公営競技の1つである「BOAT RACE」。厳格なルールの下、プロ選手による熾烈な競技が展開される。
■養成所入所2週間前に発覚した悪性リンパ腫
ボートの最高速度は時速約80km。水面ぎりぎりを走るレーサーは時速120km近い体感速度で、ターンマークに突っ込んでいく。ボートレースとは、2点のターンマークを順番に旋回し、1周600ⅿのコースを3周して順位を決める競技。強靭な精神力と、展開を読む判断力が求められる、海事関係事業等の振興を目的に1952年から実施された日本独自(※)のスポーツでもある。
※2002年より韓国でもボートレースが開催されている
出場する6艇のレーサーは、年齢や男女の別なくレースを競い合う。現在、日本国内の全レーサー1616人のうち、女性は272人。その一人、倉持莉々さん(31歳)は20歳でデビューし、数々の優勝を獲得してきたが、キャリアのスタートは苛酷な闘病生活から始まった。
倉持さんは小5のときに兄の影響で水球を始め、中学時代に全国制覇を果たす。水泳強豪校へ進学すると、高2で日本女子代表に選ばれ、ワールドリーグ・アジア・オセアニア・ラウンドに初出場。2012年にはJOCジュニアオリンピックカップで優勝した。
さらにその先にめざしたのが、「ボートレーサー」になる夢だ。
ボートレーサーになるには、全国唯一の養成機関である「ボートレーサー養成所」に入所しなければならない。身長や体重、視力など応募資格をクリアし、倉持さんは倍率30~40倍といわれる試験に17歳で合格。高3の10月には入所する予定だった。
だが、その2週間前のこと、思いがけない病気が発覚する。実は体の不調は数カ月前から感じていたと、倉持さんは振り返る。
「真夜中にお腹が痛くなることがずっと続いていて、寝汗もひどかった。体重減少はボートレーサーに必要な減量をしていたから気づかなかったけれど、首にしこりができてどんどん大きくなったので、これはおかしいな……と。寮生活ではなかなか病院へ行けない状況でしたが、高熱も続いたので、監督に相談したのです。病院を数軒くらいまわったけれど、どこも『風邪で扁桃腺が腫れている』という診断。でも、明らかにそうじゃないことは自分で感じていたので、大学病院で精密検査を受けたところ、初めて病名がわかりました」
医師に告げられたのは、「ホジキンリンパ腫」。白血球の中のリンパ球ががん化する悪性リンパ腫の一種で、日本では10万人に1人くらい発症しているという。
抗がん剤治療は2週間に1回、6種類の薬を1日かけてゆっくりと注射する。その度に節々に激痛が走り、舌もしびれて味覚を失い、吐き気にも苦しむ。抗がん剤は光に弱いので、暗い室内で血管がつぶれるような激痛に耐えることが何よりつらかった。
■闘病から1年、再チャレンジで掴んだ夢
最初の入院後は通院治療が続き、母親がいつも付き添ってくれた。当初は抗がん剤が効かず、心身ともに苛酷な闘病生活を送る。そんな日々の中、水球のチームメイトたちの存在は大きかった。
「寮生活で一緒に過ごす時間がすごく長かったので、どんなときも心から応援してくれました。闘病中もよく連絡をくれたり、家まで会いに来てくれたり、チームメイトは大きな支えでしたね」
徐々に数値が改善していくと、体はつらいながらも動かせるようになった。すると、諦めきれずにいた夢が再燃する。「もう一回、養成所の入所試験を受けたい」と心を決め、両親も応援してくれた。テニスやスポーツジムに通って、筋力トレーニングを再開。
倉持さんは再び試験に挑戦し、合格を果たす。2013年4月には念願だった養成所に入所。ボートレーサーへの道が、いよいよスタートしたのである。
養成所では1年間の訓練を受ける。全寮制で分刻みの規則正しい生活をしながら、ボートの操縦や整備などの知識・技術を身に付けるとともに、社会人としての基礎を学んでいく。ほぼ半数は脱落するという厳しさだったが、倉持さんは笑顔で懐かしむ。
「充実した日々でしたね。治療中は外出もほとんどできず、好きなものも食べられなかったので、普通の生活ができることが嬉しくて、生きているという実感がありました」
