目的地の駅まで何分かかるか。どの車両なら降りてからエレベーターに近いか。
今や地下鉄、JRの各駅に掲示され、Googleマップなどのスマホのアプリにも組み込まれている便利な情報は、約30年前ベビーカーで電車を利用して不便を感じた主婦・福井泰代さんのアイデアから生まれた。この「のりかえ便利マップ」はどのように誕生し、ビジネスになったのか。ライターの辻村洋子さんが取材した――。
■「嫌だな」はビジネスチャンス
今いる駅から目的の駅までの所要時間や、何両目に乗れば階段やエスカレーターに近いかがひと目ででわかる「のりかえ便利マップ」。駅のホームで見かけたり、実際に活用したりしている人も多いのではないだろうか。1998年に営団地下鉄(現・東京メトロ)が採用したのを皮切りに鉄道各社に広がり、今やすっかり日常の風景に溶け込んでいる。
このマップの制作や更新を手がけているのは「ナビット」という会社だ。代表取締役の福井泰代さんは、のりかえ便利マップの発明者でありナビットの創業者。専業主婦時代に「子育てで感じた不便を解決したくて」趣味で発明を始め、自らのアイデアを形にしては次々と企業に売り込んできた。
「嫌だなと思ったらそこにビジネスチャンスがあると思え。これは30年ほど前、発明学会に入ったとき最初に習った言葉なんです。その言葉通りに、『嫌だな』を解決するモノをひとつずつ作っていったらこうなりました」
柔らかな口調でそう語る福井さん。
発明を始めた当初、目指していたのは企業に自分のアイデアを商品化してもらうことだった。その夢を実現し、事業にまで育て上げられたのは「運よく」でも「たまたま」でもない。地道な努力と持ち前の粘り強さで、自ら成功を引き寄せたのだ。
■最初の発明は息子の「おしゃぶり」
大学で経済を学び、卒業後は大手メーカーに就職した。男女雇用機会均等法2期生に当たるが、当時はまだ男性優位の風潮が強く、女性は頑張っても評価されにくかった時代。ここに居続けても先が見えないと感じた福井さんは出産を機に退職し、その後数年間、家事育児に専念する日々を送った。
「でも家事育児って、やって当たり前みたいな感じで誰もほめてくれないんですよね。評価もされないし、毎日同じことの繰り返しで退屈し始めていたところに発明に出会ったんです」
きっかけは「おしゃぶり」だった。2人目の子が生まれたばかりのころ、ふと思い立って、おしゃぶりを落とさないようにと、マスクのようにヒモを付けて耳に掛けられるようにしてみた。すると、ママ友の一人が「それ面白いから特許を取ってみたら」と言ってくれたのだ。
■山のように届いた不採用通知
それまでは特許という言葉も知らなかったそうだが、調べるうちに発明への興味が募り、関連書籍を読む中で「発明学会」に出会う。すぐに入会して半年間の通信教育を受け、発明家としての第一歩を踏み出した。
30歳のときのことだった。
発明品第1号は、前述のおしゃぶりに動物のイラストをあしらった「モーモーおしゃぶり」。続いて、左右を間違えずに履ける靴、指しゃぶりストップ手袋、ひらがなを楽しく覚えられる「あいうえおトランプ」と、立て続けに幼児向けの商品を生み出していった。
商品化を目指して売り込み先を探す際には、図書館で見つけた「帝国データバンク会社年鑑」を参考にしたという。これで靴や子ども用品などのメーカーを探し、企画書を片っ端から郵送した。
「不採用の通知ばかり、山のように来ましたよ(笑)。それでも、企業って意外と返事をくれるものなんだなってうれしかったですね。中には、お礼の品や社長さんの自筆のお手紙を送ってくださった企業もありました」
とはいえ、労力をかけた割に成果はゼロ。最初の三つの発明品はすべて不採用で、売り込み先から「同じ特許や商品がすでに世に出ている」と指摘されたこともあった。
そこで、四つ目の「あいうえおトランプ」ではまず特許庁で先願調査(似たような発明がすでに出願されていないかどうかの調査)をし、売り込み先も入念に選定。ショップで同じジャンルの商品を探し、そのパッケージに記載された製造元にアタックするようにした。
こうした下準備が功を奏し、企画書を送った50社のうち1社で見事採用に。
福井さんは初めて、自分の発明を商品化するという夢をかなえたのだった。
■5カ月かけて256駅を一人で調べ上げた
冒頭の「のりかえ便利マップ」は五つ目の発明に当たる。このアイデアは、発明品のパーツを買おうとベビーカーを押して西日暮里に行ったときに思いついた。
「暑い日だったので、駅のホームでエレベーターを探して右往左往しているうちに子どもがぐったりしてしまって。そのとき、エレベーターがホームのどの辺にあるか事前にわかったらいいのにって思ったんです」
そう思っても、普通は「次に来るときのために位置を覚えておこう」で終わりそうなものだが、福井さんは違った。当時の地下鉄駅全256駅のエスカレーターとエレベーターの位置を調査し、それがひと目でわかる図を完成させたのだ。夫が子どもを見られる土日に一人で各駅へ足を運び、およそ5カ月をかけて調べ上げたもので、これがのりかえ便利マップの原型となった。
■70社に持ち込んで1社が採用
さっそく、この図を本にしてもらおうと70社以上の出版社に持ち込むも、話を聞いてくれたのは3社だけ。そのうちの1社がようやく採用してくれたが、媒体は、希望していた本ではなくアルバイト雑誌だった。それでも、苦労して仕上げた発明品が商品化されたことに変わりはない。
「すごくうれしくて、本屋さんでその雑誌を見ながら泣いてしまいました」
■「これは“発明”じゃなく“情報”」の助言で売り込み先を拡大
地道な調査が報われた瞬間だったが、いかに大変な思いをして集めたデータでも、雑誌に掲載されるだけではそれほどの収入は望めない。そのうち「割に合わない」という思いが湧き、やはり本にしたいと売り込みを続行していたところ、その姿を見たアルバイト雑誌の編集長が思いがけないアドバイスをくれた。

