穏やかに死を迎えるにはどうすればいいのか。長年、消化器外科医やホスピス医として勤務し多くのがん患者を看取った小野寺時夫さんの同名書籍を新装復刊した『私はがんで死にたい』(幻冬舎新書)より紹介する――。
(第3回)
■安らかな死を邪魔する「最大の障害」
一般的には次のような人は終末が安らかではありません。その根本的な原因は死を容認できないことだと思います。
・死を本気で考えたことのなかった人。比較的若年者に多いのですが、死を遠い未来のものと考えていたり、まだまだ生きられると思い込み、死についてあまり考えていなかったりした場合
・転移などで助からないことや長生きできないことを偽られていて、末期になり真実を知った人。こういう人の多くは怒りが続いたままで死を迎えます
・がんという病気の本性がわかっていない人。60年前ごろまで死因の第1位だった結核が治るようになり、心筋梗塞でもステントやバイパス手術により長生きできるようになったのに、がんが治せないことが納得できない人
・免疫療法や先端医療の報道におどらされ、いろいろな治療法を探し続けて最終的に無効とわかった人
・手術の後遺症に苦しみながら末期状態になり、手術を受けたことを後悔している人。また、抗がん剤の治療を受けたが最終的に無効とわかり、抗がん剤治療を後悔している人
・カネや権力で大抵のことが叶ってきた人。こういう人は、死を避けられないことの苦しみが一段と強い感を受けます

痛みなどの身体的苦痛が十分とれたとしても、がん患者さんには死を迎えなければならない心の痛みがあり、これが安らかな死の最大の障害なのです。
死を前にしての患者さんの気持ちは百人百様です。「人は生きてきたように死んでいく」「人は生きてきたようにしか死ねない」などといわれますが、私もその通りだと思います。
■死ぬときはカネも権力も無力
人は死に直面しても、性格やその人の考え方の本質が変わることはなく、急に深く哲学的思考をするようになったり、強い信仰心が湧いたりすることはないのです。
人は常に社会的役割を身に纏って生きていますが、死に向かうときにはカネも、社会的地位も、名誉も無関係になり、心、魂そのものだけの存在になります。
そのため、穏やかに死を迎えられるかどうかは、その人なりの確立した死生観を持って生きてきたか、言い換えると人の生命に限りがあることを認識し、個が確立しているかが大きく関係すると感じます。
死後の整理を完璧にし、不穏を見せず平然と生きて、医療スタッフに丁寧に感謝の言葉を述べて亡くなる人がいます。一方には、死を認めることがどうしてもできず、不安、怒り、落胆、焦りの入り混じった不穏状態が最後まで続いて、あるいは家族が来ないと不穏状態になりながら亡くなる人もいます。
自分なりの死生観がなく社会の流れに漫然と乗って生きてきた人、あるいは配偶者などに頼りきって生きてきた人に、嘆き悲しみながら死を迎える人が多い感を受けます。カネ、権力のある人のほうが死を認められない不安、怒り、恐怖が強いのではないかと思うことがあります。カネや権力でどんなことでも自分の思う通りにできてきたのに、死にはカネも権力もまったく無力なので、その分、焦りや嘆きが一段と強くなるのでしょう。
■5カ月で死後の整理を完璧にした医師
私の妻の父親は、外科医で、仙台市と福島市の2カ所で病院を経営していました。両方を飛ぶように往復しながらも、「頭のなかにコンピュータが入っているような人」といわれるくらい明晰で活力がありました。61歳のとき、入浴中におなかにしこりがあることに気がつきました。肝臓がんを疑って翌日に検査したところ、胃がんが原発で肝臓と肺に無数の転移があることがわかりました。しこりは肝転移だったのです。
それから数週間は、夜間の急患の手術も平然とやっていましたが、その後は福島の病院を閉鎖して、一部の職員を仙台の病院に移し、他の職員の再就職の世話をし、仙台の病院の新体制を整え、自宅死するときの往診医を決め、葬儀のやり方を決めて亡くなりました。
子どもは、私の妻以外すべて息子で3人とも大学生でした。私は医師でしたが開業に関心がなかったことも義父は把握していて、5カ月の間に死後の病院の整理を完璧にしたのです。
■冷静に死を受け入れたがん患者の男性
男性Kさん(65歳)は、肺がんの頸椎転移で四肢麻痺があるうえに、頸椎も金属で固定され頭もまったく動かせませんでした。がん末期ではこの状態が最も悲惨で、こうした患者さんのなかには「目が覚めないように眠らせてほしい」と頼んでくる人もいるほどです。しかし、Kさんの表情はいつも穏やかで、回診のたびに丁寧にお礼をいい、私たち医療スタッフはKさんの冷静さや穏やかさに感動していました。
むしろ、奥さんのほうの不安や不穏が次第に募り、精神科医が対応していました。
患者さんの家族と心を開いて語り合う家族会のときに、Kさんの娘さんに「Kさんが苦悩表情を見せず穏やかなのは、米国の大学を卒業し国際舞台で活躍して、個が確立しているためではないでしょうか?」と尋ねたら、娘さんは「そうではないでしょう。父は6代目のクリスチャンなので、そのためだと思います」と答えました。クリスチャンでも死に直面すると普通の人と変わらないと思うこともありますが、信仰の影響を強く感じる人もいます。私の妻は3代目のクリスチャンで、「死は神の決めること」という考えが強く、死が間近に迫っても不穏を見せませんでした。49年連れ添って初めて妻の芯の強さを知りました。
■「早く殺してくれ」とパニック状態に陥った男性
元公務員の男性Mさん(63歳)は、肺がんが術後に再発し、大学病院で抗がん剤治療を受けていたのですが、副作用の苦しさに耐えられず、ホスピスに転院してきました。
呼吸苦がとれて趣味のハーモニカが吹けるようになると、治療をすれば治るかもしれないと思うようになりました。呼吸苦が進んでモルヒネの投与量が増えてくるとハーモニカを吹くのが困難になりました。
そうすると、がんを治せないならこんな病院にいる必要がないといって退院しました。その後、末期がん患者さんに気功を取り入れている病院にかかったり、免疫療法を受けたりしたようです。
その後、奥さんから電話があり、Mさんがパニック状態で、早く殺してくれるよう医者に頼めと喚いているというのです。同じような電話が2度ありましたが、最終的にはホスピスに再入院して亡くなりました。
奥さんは、「夫は結婚したときから気に食わないことがあると、子どものように駄々をこねたり喚いたりしてどうしようもない人で、私は長年本当に苦労してきました。あれでも役所だから勤められたのでしょうね」と語りました。
■小学生の子どもはIさんが亡くなるまで2週間登校できず…
乳がんの肺・骨転移で亡くなったIさん(48歳)は、本人にとっても家族にとっても悲惨な最期でした。6年前がん専門病院で乳がんの診断を受けたのですが、手術で乳房が変形するのを嫌って、体質改善療法のほか民間療法で治すと決めました。
厳選した自然食をとり、いろいろなサプリメントを漁り、民間のワクチンを注射し続け、骨転移や肺転移を発症してからは超高価な免疫療法を受けたようです。治療法を巡って夫との口論が絶えず、2年前に離婚しました。
その後は両親と同じマンションに移り住みました。
Iさんがホスピス外来を受診したとき、「ストレスの最大の原因である母から私は1日も早く解放されたいのです」と語りましたが、理由を聞いてもよく理解ができませんでした。入院後に母親に聞くと、Iさんががんになったのは子どものころの食生活や、親、特に母親から与えられたストレスのためだと思い込んでおり、治療法に口を挟むとじゃまをするなと怒るなど、ことごとく母親に反抗的で手に負えないそうです。また、「病院の食事の食材がどこの産地のものかなど、うるさく詮索してご迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」と頭を下げられました。
案の定、Iさんの精神状態は不安定で、「エアコンが涼し過ぎる」「深夜ナースコールで呼んだのに看護師が来たのは2分後だった」など数々の不満を口にしました。
自身が持っている成分不明な注射液の注射を頼まれて断ると、転院するといって怒りました。
高校生、中学生、小学生の3人の男の子は午後頻繁に病院に来ており、週末には3人とも来ることが多かったのです。長男と話したとき、「住んでいるマンションも生活費も親の世話になっているのだから、母がもう少し口を慎めばいいのに……」と話していました。
いよいよほとんど食事が食べられなくなったころから、小学生の三男が朝、病院に来て一日中付き添っていました。私は心配になってIさんの母親に聞くと、Iさんの命令だそうです。学校の先生もやむを得ないと容認しているとのことでした。この子は、Iさんが亡くなるまで2週間以上登校しなかったのです。