養成課程を修了すると、国家試験を受験。合格すると、晴れてプロデビューできる。プロになると、全国各地で開催されるボートレースの中で出場レースを斡旋される。年間20~30のレースを転戦するという。
倉持さんは2014年5月にボートレース平和島に出場し、20歳でデビュー戦に臨んだ。レースを転戦するほどに、競技の厳しさを思い知らされる。初勝利をあげるまでには1年半かかり、成績はなかなか伸びなかった。
「ボートを操縦するだけでなく、レースに臨む前の準備として、モーターやプロペラの整備など、本当に細々とした目に見えない調整がたくさんあります。毎日、気温や気圧も違うので、それに応じてうまく調整していくのがすごく難しいですね」
ボートとモーターは、各レース場で所有しているものを使う。前検日(レース開催前日)に抽選で各選手に割り当てられ、それを開催期間中使うことになる。ボートもモーターも基本的に個体差なくつくられ、1年で交換されているが、さまざまな選手が使用しているうちにどうしても性能にばらつきが出てくるという。
さらにボートレースは、男女一緒に競う稀有なプロスポーツでもある。選手の体重がレースの勝敗に影響するため、男子52kg、女子47kgという「最低体重制限」が設けられているが、それ以外は同じ条件でレースに臨むのである。
ボートレースは、体重が軽いほうが有利ではある。しかし、体重を落としすぎて体調を壊す選手が続出した過去もあり、1988年に体重に関する最低数値が設けられ、制限された。そのため最低体重を下回れば重りを着用して操縦することになる。
■闘病、育休を経てわかったレースを続ける意味
倉持さんにとって、ターニングポイントとなったのは2018年2月平和島のレースだった。男女混合の一般戦で優勝戦までコマを進め、準優勝を手にした。
「モーターがすごく良かったので、こんなビッグチャンスを逃したら、私はもう二度と優勝はできないと思って臨みました。優勝はできなかったけれど、こういう走りをすれば優勝に手が届くかもしれないという手応えがあり、次につながる自信になりましたね」
ボートレーサーには、「A1」「A2」「B1」「B2」と4つの階級がある。デビュー時は「B2」からスタートし、半年間の勝率を基に級別が更新され、トップレーサーへの階段を上っていく。最高ランクのA1は、全レーサー数の上位20%ほど。倉持さんはデビューから8年目にA1に昇格した。
続いて翌年には、さらなる快挙を遂げる。レースにはグレードがあり、最高峰はSG(スペシャルグレード)と呼ばれる優勝賞金2000万円~1億1000万円以上のレース。厳しい条件をクリアしたひと握りのレーサーのみが出場できるハイレベルな舞台だ。
「本当に運が良かったというか、自分でももうびっくりという感じでした(笑)」
ボートレーサーをめざす中で闘病生活を乗り越え、再発の恐れがある5年も無事に過ぎた。トップレーサーに上り詰めた倉持さんは、2023年に同じくボートレーサーである金子拓矢選手と結婚。翌年3月には男児を出産した。1年余りの産・育休を経て、2024年10月に現役復帰を果たす。その間にはやはり揺れ動く思いもあったようだ。
「2023年はとても調子が良かったので、長く休まなければいけないのはもったいないという気持ちも大きかった。でも、家庭を持ち、子育てをしていても、強い女性レーサーはたくさんいるので、復帰した時にまた活躍すればいいんだと心を決めました」
レース復帰後は最下級B2ランクからの再スタートだった。レースに出場する際は1週間ほど家を空けることになり、その間は近くに住む母親が子どもを見ていてくれる。レーサーの夫とは交代で家事や育児をこなし、協力体制も工夫していた。
「レース中は子どもと一緒にいられないからこそしっかり頑張ろうと思えるし、仕事から帰ると、子どもと過ごすのが楽しくて、そのメリハリが自分に合っているなと思います。子どもを産んで辞めていく選手もいるのですが、レース場では日常で味わえない緊張感や高揚感を味わうことができる。私は復帰してなおさらこの仕事が楽しいと思えるようになりましたね」
