大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)で染谷将太演じる絵師の喜多川歌麿は、春画(枕絵)も手がけていた。蔦屋重三郎についての著作がある増田晶文さんは「歌麿は妖怪絵の石燕(片岡鶴太郎)に学んだが、女性の情感を描くのが天才的に上手かった」という――。

※本稿は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■歌麿は18歳前後で石燕一門として絵師デビュー
歌麿の画が初めて世に出たのは明和7(1770)年だった。
蔦屋重三郎(蔦重)が21歳になって、ようよう吉原細見を売ろうかという頃、歌麿は歳旦絵入俳諧『ちよのはる』に挿画を残した。これは正月の会で披露する俳諧を集めた俳書で鳥山石燕一門が中心となり画を担当したもの。『ちよのはる』収録の茄子の画には「少年石要(しゃくよう)画」の署名があり、これが歌麿デビュー作とされる。
おかげで、ようやく歌麿の来歴が具体的な形をもって浮かびあがってきた。まず歌麿が石燕の弟子だったこと。石燕は俳諧に深く親しみ、その道では東柳窓燕志の門下とされる。絵は狩野周信(ちかのぶ)、玉燕から学んだ。石燕には「石」か「燕」の字をとった弟子が多く、歌麿の「石要」もその伝にならっている。また、後年の歌麿の武者絵『関羽』に「零陵洞(れいりょうどう)門人哥麻呂画」とあり、零陵洞が石燕の号なので師弟関係にあることは判然としている。
■「子ども時代の歌麿」を石燕が書き残している
そして話は18年後の天明8年に飛ぶのだが――蔦重が歌麿に卓抜の写生術を発揮させた『画本虫撰(えほんむしえらみ)』に石燕は跋文を寄せているので意訳してみよう。

「子どもだった歌麿は秋津虫(トンボ)を繫ぎ、はたはた(バッタ)、蟋蟀(コオロギ)などを手の上に乗せてあそんでいた」
歌麿が何歳で石燕に入門したのかはわからぬが、虫遊びに夢中になるのだから10歳くらいまでのことか。しかし、石燕はいかなる理由で幼子を弟子に迎えたのか、それもまた詳らかにはなっていない。おかげで歌麿が石燕の庶子あるいは養子だったという説がある。
かくいう石燕は狩野派の絵師だったが本絵より卑俗な世界で活躍した。ことに妖怪画は有名で『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』はじめ数々の版本が現存している。石燕の描く妖怪画を一瞥すれば、『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるに大きな影響を与えているのは明白。その意味で今日の私たちが抱く妖怪のビジュアルイメージは石燕に負うところが大きい。
■歌麿は石燕の庶子だったという説のソース
歌麿のデビューが『ちよのはる』だとすると、過去帳の没年から逆算すれば18歳。「少年」と呼ぶにはギリギリの年齢であり、特別に早熟というわけでもない。
この後、彼がどんな作品を描き、どんな生活を送っていたかは再び闇に包まれてしまう。だが安永4(1775)年の冬、歌麿は富本正本『四十八手恋所訳(しじゅうはってこいのしょわけ)』の上下2巻のうちの下巻の表紙を描いた。通説に従えば23歳、彼は北川豊章と落款している。
この名は石燕の本名佐野豊房にちなむ。しかも石燕が「豊」の字を許したのは歌麿くらいしかおらず、そういう由縁が前出の庶子、養子説につながっている。
■春画でも才能を発揮した歌麿の「新しい感覚」
2013年10月から翌年1月にかけて大英博物館が催した「大春画展」は9万人近い観覧者を集めた。展示された浮世絵のなかでも白眉と高い評判を得たのが他ならぬ歌麿の春画だ。
春画は艶本、咲本、笑本ともいい(いずれも読みは「えほん」)、枕絵、勝絵、笑い絵、ワ印などの別名がある。春画のテーマはセックスに他ならない。だが、春画はポルノグラフィーのように一義的な目的で愛用されていない。
性の営みは五穀豊穣、子孫繁栄と密接に結びつく。春画の別名に「咲」「笑」の字を宛てたとおり、江戸の民は色恋や色情を陽気に捉え、そこに滑稽さも感じとった。「咲」は「わらう、えむ」であり「口をすぼめて笑う」が原意。「笑」は「咲」が転じて一般化した字(『漢字源』/学研)。それゆえ、春画は新春にふさわしい寿ぎの絵として年礼の進物にさえなった。

