1945年5月29日、沖縄攻略後に日本本土侵攻作戦を計画していたマッカーサーを翻意させる重大な事件が起こった。惨劇から80年を迎えた広島・長崎への原子爆弾投下と沖縄戦の間にある新視点を、ジャーナリストの亀井洋志が取材した――。

■20万人以上の犠牲を正当化するアメリカ
およそ20万人以上が犠牲になった広島、長崎の惨劇から80年を迎える。原子爆弾の使用について、米国の公式見解は「戦争を早期に終結し、多くの米兵の命を救った」と正当化していることはよく知られている。
この見解に対して米国内でも賛否は分かれているが、当時の米首脳部に原爆投下を決意させた要因の一つに、日本軍が使用していた「暗号」など機密書類の漏出があったとの指摘がある。米国は暗号の解読に成功し、日本軍が予想以上に軍備を増強して日米決戦に備えている事実を把握する。このため、日本本土上陸作戦から方針転換し、原爆使用に切り替えたというのである。
米軍が日本軍から機密書類を奪取した現場は、沖縄戦を指揮した第32軍司令部が布陣していた首里城の地下からだったとされる。元琉球大学教授で沖縄戦研究家の保坂廣志さんは「原爆投下のトリガー(引き金)は沖縄戦だった」という新たな視点を披歴する――。
■首里城の地下に眠る司令部壕
6年前に火災で焼失した首里城は、来年秋の完成を目指して再建工事が着々と進められている。激しい地上戦が行われた沖縄では、いまも多くの戦争の痕跡が残されているが、首里城の地下には日本軍の第32軍司令部壕が構築されていた。地下司令部には「坑口」と呼ばれる壕の出入り口が5カ所あり、坑道の総延長は約1キロメートルに及ぶ。
司令官室、参謀室、将校室、作戦室などがあり、およそ1000人の将兵が潜んでいたとされている。焦点となるのは、作戦の心臓部分といえる「情報・通信部隊作戦室」である。
保坂さんがこう説明する。
「情報部や通信隊、電報班など第32軍のインテリジェンス関連部隊は、第1坑道付近に集中していました。情報・通信作戦室は第32軍情報部と、配下である第24師団の作戦室などで構成されている。ここでは暗号班によって大量の暗号関連書類がつくられ、大本営や各地の実戦部隊と電報のやり取りが行われていました。機密保全上から関係者以外は誰も立ち入ることはできませんでした」
ちなみに第5坑道は、炊事場や風呂、発電施設などがある生活の場だった。兵隊たちのたまり場もあるが、第1、2、3坑道のほうには衛兵が立っており、一般の兵隊は立ち入ることができなかったという。また、入り口(第5坑口)近くに「女人棲息所」があり、日本人ばかりではなく朝鮮半島出身の従軍慰安婦もいたと見られている。
■地下壕で女性、米兵を虐殺
「第5坑口周辺では、虐殺行為が起きていたことも証言から明らかになっています。精神疾患に冒された女性が連れて来られて、みんなの見ている前で殺害されたといいます。現在の那覇市おもろまちを舞台に激戦が繰り広げられたシュガーローフの戦いで、捕虜となった米海兵隊員を処刑したことも米側の記録でわかっています。第5坑口は海側を向いていて、艦砲射撃を受けやすい場所にありました。その反対側にあったのが第3坑口で、近くに司令官室がありました。
牛島満司令官はすぐに逃げ出せる場所にいたのです」
米軍は、1945年4月1日に沖縄本島に上陸し、第32軍司令部がある首里を目指して侵攻した。日本軍の陣地を次々と突破し、激戦の末にシュガーローフを攻略。5月21日には首里防衛の最後の砦である運玉森(ウンタマムイ)(西原町・与那原町)を占領した。米軍の猛攻により、首里陥落は確実な情勢に追い込まれていったのである。
5月22日、牛島司令官は首里を放棄し、本土決戦を遅らせる時間稼ぎのため、南部への撤退を決定する。27日、第32軍は首里から摩文仁(まぶに)司令部への撤退を開始する。この間、第32軍は機密書類を敵の手に渡すまいと焼却処分を行った。
■米軍が「飛び上がって喜んだ」
ところが、その2日後の29日に米海兵隊や第10軍情報分遣隊が首里の司令部壕に突入すると、第5坑道の炊事場付近から、焼却が間に合わず残されたままの機密書類を発見する。書類を焼却する際は、暗号班を統括する暗号将校が立ち会うことになっていたが、暗号将校はわれ先にと逃げ出していたのである。保坂さんが解説する。
「米第10軍情報部は約320点に及ぶ軍事機密文書や暗号書類を発見し、押収しています。その中には、米軍が組織を挙げて解読に取り組んでいた日本軍の暗号に関する書類が含まれていました。
それが『陸軍暗号書5号』と、その暗号を組み立てるために必要な『乱数表 乙13』です。暗号書は改定をくり返し、5号は最新号でした。米軍は暗号書類を整理して米国の暗号解析所に送ったところ、ワシントンの情報担当者は飛び上がって喜んだといいます。今後、日本の陸軍が打つ暗号が、すべて解読できるようになるからです」
■「世界一難解な暗号」のあっけない解読
『陸軍暗号書』は参謀本部(大本営陸軍部)、総軍、方面軍、軍、師団の中枢ラインで使用されていたものだ。1万語近い平文を4桁数字にコード化している。「陸軍暗号書5号」を見ると、例えば、陸軍省は「9339」、参謀本部は「6243」だ。時間の単位を見ても、1月「3917」、2月「5527」、3月「8237」などとなっており、言うまでもなく何の規則性もない。
この数字に、乱数表にある4桁数字を足して電報を打つ。例えば、艦砲射撃は「5420」だが、乱数表の該当数値が仮に「1121」だとすれば、「6541」と打電する。暗号を受ける側も同じ乱数表を持っていて「1121」を引いて解読する。暗号化したものに、さらに乱数表による変換を加えることで、いっそう敵に解読されにくくしているのだ。1回当たりの電文の長さは50語とされ、緊急の場合などは、さらに「其の二」などを加えて電文が送受信されたという。