華やかに見えるレースの舞台。体感速度は時速約120kmともいわれる高速競技。他艇との接触や転覆で命を落とす危険とも隣り合わせだ。さらにはレースへと続く、日々の地道な作業の繰り返しがある。それでもボートレーサーを続けるのは「楽しい」からだと倉持さんは言う。ときに減量がうまくいかずメンタルが落ちこむこともあるが、日々何か一つでも楽しみを見つけていくことを大事にしているという。女子選手の数は年々増えており、40代、50代、60代と年齢を重ねながら活躍する人たちもいる。
今、31歳の倉持さんが目標にするのは、再び最上級のA1ランクに復帰すること。レースが好きでたまらないという晴れやかな笑顔の先には、まだ誰も到達していない場所を確かに見つめている。
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倉持 莉々(くらもち・りり)
プロボートレーサー
1993年10月1日生まれ。茨城県土浦市出身。114期として2014年3月にボートレーサー養成所を修了、同年5月にボートレース平和島でデビュー。2022年A1ランクに昇格。2023年名古屋グランパスカップ・男女W優勝シリーズ1位。2024年10月、出産・育休後B2ランクで復帰戦出場、現在A2ランク。A1奪取をめざす。東京支部所属。
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(プロボートレーサー 倉持 莉々 構成・文=歌代幸子)
2014年にデビューし、数々のタイトルを獲得してきた倉持莉々さんの華やかな競技人生の道は、過酷ながん闘病からはじまった――。
■養成所入所2週間前に発覚した悪性リンパ腫
ボートの最高速度は時速約80km。水面ぎりぎりを走るレーサーは時速120km近い体感速度で、ターンマークに突っ込んでいく。ボートレースとは、2点のターンマークを順番に旋回し、1周600ⅿのコースを3周して順位を決める競技。強靭な精神力と、展開を読む判断力が求められる、海事関係事業等の振興を目的に1952年から実施された日本独自(※)のスポーツでもある。
※2002年より韓国でもボートレースが開催されている
出場する6艇のレーサーは、年齢や男女の別なくレースを競い合う。現在、日本国内の全レーサー1616人のうち、女性は272人。その一人、倉持莉々さん(31歳)は20歳でデビューし、数々の優勝を獲得してきたが、キャリアのスタートは苛酷な闘病生活から始まった。
倉持さんは小5のときに兄の影響で水球を始め、中学時代に全国制覇を果たす。水泳強豪校へ進学すると、高2で日本女子代表に選ばれ、ワールドリーグ・アジア・オセアニア・ラウンドに初出場。2012年にはJOCジュニアオリンピックカップで優勝した。
さらにその先にめざしたのが、「ボートレーサー」になる夢だ。
小学生の頃から抜群の運動神経を見込んだ父に勧められ、自身も女子選手の姿を見ては憧れるようになった。
ボートレーサーになるには、全国唯一の養成機関である「ボートレーサー養成所」に入所しなければならない。身長や体重、視力など応募資格をクリアし、倉持さんは倍率30~40倍といわれる試験に17歳で合格。高3の10月には入所する予定だった。
だが、その2週間前のこと、思いがけない病気が発覚する。実は体の不調は数カ月前から感じていたと、倉持さんは振り返る。
「真夜中にお腹が痛くなることがずっと続いていて、寝汗もひどかった。体重減少はボートレーサーに必要な減量をしていたから気づかなかったけれど、首にしこりができてどんどん大きくなったので、これはおかしいな……と。寮生活ではなかなか病院へ行けない状況でしたが、高熱も続いたので、監督に相談したのです。病院を数軒くらいまわったけれど、どこも『風邪で扁桃腺が腫れている』という診断。でも、明らかにそうじゃないことは自分で感じていたので、大学病院で精密検査を受けたところ、初めて病名がわかりました」
