なぜ日本は太平洋戦争に負けたのか。日本海軍史研究者で大和ミュージアム館長の戸高一成さんは「昭和17年に起きたミッドウェー海戦での敗北は、太平洋戦争のターニングポイントになった。
※本稿は、戸高一成『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■太平洋戦争のターニングポイント
ミッドウェー海戦は、現代のわれわれが学ばなければならない戦いである。
昭和17年(1942)6月5日(現地時間6月4日)、北太平洋中央部のミッドウェー島沖で、日本とアメリカの機動部隊が激突した。空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)、戦艦2隻(榛名、霧島)、重巡洋艦2隻(利根、筑摩)など、日本海軍の作戦史上トップクラスの巨大兵力を投じ、三日にわたる戦闘を繰り広げた。
しかし、日本はすべての空母と200機以上の航空機を失うという大敗を喫する。空母4隻は、普通の軍艦に比べて遙かに大きな戦力をもっている。つまり、大きな艦隊が全滅したに等しいと考えていい。
それによって、戦争の作戦遂行能力が大幅に損なわれたのはいうまでもなく、以後、日本は劣勢を覆すことができず、敗戦へと至った。その意味では、太平洋戦争のターニングポイントといえる海戦だ。もっとも、「ハワイ攻略の足場としてミッドウェー島を取る」作戦は、海軍内部で「いずれ実施する」程度に考えられていたものだった。
それが昭和17年6月に実施されたのは、連合艦隊司令長官・山本五十六の強い意志による。同年4月18日、日本近海に迫ったアメリカの空母ホーネットから、ドゥーリットル中佐率いる爆撃隊が発進。東京などの日本本土を空襲した。
被害は軽微だったが、この「ドゥーリットル空襲」は天皇への崇敬の念が強い山本に大きな衝撃を与えた。連合艦隊を預かる者として、東京への空襲を二度と繰り返させないために、ミッドウェー作戦を主張したのである。
■「日本の海軍はアメリカをなめきっていた」
ミッドウェー島攻略自体は、将来の実施が計画されてはいたが、具体的スケジュールは、まだなかった。軍令部は「その時機ではない」と判断したが、軍令部の反対を押し切って真珠湾作戦を成功させた山本に、強く抵抗できなかった。
こうして本来の長期計画に沿わないイレギュラーな形で、ミッドウェー作戦は無理矢理実行されるのである。
ミッドウェー作戦の前段として、真珠湾作戦とインド洋作戦で大きな戦果をあげたことにより、「機動部隊が行けば勝てる」との意識が海軍内にあったことを指摘しておきたい。そこには「負ける」という危機感がなく、終戦時に連合艦隊の参謀であった千早正隆氏の言葉を借りれば、「日本の海軍はアメリカをなめきっていた」。
たとえば、山本五十六が指揮する戦艦大和以下の第一艦隊が、機動部隊の後方に出撃していたが、誰が見てもこの艦隊が出ていく必要はなかった。では、なぜ出撃したのか。
軍人が戦地にいるのと内地にいるのとでは、大きな違いがある。恩給の額や給与に差がつく上に、勲章の査定にも影響する。もちろん、戦地にいるほうがプラスだ。連合艦隊司令部は直接戦闘を指揮しているので、たとえ内地にいても戦地扱いだが、他の部隊はそうはいかない。
作戦計画に入って動かないと、参加にはならないのだ。したがって、砲戦部隊が貢献できないのを承知の上で、「瀬戸内海に置いておくのは気の毒だ」との思いから、乏しい燃料を使い、あれだけの艦隊を動かしたとの見方もある。
■「勝つ戦いに参加させたい」という不合理な判断
同様のことは、航空隊にも見受けられる。海軍は11月頃が人事異動の時期だが、昭和16年(1941)は真珠湾作戦を念頭に置いていたので、パイロットの大規模な異動がなかった。異動してからしばらくは練度が落ちるからだ。
大きな作戦の直前は、原則的に人をあまり動かさないほうがいい。このため海軍は、昭和16年にはパイロットを動かさず、次の年に異動させた。つまり、ミッドウェー作戦前に、機動部隊の搭乗員がかなり入れ替わってしまったのだ。
そこには、基地航空隊で待機している搭乗員への「配慮」もあった。真珠湾作戦とインド洋作戦で外された彼らは、参加した搭乗員に対して、「あの連中ばかりがいい目を見ている」と不満をもっていた。
