2024年末、94歳で亡くなったスズキの鈴木修元相談役。40年以上にわたってカリスマ経営者であり続けたが、現在のスズキにつながる企業のあり方は、社長就任からの4年間で築かれたものだった――。
※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■社長就任
「修さんは、(第二代社長だった)鈴木俊三さんの娘婿でしたけど、決して銀のスプーンを持っていたから社長になれたわけではない。修さんには実績があり実力もあったから、トップに立てた。私はそう思います」
こう話すのは、1975年入社の彌吉正文だ。彌吉は東京支店長、広報部長、人事部長などを務め常務役員にまでなった。鈴木修の腹心だった人物であり、いまはもう引退している。
1978年6月、鈴木修はスズキの第四代社長に就く。48歳と、自動車業界では最年少の経営トップだった。
78年3月期のスズキの連結売上高は2975億円(単独売上高は2534億円)。四輪販売の82%は国内、18%が輸出だった。何より、排ガス規制の影響から、厳しい経営環境が残る中での船出となる。
本当は、このときに社長になるはずではなかった。
■緊急登板でのトップ交代
しかし、どこの会社でも、実力も実績もある人が社長になるというものではない。閨閥で事業承継をしてきたスズキであっても、同じだろう。良くも悪くも、当人が持っている運が左右する。
本来トップ交代は、84年の予定だったのだ。ではなぜ、この時点で社長に就任したのかといえば、三代目社長の鈴木實治郎が病気で倒れたためだ。77年11月だった。スズキには70歳で社長は引退するという不文律があったが、實治郎が70歳の任期を迎えるのは84年6月だった。6年の間には、別の候補者が台頭することは考えられた。
78年4月には、春の選抜高校野球で地元の県立浜松商業が初優勝を果たす。公立高校でも全国制覇ができた時代だったが、浜商優勝の翌々月、緊急登板する形で鈴木修は社長に就いたのだ。
このときから、鈴木修にとって、経営という名の長い旅が始まる。
77年は、實治郎が倒れただけではなく、6月に二代目社長だった俊三が急逝し、同10月には創業者の道雄も病気で倒れてしまっていた。俊三の死は、鈴木修にとっては大きな後ろ盾の喪失を意味した。しかし、もはやこの男しかいなかった。元銀行員の娘婿にスズキと鈴木家のすべてが託されたのである。
■スズキのいまにつながる4年間
急きょ社長に就いた鈴木修は、最初の4年間でいまのスズキにつながる基礎工事を行う。経営においての重要な決断・決定は、この4年間に集中しているのだ。つまりは進むべき方向を決める。5年目以降は、決断に基づく実行のフェイズとなる。
まずは「アルト」の商品化(発売は79年5月)と大ヒット。
昭和30年代から40年代にかけて一世を風靡したものの、日本の道路からは消えていったオート三輪と同じ運命を軽自動車も辿るのかと、そんな危惧が色濃く漂っていた。これを吹き飛ばし、軽自動車市場そのものを再度作って、日本に定着させたきっかけになったのが「アルト」。商品化を主導したのは、社長になったばかりの鈴木修である。
小型車生産のパートナーを探していた世界最大手だったGMと提携したのは81年8月。これにより、世界的にはほとんど無名だった鈴木自動車工業(スズキ)は、世界からも知られる存在になる。
■43年前のインド進出
インドの政府系自動車メーカーと、インドでの四輪車共同生産について基本合意したのは82年4月。鈴木修を世界的経営者へと押し上げたインド進出の決定である。
このほかにも、4サイクルエンジンの設備導入、小型車「カルタス」の開発着手(生産開始は83年8月)などなど……。1980年をはさんだ、この時期に現在につながる重要決定はなされていた。
決定の延長線上で、その後に頓挫してしまうのはGMとの提携である。ただし、それは決定から27年後。
「アルト」は、鈴木修の社長就任時に開発はかなり進んでいて、78年中にも発売はできる状態にあった。しかし、鈴木修は開発中の「アルト」を見ても、売れる予感がしなかった。これまでの軽自動車と、代わり映えがしなかったからだ。
鈴木修は、流れを変えたかった。エピック・エンジン開発の失敗が尾を引き、技術部隊は自信と元気を喪失していた。しかも、軽自動車市場そのものは、低迷を続けたままだった。
モノづくりを行うメーカーが流れを変えられるのは、やはり商品だ。新商品をもって、新しい地平を拓いていくしかない。
■発想の基本は「ユーティリティー」
自著『俺は、中小企業のおやじ』によれば、工場に働く従業員たちの多くが軽トラックで通勤していたのを見て、鈴木修は新商品を発想したとある。つまり、彼らは工場で働きながらも野菜を作って市場に出荷していて、軽トラは通勤にも農作業・出荷にも利用できて、使い勝手がよかったのだ。