■死を漠然と考えてはいけない
私は総合病院の管理職のとき、早朝、救急救命センターに顔を出すのが日課でしたが、若い人の事故死だけでなく、40代の心筋梗塞死や脳卒中死が少なくないことに当時、驚いていました。
現在のホスピス病棟に50代の人は常にいますが、40代、ときには30代の人もいます。親の介護を受けて亡くなる人も年に数人います。
死は人生の最後にやがて来るものと漠然と考え、自分も平均寿命までは生きると思っている人が多いようですが、予想が外れることが少なくないのが現実なのです。平均寿命までは生きるだろうと過信してはいけないのです。

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小野寺 時夫(おのでら・ときお)

ホスピス医

1930年生まれ。東北大学医学部卒業、同大学院修了。消化器がん外科専門医、ホスピス医。1968年、東北大学医学部第二外科専任講師時代に日本で最初に中心静脈栄養法に着手し、これが全国に普及。米コロラド大学病院で、当時最先端の肝臓移植に携わったあと、1975年から都立駒込病院に勤務。のち同病院副院長、都立府中病院(現・都立多摩総合医療センター)院長を務め35年以上にわたって消化器がんの外科治療に携わる。その後、多摩がん検診センター(のちに都立多摩総合医療センターと統合)所長、日の出ヶ丘病院ホスピス科医師兼ホスピスコーディネーターなどを歴任、緩和ケアに携わる。
外科医時代を含めて5000人以上にがん治療をし、3000人の末期がん患者の最期に立ち会った。2019年10月、がんで逝去。享年89。著書に『治る医療、殺される医療』『がんのウソと真実』『がんと闘わない生き方』など。

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(ホスピス医 小野寺 時夫)
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