戦後、パイロット出身者から「どうせ勝つのなら、俺も行かせろというような空気があった」と聞いたことがある。要するに、同じ人ばかり功績をあげていることへの批判の声が強く、上層部は「勝つ戦いに参加させてあげよう」と考えたのではないか。いずれの場合も、負けることなど微塵も考えず、勝つ前提だったからできることであった。
そこに真珠湾作戦のときのような緊迫感は見当たらない。
■最初は米国機を完全に撃退できたが…
勝つ前提だった例は、他にもある。
計画書を受け取った潜水艦部隊が「燃料が足りない」と告げると、司令部は「作戦が終わったときにはミッドウェー島を取っているから、そこで補給を受けよ」と答えたという。部隊によっては、「6月以降の郵便物はミッドウェーに転送せよ」と指示を出していたほどだ。
さらにいえば、機動部隊の出撃日を5月27日(日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った日として、「海軍記念日」とされていた)にしたことには、ある種のお祭り気分さえ感じる。
もちろん、危機感を抱いた人がいなかったわけではない。真珠湾作戦のときの徹底した情報管理に比べ、情報が漏れすぎていることを危ぶみ、飛行隊の中には「今度の作戦では、生きて帰れないかもしれない」と、帰郷の際に墓参りする者もいた。
6月5日、第一航空艦隊の空母を発進した攻撃機がミッドウェー島を爆撃し、海戦の本格的な火蓋が切られた。最初の頃は、攻撃に来襲したアメリカの飛行機を、日本の機動部隊は完全に撃退している。報道カメラマンとして赤城に乗っていた日本映画社の牧島貞一氏は、「すごいニュース映像になると思い、興奮して撮影した」と語っていたが、それほど圧倒的だった。
■敵状把握も不十分だったのに、調子に乗っていた
各艦の目の前で次々に敵機が落ちる光景を、手空きの人間は表に出て、お祭り騒ぎで見ていた。敵機の撃墜に手を叩いて喜ぶ者もいれば、金平糖を食べながら見物する者もいたという。
千早氏のいう「アメリカをなめきっていた」ことによる「たるみ」は、兵隊たちにも広がっていた。
日本の機動部隊が有する飛行機隊の能力からすれば、米空母を全滅させ、ミッドウェー島は即座に占領完了、となってもおかしくなかったからだ。普通にぶつかったら、日本は圧勝。そのことを彼らは疑わなかった。
一方、アメリカも真珠湾とインド洋の戦いで、日本の空母部隊の戦闘能力が高いことを知っていた。空母とミッドウェー島の基地航空隊で兵力を五分五分に持ち込み、とりあえず日本の艦隊を追い返し、ミッドウェー島を取られないことが基本戦略だった。
アメリカが「奇跡」と呼ぶほどの結果をもたらしたのは、何だったのか。日本の敗因として大きいのは、まず敵状把握が不十分だったことである。日本は偵察機の数が少なく、「あの数でよくアメリカの空母を見つけたものだ」と、むしろ戦後に感心されたほどである。
■「二つの作戦」の優先順位が曖昧だった
また、偵察機は「空母らしきもの」と曖昧な電報を打って、司令部を混乱させている。しかし、これは暗号書にある正式な信号文で、そもそも規定自体が悪かったといえる。ただし、これは敗因の一部にすぎない。
それ以上に決定的な失敗は、「作戦の目的が二つあって、優先順位が曖昧だったこと」だ。
「二つの目的」とは、「ミッドウェー島攻略」と「アメリカ空母の撃滅」である。連合艦隊司令部は後者を重視して、「兵力の半分は雷装(魚雷装備)で残せ」と指示した。ただし、前月の珊瑚海海戦で、米空母がダメージを受けていることから、「敵の空母はまず出てこないだろう」と連合艦隊司令部は踏んでいた。
機動部隊でも、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一、草鹿龍之介や源田実などの航空参謀は、「この段階で空母は出てこない」とみていた。
ミッドウェー島への攻撃隊を指揮した友永丈市大尉が「第二次攻撃の要あり」と打電してくると、残っている雷装した攻撃機に陸用爆弾を積み替えるか話し合う。その最中に敵に発見され、攻撃を受ける。
最初の攻撃は陸上機によるものだったので、空母はいないとみて雷装から爆装(爆弾装備)への換装を続けさせたが、途中から空母機が来襲したことを知ると、爆装を止めて雷装を命令した。このように対応が二転三転したのは、「ミッドウェー島攻略が主なのか、空母が出てきたら、それを叩くほうが主なのか」が、現場に示されていなかったからである。
■「上層部の能力欠如」が最大の敗因
そのために現場は混乱し、状況の変化に柔軟に対応できなかった。