こうして、アルトを乗用ではなく商用として、商品化することを決める。
社長というよりも、新商品開発を行うマーケッターとしての鈴木修の才能が生かされたのだった。ユーザーの使い方から判断して、アルトは商用に方向付けられたのだ。このため、デザインは丸みを帯びたものではなく、やや角張ったものとした。
商用で角張った「ジムニー」をヒットさせた成功体験を持つ鈴木修は、アルトを商品化し、やがて1993年発売の「ワゴンR」という大ヒット商品へとつなげていく。いずれも、デザインは角張り系なのは共通するが、根底に流れるのは、お客様にとってのユーティリティー(つまりは便利な使い勝手)を基本に発想したモノづくりだった。
■47万円の「アルト」が大ヒット
商用と決めたことで、当時あった物品税が課税されなかったのは、価格を押し下げる面で大きかった。物品税の対象は贅沢品であり、乗用には15~30%もの税がかけられたが、商用ならばゼロだったのだ。
もう一つ、商用としたことでスズキが得意とする2サイクルエンジンを堂々と搭載できた。商用の排ガス規制は緩く、規制に対応する高出力エンジンが既にあったのだ。北海道の中山峠でも日光いろは坂でも、難なく登れるエンジンがである。
鈴木修は技術部門に対し無理なコストダウン要求を突きつける。
技術部隊は、徹底的な軽量化を推し進める。軽くすれば、使用する部品や素材は少なくなり、コストダウンがはかれ、燃費性能も向上する。既存の2サイクルエンジンを搭載したことも、生産コストを抑えられて販売価格の低減にもつながった。
当時、軽自動車は60万円台で売られていた。これに対し「アルト」は、価格を全国統一の47万円と設定した。
衝撃的な値付けが受けて「アルト」は大ヒット。当初「月5000台売れれば」と目標を立てていた。ところが、発売1カ月目の注文は8400台、2カ月目は1万台に上がる。3年間で累計50万台も売れるのだ。
■業界初の全国統一価格
北海道の販社に勤務していた石黒光二秋田スズキ副会長は、当時の販売現場の様子についてこう話す。
「アルトはすぐに売れてしまい、販社間でタマ(商品)の取り合いでした。来店されるお客様に対しては、整理券を配ってました。さらに、別の軽自動車を買ったばかりのタイミングでアルトが発売され、『どうしてもアルトに替えてほしい』と申し出るお客様もいました」
全国統一価格は、業界初の試みだった。当時は輸送費の違いから、地域によって販売価格に差があった。さらに、同じブランドの中でも、内装の違いなどから「デラックス」、「スタンダード」などと価格を差別化していた。これをひとつにまとめたわけだが、その後1999年発売のトヨタ「ヴィッツ」(現在の「ヤリス」)も全国統一価格を実施してヒットさせている。
「アルト」が大きく売れたことにより、軽自動車市場そのものも発売翌年の1980年には、100万台の大台を回復。以来、100万台を割り込むことはない。ちなみに、2023年が約174万台、24年は約156万台だった。
■「軽自動車を作った男」
軽自動車をセカンドカーとする、新たなニーズが創出されるが、特に地方では自動車は「一家に一台」から「一人に一台」へと移行していく。きっかけを作ったのは「アルト」だった。
特筆すべきは軽自動車そのものの有り様の変化である。
21世紀に入り、我が国の高齢化は急速に進む。とりわけ、高齢化率が高いのにバス路線も廃止されていく地方において、「一人に一台」の軽自動車は、「生活者の足」と化していく。つまり軽自動車は必需品であり、インフラとなっていった。その原点に「アルト」はある。
なので、鈴木修は「軽自動車を作った男」なのだ。
アルトにはこんな秘話もある。
鈴木修は、心が重くなってしまった。
1979年5月12日の午後。この日は土曜日だったが、翌日に京都の国際会議場で新発売する軽自動車「アルト」の販売店向け発表会を控えていた。このため、浜松の自宅で説明の準備をしたのだが、そこに外注企業の社長の奥さんが突然、訪問してきたのである。
■取引先社長の奥さんの愚痴に答えが…
鈴木修はこのとき、アルトについて覚えることで頭が一杯の状態。営業企画から渡された資料では「アルトとはイタリア語で『(才能などに)秀でた』という意味」などとあった。
「何ともピンと来ない。明日、販売店の社長たちにどう説明したらよいのか。イタリア語の単語を一つ伝えたところで、彼らの心を動かせるとは思えない……」
悩んでいたところに、追い打ちをかけるような来客だったのだ。
「弱ったなあ……」。こうした突然の訪問は都会ではまずないが、田舎では珍しくはない。そして、たいていは聞きたくはない内容だ。忙しいからと本当は断りたい。が、地縁関係が強い田舎の浜松では、そうはいかない。