江戸人の性』(氏家幹人/草思社文庫)には、江戸藩邸勤務となった藩士が奥女中への恒例の手土産として携えるのは新刊の春画と書かれている。同趣のエピソードとして江戸城内の「坊主衆が懇意の大名たちに新春の『御祝儀』として(春画を)贈った」ともある。
その他に春画は嫁入り道具として求められたほか、武士の弾除け、衣類の虫除け、さらには火除けの効能まで信じられていた。その根底には、性事と超自然の呪力との結びつきがあろう。陽物(生殖器)信仰はその典型で、日本各地にみられる。まして春画の性器はとんでもなく巨大に描かれており、江戸の民が一種の神通力を感じてもおかしくはない。
このように、春画は卑俗で卑猥ではあったが浮世絵のジャンルとして認知され、武家から庶民にまで男女を問わず広く愛された。
とはいえ、春画が本屋の店先で堂々と売られていたわけではない。
寛政の改革でも春画禁令が発布されている。それでも蛇の道はヘビ、春画は求める客が多かったからこそ供給された。江戸時代を通じて総計3千点近い新刊の春画が制作されたという。特に貸本屋ルートは春画流通の要、江戸の各戸を回る業者たちは荷の奥に春画を忍ばせていた。
実情をいえば、為政者は禁制の触れを出したものの、いたちごっこに終始し打つ手がなかった。
こんな背景があるからこそ、師宣、政信、祐信、春信、清長、北斎……一流の浮世絵師はこぞって春画を描いている。蔦重ゆかりの重政、春章、政演、政美だって例に漏れない。
当然のごとく歌麿は春画を手掛け、ここでも超一流の評価を得ている。
■『歌満くら』で河童に凌辱される海女の表情は…
林美一『艶本研究 歌麿』によれば、歌麿の春画初作は天明3(1783)年の『仇心香の浮粋』だが版元はわかっていない。林の研究によれば「これより五年間、艶本の作なし」となる。
歌麿の春画第2作は天明8年刊行とされる大判12枚揃えの大作錦絵『歌満(うたま)くら』、蔦重が版元だった。
本作は「蔦重―歌麿」が制作した春画の最高峰というだけでなく、春画の代表作と高く評価されている。天明8年といえば『画本虫撰』の刊行と同時期。蔦重は歌麿に写真の技を極めるようリクエストし、それが確かな画力として開花した時だ。
歌麿はこの時点で写真に終わらずモデルの内面を描く術まで手に入れていた。表の時系列でいえば『婦人相学十躰』『婦女人相十品』で披露した特色が、すでに裏の春画で発揮されていたことは刮目すべき事実。
『歌満くら』のページをめくれば、水中で河童に凌辱される海女の顔には当惑、嫌悪、やるせなさが浮かぶ。それを、岩の上でもうひとりの海女が見つめている。彼女は微笑んでいるものの、その真意は決して単純ではなさそうだ。
■性事だけでなく、前後のシーンまで眼に浮かぶ
また、料理茶屋での後家と間夫との情事では、女が喜悦だけでなく面映ゆさゆえに袂で顔を隠し、男はニヤけた表情で後家の裾に頭を突っ込んでいる。
別の画は夜這い、毛むくじゃらのむくつけきオッサンが娘に無体を働こうとしている。ところが娘は気丈そのもの、男の顔に手をやって背けるばかりか、眉をひそませ男の腕にかぶりつく猛抵抗ぶり。
さらに、茶屋の2階で逢引する男女は唇を重ねている(前ページの絵)。女は後ろ姿で顔がみえない。歌麿はこちらを向いている男も眼しか描かぬ。構図の工夫の卓抜さ、心憎い演出は『歌満くら』を名作たらしめている。しかも、男が手にする扇に書かれているのが宿屋飯盛の狂歌「蛤にはしをしっかとはさまれて鴫たちかぬる秋の夕くれ」なのだから蔦重ゆかりの穿ちが効いている。
『歌満くら』の春画はどれもこれも情感たっぷり、実にドラマティックだ。

切り取られた性事の一場面だけでなく、画にない前後のシーンまで眼に浮かぶ仕上がりになっている。蔦重としては、歌麿が春画でみせた新たな浮世絵の可能性を伸長させ、もっと早く美人大首絵として結実させたかっただろう。しかし、やはり寛政の改革下の筆禍事件が痛かった。
それでも出版人あるいはプロデューサー、ディレクター、プランナー……としての蔦重の功績は色あせない。絵入狂歌本、美人画、春画の各ジャンルにおける歌麿初期の傑作がすべて蔦屋耕書堂の刊行であること、その事実が蔦屋重三郎の偉大さを物語って余りある。

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増田 晶文(ますだ・まさふみ)

作家

1960年大阪府生まれ。同志社大学法学部法律学科卒業。1998年に『果てなき渇望』でNumberスポーツノンフィクション新人賞受賞。歴史関係の著作に『稀代の本屋 蔦屋重三郎』、『絵師の魂 渓斎英泉』、『楠木正成 河内熱風録』がある。

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(作家 増田 晶文)
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