「日本の軍部は、数学者や言語学者など優れた知性を集め、世界一難解な暗号を考案したと慢心していました。それが、いとも簡単に米軍に捕獲され、見破られたのです。米側は日本軍の電文を傍受し、暗号を完璧に解読することに成功します」
以降、米側には日本側の動きが手に取るようにわかったのである。沖縄戦での勝利をほぼ手中に収めた米軍の次の関心事は、本土決戦に備える日本軍の九州における部隊配置と陣容だった。
■「九州上陸計画」と「関東侵攻計画」
米軍を主力とする連合国軍は、「ダウンフォール作戦」と名付けられた日本本土進攻作戦の計画を立てていた。この作戦は、1945年11月に九州南部へ上陸する「オリンピック作戦」と、1946年3月に関東に侵攻する「コロネット作戦」の二段階に分けられ、「オリンピック作戦」の総司令官に任命されていたのが、マッカーサー陸軍大将だった。
「九州における日本軍の陣容は、沖縄戦の最中だった6月の段階で兵力数は約10万人でした。対する米軍側は、海兵隊と陸軍を合わせて約32万人で上陸作戦を計画していました。『攻撃三倍の法則』といって味方と敵の比率が3対1になれば、過大な死傷者を出さずに戦闘で勝利を収め、敵を制圧できる可能性が高まるとされています。この時点では、米軍は3倍の兵力差を確保していたのです」
ところが、沖縄を守備していた第32軍が南部に撤退して時間稼ぎをしている間に、日本軍は九州での兵力を増強していったのである。第32軍の牛島司令官と長勇参謀長が6月23日に自決して沖縄戦が事実上終結すると、7月からの無線情報から、九州における日本軍部隊の大部分が明らかになった。
■マッカーサー「これでは戦えない」
保坂さんがこう語る。

「兵力数は時期によって異なりますが、7月25日時点の米側の解析では、九州の日本軍は約52万5000人にまで膨らんでいました。一方、米軍の兵力は約77万6700人でした。日本軍の航空戦力もかなり大きいことも判明します。国内に相当数あった練習機も含めて1万機以上を集結させ、九州に向かってくる米艦船に対して特攻作戦で迎え撃とうとしたのです。米側は警戒感を強め、マッカーサー将軍の諜報担当責任者だったウィロビー少将は、日本軍の兵力にさらなる未確認の増強があれば『勝利の法則が適合しなくなる恐れがある』と懸念を表明したのです」
ワシントンの参謀本部が重視したのは、戦争統計学である。沖縄戦の犠牲者は、日本側が沖縄の民間人約9万4000人を含め、約19万人に上る。一方、米軍側は地上戦闘部隊と海軍合わせて1万2500人の死者を出し、負傷者数も3万人余と見られている。米国ではこの沖縄戦の結果から推計し、米軍が日本本土進攻作戦を決行すれば、米側におよそ100万人の死傷者が出ると予測した。
「この『100万人死傷説』を受け、当初はオリンピック作戦に強い意欲を見せていたマッカーサーも『これでは戦えない』と方針転換せざるを得なくなったのです」
沖縄戦は、米軍側にも多大なダメージを与えた。特攻作戦による「自爆」攻撃はもとより、米兵を戦慄させたのは集団自決(強制死)の多発である。日本兵や住民が捕虜になることを拒んで、手榴弾などで自決していく光景にも強いショックを受けている。
■原爆で日本にとどめを刺せ
米国陸軍省による沖縄戦の公式記録には、次のように記されている。