準備を中断し「どうぞ」と仕方なく招き入れると、奥さんはご主人の不品行を訴え始めた。
発表会の前日、夫の愚痴をこぼす奥さんに閉口しながらも、鈴木修は問うた。「で、どんなことがあったのですか」と。すると、「主人は“あると”きはこんなことを、また“あると”きはあんなこともやらかしまして」と答えたのだ。
「奥さん、いまなんと仰いました!」
「ですから、あるときは……」
この瞬間、鈴木修は閃いた。「これは、イタリア語よりわかりやすい」と。
■不測の事態から「突破するヒント」を
翌日の発表会で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利なクルマ。それがアルトです」と、キャッチをひねって話したのだ。
会場は大いに受けた。
突然の来客という不測の事態だったのに、「突破するヒント」を見つけ、販売店の人たちの心をつかんでしまう。
「いつも目標を持ち適度な緊張感を持っていると、気づきは必ずある」
と鈴木修は話してくれた。与えられたものを暗記するなど従うだけではなく、感性を豊かにアンテナを張っておけという意味だろう。
アルトのヒットで得た利益により、自動車の主流である4サイクルエンジンの生産設備を逐次導入していく。さらに、1000㏄クラスの小型車開発も水面下で始めていった。
ここまでは、鈴木修が意図した展開だった。自分が描いた戦略・戦術がうまく当たって、好結果を導けた。
一方で、世界最大の自動車会社だったGMとの提携、さらにインド進出は意図したものではなくて、外から訪れた案件だった。鈴木修が持つ「運」により引いてきた新境地である。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)
※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■社長就任
「修さんは、(第二代社長だった)鈴木俊三さんの娘婿でしたけど、決して銀のスプーンを持っていたから社長になれたわけではない。修さんには実績があり実力もあったから、トップに立てた。私はそう思います」
こう話すのは、1975年入社の彌吉正文だ。彌吉は東京支店長、広報部長、人事部長などを務め常務役員にまでなった。鈴木修の腹心だった人物であり、いまはもう引退している。
1978年6月、鈴木修はスズキの第四代社長に就く。48歳と、自動車業界では最年少の経営トップだった。
78年3月期のスズキの連結売上高は2975億円(単独売上高は2534億円)。四輪販売の82%は国内、18%が輸出だった。何より、排ガス規制の影響から、厳しい経営環境が残る中での船出となる。
本当は、このときに社長になるはずではなかった。
たしかに彌吉が指摘するように、鈴木修には実績はあった。排ガス規制に対応した霞が関と永田町への陳情を重ねた一方、エンジンを供与してもらうためのトヨタとの交渉も担った。さらにはホープ自動車から製造権を獲得して軽四駆「ジムニー」を商品化してヒットさせた。会社の最悪期を凌ぐことができたのは、鈴木修専務の功績だった。
■緊急登板でのトップ交代
しかし、どこの会社でも、実力も実績もある人が社長になるというものではない。閨閥で事業承継をしてきたスズキであっても、同じだろう。良くも悪くも、当人が持っている運が左右する。
本来トップ交代は、84年の予定だったのだ。ではなぜ、この時点で社長に就任したのかといえば、三代目社長の鈴木實治郎が病気で倒れたためだ。77年11月だった。スズキには70歳で社長は引退するという不文律があったが、實治郎が70歳の任期を迎えるのは84年6月だった。6年の間には、別の候補者が台頭することは考えられた。
78年4月には、春の選抜高校野球で地元の県立浜松商業が初優勝を果たす。公立高校でも全国制覇ができた時代だったが、浜商優勝の翌々月、緊急登板する形で鈴木修は社長に就いたのだ。
このときから、鈴木修にとって、経営という名の長い旅が始まる。
77年は、實治郎が倒れただけではなく、6月に二代目社長だった俊三が急逝し、同10月には創業者の道雄も病気で倒れてしまっていた。俊三の死は、鈴木修にとっては大きな後ろ盾の喪失を意味した。しかし、もはやこの男しかいなかった。元銀行員の娘婿にスズキと鈴木家のすべてが託されたのである。
■スズキのいまにつながる4年間
急きょ社長に就いた鈴木修は、最初の4年間でいまのスズキにつながる基礎工事を行う。経営においての重要な決断・決定は、この4年間に集中しているのだ。つまりは進むべき方向を決める。5年目以降は、決断に基づく実行のフェイズとなる。
まずは「アルト」の商品化(発売は79年5月)と大ヒット。