医師に告げられたのは、「ホジキンリンパ腫」。白血球の中のリンパ球ががん化する悪性リンパ腫の一種で、日本では10万人に1人くらい発症しているという。
肺や股関節にもすでに転移しており、「一刻も早く、抗がん剤治療を始めましょう」といわれた。
抗がん剤治療は2週間に1回、6種類の薬を1日かけてゆっくりと注射する。その度に節々に激痛が走り、舌もしびれて味覚を失い、吐き気にも苦しむ。抗がん剤は光に弱いので、暗い室内で血管がつぶれるような激痛に耐えることが何よりつらかった。
■闘病から1年、再チャレンジで掴んだ夢
最初の入院後は通院治療が続き、母親がいつも付き添ってくれた。当初は抗がん剤が効かず、心身ともに苛酷な闘病生活を送る。そんな日々の中、水球のチームメイトたちの存在は大きかった。
「寮生活で一緒に過ごす時間がすごく長かったので、どんなときも心から応援してくれました。闘病中もよく連絡をくれたり、家まで会いに来てくれたり、チームメイトは大きな支えでしたね」
徐々に数値が改善していくと、体はつらいながらも動かせるようになった。すると、諦めきれずにいた夢が再燃する。「もう一回、養成所の入所試験を受けたい」と心を決め、両親も応援してくれた。テニスやスポーツジムに通って、筋力トレーニングを再開。
治療が1年経ったところで、主治医からもこれなら大丈夫と言われるまでに回復した。
倉持さんは再び試験に挑戦し、合格を果たす。2013年4月には念願だった養成所に入所。ボートレーサーへの道が、いよいよスタートしたのである。
養成所では1年間の訓練を受ける。全寮制で分刻みの規則正しい生活をしながら、ボートの操縦や整備などの知識・技術を身に付けるとともに、社会人としての基礎を学んでいく。ほぼ半数は脱落するという厳しさだったが、倉持さんは笑顔で懐かしむ。
「充実した日々でしたね。治療中は外出もほとんどできず、好きなものも食べられなかったので、普通の生活ができることが嬉しくて、生きているという実感がありました」
養成課程を修了すると、国家試験を受験。合格すると、晴れてプロデビューできる。プロになると、全国各地で開催されるボートレースの中で出場レースを斡旋される。年間20~30のレースを転戦するという。
倉持さんは2014年5月にボートレース平和島に出場し、20歳でデビュー戦に臨んだ。レースを転戦するほどに、競技の厳しさを思い知らされる。初勝利をあげるまでには1年半かかり、成績はなかなか伸びなかった。
「ボートを操縦するだけでなく、レースに臨む前の準備として、モーターやプロペラの整備など、本当に細々とした目に見えない調整がたくさんあります。毎日、気温や気圧も違うので、それに応じてうまく調整していくのがすごく難しいですね」
ボートとモーターは、各レース場で所有しているものを使う。前検日(レース開催前日)に抽選で各選手に割り当てられ、それを開催期間中使うことになる。ボートもモーターも基本的に個体差なくつくられ、1年で交換されているが、さまざまな選手が使用しているうちにどうしても性能にばらつきが出てくるという。
さらにボートレースは、男女一緒に競う稀有なプロスポーツでもある。選手の体重がレースの勝敗に影響するため、男子52kg、女子47kgという「最低体重制限」が設けられているが、それ以外は同じ条件でレースに臨むのである。
ボートレースは、体重が軽いほうが有利ではある。しかし、体重を落としすぎて体調を壊す選手が続出した過去もあり、1988年に体重に関する最低数値が設けられ、制限された。そのため最低体重を下回れば重りを着用して操縦することになる。
倉持さんも「体重管理は入所試験の頃から毎日の試練。たった1グラムに泣くこともある」というほど、ボートレーサーにとって「体重」は、勝敗の明暗を分ける重要な要素の1つなのだ。
■闘病、育休を経てわかったレースを続ける意味
倉持さんにとって、ターニングポイントとなったのは2018年2月平和島のレースだった。男女混合の一般戦で優勝戦までコマを進め、準優勝を手にした。