〈米軍の損害もまた、太平洋戦争中では最も大きかった。(中略)戦病者は数えきれぬほどだった。その多くが神経症、つまり“戦闘疲労症”であった。この種の患者は、海兵二個師団で六千三百十五人、陸軍四個師団で七千七百六十二人もあった。最大原因は、もちろん日本軍の猛烈な大砲や迫撃砲による集中砲撃だ。それは、米軍がこれまで太平洋戦争で経験したこともない、ものすごい量だった。このほか、米兵の神経に障害を与えたものに、日本軍の狂信的な、しかもたえまなく行われる肉弾戦があった〉

米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)より
このうえ日本本土上陸作戦を実行に移せば、泥沼の戦いになることは目に見えている。沖縄戦が事実上終結した6月23日、日本は義勇兵役法を施行し、15歳から60歳までの男性、17歳から40歳まで女性に義勇兵役を課し、民兵組織である「国民義勇戦闘隊」に編入できるようにした。本土決戦を見据えて「国民皆兵」を目論んだのである。
「こうしたことから、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官をはじめとする米首脳の間で『日本人は総武装しており、上陸作戦を行っても戦いをやめないし、降伏もしないだろう。このまま戦争を続けると日米双方に多大な犠牲者が出ることは避けられない』との見方が強まっていきます。米兵の『100万人死傷説』とともに、日本兵は160万人が死亡し、当時の日本の人口約7200万人のうち、500万~1000万人が死傷するとの試算が出されました。いくら戦争とはいえ、1000万人も殺戮するのはジェノサイドというほかなく、後世において歴史的な汚点になるのはまちがいない。『ならば、原爆投下によって早期にとどめを刺せ』との考えに急速に傾いていったのです」
■「無条件降伏」緩和のワケ
米国内向けには米兵の「100万人死傷説」を強調して、トルーマン大統領は「米国青年の生命を救うために原爆を使用した」と述べ、国民の理解を得ようとした。
日本軍の暗号解読を行った米暗号解析官のジョー・リチャードは、沖縄戦で暗号など機密書類が入手できたことがきっかけとなり、原爆を使用したのだと指摘している。
〈一九四五年六月、沖縄関連のコードブックが復元されたおかげで、そのころ通信文の翻訳がどんどん回ってきて、『その結果、日本本土への上陸作戦にたいし、日本陸軍が徹底抗戦の準備を整えているという情報をとらえた。防衛計画は全日本国民を巻き込む大規模なもので、連合国参謀本部は、(硫黄島と沖縄での事例にもとづき)連合国側に一〇〇万人の死傷者が出ると予測した。それでトルーマンは原子爆弾を使用し、ローズベルトが通告した無条件降伏という最後通牒を多少緩和して、天皇制を保持した状態での降伏を受け入れる気持ちになったのではないか』〉

ライザ・マンディ著『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』(みすず書房)より
保坂さんの「沖縄戦が原爆投下のトリガーになった」との指摘を裏付けるものだ。
沖縄戦を指揮した第32軍は、沖縄戦の開始から厳しくスパイを取締りながら、自ら敵に機密書類を奪われるという重大な過ちを犯した。このことを許容し難いのは、沖縄住民をスパイ視しての虐殺行為が後を絶たなかったからだ。
■雲隠れした戦争犯罪人たち
一方で、情報戦を駆使して多くの人々を戦場へと駆り立てた暗号班のメンバーたちは、戦争が終わると一斉に逃亡し、身を隠したというのである。保坂さんが怒りを滲ませながら、こう語る。
「暗号班は、国家機密に関わるので戦争犯罪人になります。戦争が終わったとたん、東京の参謀本部から各師団に至るまで、暗号班は箝口令を徹底して逃げ出したのです。彼ら暗号班は800人くらいの生き残りがいたと見られますが、戦後、誰一人して名乗り出て証言をしようという者は現れませんでした。戦争の実態解明において、暗号班は光が当てられなかった最も暗い部分だといえます」
沖縄の地上戦と広島・長崎への原爆投下が地下深く直結していたのであれば、これ以上の悲劇はない。日本軍からの暗号漏出が、米国側に原爆使用の口実とされた可能性もあり、戦争の酷さと罪深さに慄然とさせられる。ましてや、原爆投下によって「日米双方の多くの命が救われた」との見方が未だにあるが、不見識というほかないだろう。

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亀井 洋志(かめい・ひろし)

ジャーナリスト

1967年愛知県生まれ。『週刊文春』『週刊朝日』などの専属記者を経て、現在はフリーランス・ジャーナリスト。著書に『どうして私が「犯人」なのか』(宝島社新書)、『司法崩壊』(WAVE出版)など。

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(ジャーナリスト 亀井 洋志)
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