軽自動車市場は、72年から販売台数が100万台を切ったまま推移していた。
昭和30年代から40年代にかけて一世を風靡したものの、日本の道路からは消えていったオート三輪と同じ運命を軽自動車も辿るのかと、そんな危惧が色濃く漂っていた。これを吹き飛ばし、軽自動車市場そのものを再度作って、日本に定着させたきっかけになったのが「アルト」。商品化を主導したのは、社長になったばかりの鈴木修である。
小型車生産のパートナーを探していた世界最大手だったGMと提携したのは81年8月。これにより、世界的にはほとんど無名だった鈴木自動車工業(スズキ)は、世界からも知られる存在になる。
■43年前のインド進出
インドの政府系自動車メーカーと、インドでの四輪車共同生産について基本合意したのは82年4月。鈴木修を世界的経営者へと押し上げたインド進出の決定である。
このほかにも、4サイクルエンジンの設備導入、小型車「カルタス」の開発着手(生産開始は83年8月)などなど……。1980年をはさんだ、この時期に現在につながる重要決定はなされていた。
決定の延長線上で、その後に頓挫してしまうのはGMとの提携である。ただし、それは決定から27年後。
ずっと先のことだった。
「アルト」は、鈴木修の社長就任時に開発はかなり進んでいて、78年中にも発売はできる状態にあった。しかし、鈴木修は開発中の「アルト」を見ても、売れる予感がしなかった。これまでの軽自動車と、代わり映えがしなかったからだ。
鈴木修は、流れを変えたかった。エピック・エンジン開発の失敗が尾を引き、技術部隊は自信と元気を喪失していた。しかも、軽自動車市場そのものは、低迷を続けたままだった。
モノづくりを行うメーカーが流れを変えられるのは、やはり商品だ。新商品をもって、新しい地平を拓いていくしかない。
■発想の基本は「ユーティリティー」
自著『俺は、中小企業のおやじ』によれば、工場に働く従業員たちの多くが軽トラックで通勤していたのを見て、鈴木修は新商品を発想したとある。つまり、彼らは工場で働きながらも野菜を作って市場に出荷していて、軽トラは通勤にも農作業・出荷にも利用できて、使い勝手がよかったのだ。
こうして、アルトを乗用ではなく商用として、商品化することを決める。
同書には「そのときは『商用車』あるいは『乗用と商用の兼用車』に大きな風が吹いていたのです」とある。
社長というよりも、新商品開発を行うマーケッターとしての鈴木修の才能が生かされたのだった。ユーザーの使い方から判断して、アルトは商用に方向付けられたのだ。このため、デザインは丸みを帯びたものではなく、やや角張ったものとした。
商用で角張った「ジムニー」をヒットさせた成功体験を持つ鈴木修は、アルトを商品化し、やがて1993年発売の「ワゴンR」という大ヒット商品へとつなげていく。いずれも、デザインは角張り系なのは共通するが、根底に流れるのは、お客様にとってのユーティリティー(つまりは便利な使い勝手)を基本に発想したモノづくりだった。
■47万円の「アルト」が大ヒット
商用と決めたことで、当時あった物品税が課税されなかったのは、価格を押し下げる面で大きかった。物品税の対象は贅沢品であり、乗用には15~30%もの税がかけられたが、商用ならばゼロだったのだ。
もう一つ、商用としたことでスズキが得意とする2サイクルエンジンを堂々と搭載できた。商用の排ガス規制は緩く、規制に対応する高出力エンジンが既にあったのだ。北海道の中山峠でも日光いろは坂でも、難なく登れるエンジンがである。
鈴木修は技術部門に対し無理なコストダウン要求を突きつける。
「私は、稲川さん(誠一常務、後に会長・技術部門のトップ)に『1台あたりの製造コストが35万円。それで儲けが出るクルマをつくってほしい』と言いました」(自著『俺は、中小企業のおやじ』)とある。35万円にするため、「エンジンを取ったらどうだ」と鈴木修は迫ったとされている。
技術部隊は、徹底的な軽量化を推し進める。軽くすれば、使用する部品や素材は少なくなり、コストダウンがはかれ、燃費性能も向上する。既存の2サイクルエンジンを搭載したことも、生産コストを抑えられて販売価格の低減にもつながった。
当時、軽自動車は60万円台で売られていた。これに対し「アルト」は、価格を全国統一の47万円と設定した。
衝撃的な値付けが受けて「アルト」は大ヒット。当初「月5000台売れれば」と目標を立てていた。ところが、発売1カ月目の注文は8400台、2カ月目は1万台に上がる。3年間で累計50万台も売れるのだ。
■業界初の全国統一価格
北海道の販社に勤務していた石黒光二秋田スズキ副会長は、当時の販売現場の様子についてこう話す。