「モーターがすごく良かったので、こんなビッグチャンスを逃したら、私はもう二度と優勝はできないと思って臨みました。優勝はできなかったけれど、こういう走りをすれば優勝に手が届くかもしれないという手応えがあり、次につながる自信になりましたね」
ボートレーサーには、「A1」「A2」「B1」「B2」と4つの階級がある。デビュー時は「B2」からスタートし、半年間の勝率を基に級別が更新され、トップレーサーへの階段を上っていく。最高ランクのA1は、全レーサー数の上位20%ほど。倉持さんはデビューから8年目にA1に昇格した。
続いて翌年には、さらなる快挙を遂げる。レースにはグレードがあり、最高峰はSG(スペシャルグレード)と呼ばれる優勝賞金2000万円~1億1000万円以上のレース。厳しい条件をクリアしたひと握りのレーサーのみが出場できるハイレベルな舞台だ。
2023年、倉持さんは女子選手では史上5人目となるSG優出(優勝戦に出場)を達成し、3位でゴールした。
「本当に運が良かったというか、自分でももうびっくりという感じでした(笑)」
ボートレーサーをめざす中で闘病生活を乗り越え、再発の恐れがある5年も無事に過ぎた。トップレーサーに上り詰めた倉持さんは、2023年に同じくボートレーサーである金子拓矢選手と結婚。翌年3月には男児を出産した。1年余りの産・育休を経て、2024年10月に現役復帰を果たす。その間にはやはり揺れ動く思いもあったようだ。
「2023年はとても調子が良かったので、長く休まなければいけないのはもったいないという気持ちも大きかった。でも、家庭を持ち、子育てをしていても、強い女性レーサーはたくさんいるので、復帰した時にまた活躍すればいいんだと心を決めました」
レース復帰後は最下級B2ランクからの再スタートだった。レースに出場する際は1週間ほど家を空けることになり、その間は近くに住む母親が子どもを見ていてくれる。レーサーの夫とは交代で家事や育児をこなし、協力体制も工夫していた。
「レース中は子どもと一緒にいられないからこそしっかり頑張ろうと思えるし、仕事から帰ると、子どもと過ごすのが楽しくて、そのメリハリが自分に合っているなと思います。子どもを産んで辞めていく選手もいるのですが、レース場では日常で味わえない緊張感や高揚感を味わうことができる。私は復帰してなおさらこの仕事が楽しいと思えるようになりましたね」
華やかに見えるレースの舞台。体感速度は時速約120kmともいわれる高速競技。他艇との接触や転覆で命を落とす危険とも隣り合わせだ。さらにはレースへと続く、日々の地道な作業の繰り返しがある。それでもボートレーサーを続けるのは「楽しい」からだと倉持さんは言う。ときに減量がうまくいかずメンタルが落ちこむこともあるが、日々何か一つでも楽しみを見つけていくことを大事にしているという。女子選手の数は年々増えており、40代、50代、60代と年齢を重ねながら活躍する人たちもいる。
今、31歳の倉持さんが目標にするのは、再び最上級のA1ランクに復帰すること。レースが好きでたまらないという晴れやかな笑顔の先には、まだ誰も到達していない場所を確かに見つめている。
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倉持 莉々(くらもち・りり)
プロボートレーサー
1993年10月1日生まれ。茨城県土浦市出身。114期として2014年3月にボートレーサー養成所を修了、同年5月にボートレース平和島でデビュー。2022年A1ランクに昇格。2023年名古屋グランパスカップ・男女W優勝シリーズ1位。2024年10月、出産・育休後B2ランクで復帰戦出場、現在A2ランク。A1奪取をめざす。東京支部所属。
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(プロボートレーサー 倉持 莉々 構成・文=歌代幸子)
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