「福井さんが売り込んでいるものは“発明”と言うより“情報”だから、切り口を変えて展開したほうがいい」
大勢に却下され続けたからこそ得られた、貴重な助言だった。そこで初めて「本じゃなくてもいいんだ」と気づき、以降は売り込み先を情報誌や手帳会社、ソフト会社などにも拡大。この思い切った路線変更が突破口となった。
自らの発明品を“情報”として売り込み始めると、まず、映画やコンサート、イベントなどの最新情報を掲載する雑誌『ぴあ』が話を聞いてくれた。一度は「こうした情報はもう世の中にある」と断られたが、助言を基に不要な部分を削って図をブラッシュアップしていった結果、掲載が実現。今の形のマップが出来上がったのはこのときだ。福井さんは「だから、マップの成功は『ぴあ』さんのおかげなんですよ」と振り返る。
次に掲載が決まったのは手帳会社。だが、会社とでないと取り引きできないと言われ、それならと福井さんは起業を決意する。資本金には自分のへそくりと母親からの支援金を充て、自宅の2階で「アイデアママ」という小さな会社を起こした。
「まだ子どもが小さかったので夫には反対されましたが、1年やって実績を出せなかったらやめるからって約束して。それが事業の始まりでした」
のりかえ便利マップを採用してくれる企業も増え、忙しい日々が続いた。
しかし、掲載が増えれば人の目に留まる機会も増え、類似品が作られるリスクも高まる。マップを作った時点で「どうせまねされちゃうんだろうな」とは思っていたそうだが、その予測は起業してすぐ現実のものとなった。同じようなマップが次々と世に出回り始めたのだ。
■鉄道会社は「絶対外せない」
「まねされても大丈夫」と言えるようになるにはどうしたらいいか。考え抜いた結果、このマップを駅のホームに貼ってもらおうと思い立つ。人は、自分が見慣れたものをいちばん見やすいと感じるもの。駅に貼って大勢の人が毎日目にするようにすれば、他のマップより優位に立てると考えたのだ。
すぐさま鉄道会社への売り込みを開始したが、採用の壁は出版社以上に高かった。部署をたらい回しにされるばかりで、まったく相手にしてもらえない。「専業主婦の思いつきではねぇ」と冷たくあしらわれたり、鉄道ファンだと思われたのか「鉄子さん」とからかわれたりしたこともあった。
それでも福井さんはくじけず、最新の実績や改善案を手に二度三度と各部署を回り続けた。
「他の企業だったら、一度断られたのに何回も行ったりはしないんですけど、鉄道会社はのりかえ便利マップにとって本家本元。
絶対に外せないと思っていましたから」
その努力が実ったのは2年後。売り込み先の一つだった営団地下鉄(現・東京メトロ)の総裁が代わり、「お客様目線のサービス」を打ち出しのだ。これによってのりかえ便利マップのアイデアを思い出した職員から声がかかり、その後はとんとん拍子に話が進んだ。
売り込み先の方針転換という幸運に恵まれたわけだが、それが採用につながったのは2年越しの努力があったからこそ。一度のアタックであきらめていたら、採用どころかおそらく思い出してすらもらえなかっただろう。
■1998年、銀座線で採用開始
マップの掲示は1998年、銀座線から始まった。表参道駅のホームで目にしたときは、あまりのうれしさでまたもや泣いてしまったという。ほどなくして他路線の駅にも次々と貼り出され、翌年にはJRでの採用も決まった。ここから、アイデアママの成長は一気に加速していく。
以降はのりかえ便利マップをはじめとするデータベースビジネスに力を入れるようになり、2001年には「ナビット」を設立。従業員も増員し、駅や空港の案内図、カーナビ用データなど、生活の中の不便を解決するアイデアを次々と形にしていった。
「実感としては、自分の発明を商品化したくて一生懸命売り込んでいたら、趣味が仕事になっちゃったという感じですね。扱う商品は途中でモノから情報に変わりましたが、私がやっていることは昔も今もずっと同じ。『嫌だな』『不便だな』を解決するもの、お客様が欲しいものを作って提供する――。それを、今後も続けていきたいと思います」
自宅の2階で興した小さな会社は、今、約70人の従業員と6万人以上の在宅ワーカーを抱えるまでになった。何度不採用になってもあきらめず、手を替え品を替えながら、驚くほどの粘り強さで活路を開いてきた福井さん。発明家から起業家、経営者へと歩みを進めてこられたのも、この姿勢があったからこそだろう。福井さんの軌跡は、起業を目指す人にとって大きなヒントになりそうだ。

----------

辻村 洋子(つじむら・ようこ)

フリーランスライター

岡山大学法学部卒業。証券システム会社のプログラマーを経てライターにジョブチェンジ。複数の制作会社に計20年勤めたのちフリーランスに。各界のビジネスマンやビジネスウーマン、専門家のインタビュー記事を多数担当。趣味は音楽制作、レコード収集。

----------

(フリーランスライター 辻村 洋子)
編集部おすすめ