事を続ける人、あるいは趣味に没頭する人もいます
・亡くなる前に、親友や兄弟姉妹などとの宴会を頻繁にする人がいます
・亡くなる1週間から数日前に、家族に最後の言葉をかけ、私たち医療スタッフにも丁重にお礼をいう人がいます
がん死につらい面があるのは事実ですが、がん死は心、魂、感情を持つ人間に最も相応しい死に方なのです。
人の死に関わっている私の友人の医師たちのなかでも、「自分はがんで死にたい」という人が多いのです。
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小野寺 時夫(おのでら・ときお)
ホスピス医
1930年生まれ。
東北大学医学部卒業、同大学院修了。消化器がん外科専門医、ホスピス医。1968年、東北大学医学部第二外科専任講師時代に日本で最初に中心静脈栄養法に着手し、これが全国に普及。米コロラド大学病院で、当時最先端の肝臓移植に携わったあと、1975年から都立駒込病院に勤務。のち同病院副院長、都立府中病院(現・都立多摩総合医療センター)院長を務め35年以上にわたって消化器がんの外科治療に携わる。その後、多摩がん検診センター(のちに都立多摩総合医療センターと統合)所長、日の出ヶ丘病院ホスピス科医師兼ホスピスコーディネーターなどを歴任、緩和ケアに携わる。外科医時代を含めて5000人以上にがん治療をし、3000人の末期がん患者の最期に立ち会った。2019年10月、がんで逝去。享年89。著書に『治る医療、殺される医療』『がんのウソと真実』『がんと闘わない生き方』など。
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(ホスピス医 小野寺 時夫)
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