「アルトはすぐに売れてしまい、販社間でタマ(商品)の取り合いでした。来店されるお客様に対しては、整理券を配ってました。さらに、別の軽自動車を買ったばかりのタイミングでアルトが発売され、『どうしてもアルトに替えてほしい』と申し出るお客様もいました」
全国統一価格は、業界初の試みだった。当時は輸送費の違いから、地域によって販売価格に差があった。さらに、同じブランドの中でも、内装の違いなどから「デラックス」、「スタンダード」などと価格を差別化していた。これをひとつにまとめたわけだが、その後1999年発売のトヨタ「ヴィッツ」(現在の「ヤリス」)も全国統一価格を実施してヒットさせている。
「アルト」が大きく売れたことにより、軽自動車市場そのものも発売翌年の1980年には、100万台の大台を回復。以来、100万台を割り込むことはない。ちなみに、2023年が約174万台、24年は約156万台だった。
■「軽自動車を作った男」
軽自動車をセカンドカーとする、新たなニーズが創出されるが、特に地方では自動車は「一家に一台」から「一人に一台」へと移行していく。きっかけを作ったのは「アルト」だった。
特筆すべきは軽自動車そのものの有り様の変化である。
21世紀に入り、我が国の高齢化は急速に進む。とりわけ、高齢化率が高いのにバス路線も廃止されていく地方において、「一人に一台」の軽自動車は、「生活者の足」と化していく。つまり軽自動車は必需品であり、インフラとなっていった。その原点に「アルト」はある。
なので、鈴木修は「軽自動車を作った男」なのだ。
アルトにはこんな秘話もある。
鈴木修は、心が重くなってしまった。
1979年5月12日の午後。この日は土曜日だったが、翌日に京都の国際会議場で新発売する軽自動車「アルト」の販売店向け発表会を控えていた。このため、浜松の自宅で説明の準備をしたのだが、そこに外注企業の社長の奥さんが突然、訪問してきたのである。
■取引先社長の奥さんの愚痴に答えが…
鈴木修はこのとき、アルトについて覚えることで頭が一杯の状態。営業企画から渡された資料では「アルトとはイタリア語で『(才能などに)秀でた』という意味」などとあった。
「何ともピンと来ない。明日、販売店の社長たちにどう説明したらよいのか。イタリア語の単語を一つ伝えたところで、彼らの心を動かせるとは思えない……」
悩んでいたところに、追い打ちをかけるような来客だったのだ。
「弱ったなあ……」。こうした突然の訪問は都会ではまずないが、田舎では珍しくはない。そして、たいていは聞きたくはない内容だ。忙しいからと本当は断りたい。が、地縁関係が強い田舎の浜松では、そうはいかない。
準備を中断し「どうぞ」と仕方なく招き入れると、奥さんはご主人の不品行を訴え始めた。
発表会の前日、夫の愚痴をこぼす奥さんに閉口しながらも、鈴木修は問うた。「で、どんなことがあったのですか」と。すると、「主人は“あると”きはこんなことを、また“あると”きはあんなこともやらかしまして」と答えたのだ。
「奥さん、いまなんと仰いました!」
「ですから、あるときは……」
この瞬間、鈴木修は閃いた。「これは、イタリア語よりわかりやすい」と。
■不測の事態から「突破するヒント」を
翌日の発表会で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利なクルマ。それがアルトです」と、キャッチをひねって話したのだ。
会場は大いに受けた。
突然の来客という不測の事態だったのに、「突破するヒント」を見つけ、販売店の人たちの心をつかんでしまう。
「いつも目標を持ち適度な緊張感を持っていると、気づきは必ずある」
と鈴木修は話してくれた。与えられたものを暗記するなど従うだけではなく、感性を豊かにアンテナを張っておけという意味だろう。
アルトのヒットで得た利益により、自動車の主流である4サイクルエンジンの生産設備を逐次導入していく。さらに、1000㏄クラスの小型車開発も水面下で始めていった。
ここまでは、鈴木修が意図した展開だった。自分が描いた戦略・戦術がうまく当たって、好結果を導けた。
一方で、世界最大の自動車会社だったGMとの提携、さらにインド進出は意図したものではなくて、外から訪れた案件だった。鈴木修が持つ「運」により引いてきた新境地である。
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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。
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(ジャーナリスト 永井 隆)
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