日本の個々の兵士は、支那事変以来、実戦経験を積み、アメリカよりも経験値が高かった。しかし、その現場の人間の能力を、十分に活かすだけの能力が上になかった。作戦目的の曖昧さを含め、上層部の能力欠如が、大敗を招いた最大の要因といっていいだろう。
ミッドウェー海戦では、先述したように、日本海軍はアメリカをなめきっていた。しかし一方のアメリカ軍は、真珠湾でやられた分をやり返してやろうと戦意をもつだけでなく、ここでやられたら太平洋戦線が大変なことになる、と危機感を高めていた。その意識の差も勝負の明暗を分けたが、アメリカの勝因は他にもある。一つは、ダメージコントロール技術が進んでいたことだ。
日本の攻撃隊が米空母を炎上させても、次の攻撃隊が向かうとすでに消火されており、別の空母と勘違いしたほど、米海軍のダメージコントロールは徹底していた。
さらに徹底していたのは攻撃精神である。日本の損害ばかりが議題に挙がるが、海戦ではアメリカの攻撃隊も大消耗している。無事に帰ったのは、爆撃機B17などの大型機が主で、雷撃隊などはおおむね全滅した。帰ってくるのが数機という状況が繰り返されても、ペースを落とさず、飛行機を次から次へと出した。このあたりがアメリカの凄さである。
■昭和天皇に“虚偽の報告”をした可能性が高い
戦後の調査では、アメリカ海軍はとても飛行機が飛べないような悪天候の状況下でも、かまわずに偵察機を飛ばして、殉職者を出すことも覚悟している。
2年後のレイテ沖海戦でも、アメリカは、栗田艦隊とぶつかった前衛の護衛空母に「そこで撃たれていろ」と命令を出している。要するに、本隊を守るための盾にしたのだ。目的がはっきりしているから、本当の意味で全力を尽くせる。そこに、アメリカの強さの根源を見ることができる。
結果として、ミッドウェー海戦で、日本とアメリカの空母の戦力は逆転した。さらに意識の面でも、アメリカは真珠湾でやられた分をミッドウェーでやり返し、「日本、何するものぞ」と、気分を取り直した。戦力だけでなく意識も逆転し、その後の戦局に大きな影響を与えた。
海戦が終わった後も、ミッドウェー作戦に関する日本海軍の失敗は続く。
まず、陸軍に損害をはっきり教えないだけでなく、6月7日に軍令部総長の永野修身が昭和天皇に拝謁したとき、ミッドウェー作戦の中止と損害を奏上しているが、ここで永野は日本側の損害について、空母の沈没を加賀、蒼龍のみと虚偽の奏上をした可能性が高い。
6月10日の大本営発表は「米軍航空母艦2隻を撃沈」「我が方は航空母艦1隻の喪失、航空母艦・巡洋艦各1隻の大破」(『昭和天皇実録』より)といった嘘の内容だった。海軍はその直後に機動部隊を再編制したが、天皇に損害が2隻と言った手前、それ以外の空母2隻は、沈んでいるにもかかわらず編制表の中に名前が載せられた。
■失敗を隠蔽し、教訓を生かせなかった
兵力量の決定と艦隊の編制は、天皇の大権事項であり、統帥権に直接関わる問題だ。極端にいうと、編制表に沈んだ艦を載せるのは、天皇に嘘をつかせていることになる。これは極めて罪が重い。
また、戦訓調査をしておきながら、レポートを超極秘にして隠蔽したことも、罪が重い失敗である。
戦訓は、次の戦いに役立てるための研究だ。特にミッドウェー海戦のような大被害を受けた経験は、内部で情報を共有し、同じような失敗をしないために活かさなければいけない。しかし、海軍はどこにも出さなかった。誰にも見せない教訓など、教訓たり得ない。
ミッドウェー作戦の教訓を活かしていれば、その後の無駄な消耗、無意味な敗北は、もう少し減っていた可能性がある。
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戸高 一成(とだか・かずしげ)
日本海軍史研究者
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学美術学部卒業。「戸高」の「高」は、正式には「はしごだか」。財団法人史料調査会の司書として、特に海軍の将校・下士官兵の証言を数多く聞いてきた。92年に同会理事。99年より厚生省(現・厚生労働省)所管「昭和館」図書情報部長。2005年より現職。19年、『「証言録」海軍反省会』(PHP研究所)全11巻の業績により第67回菊池寛賞を受賞。著書に『日本海軍戦史』(角川新書)、『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)、編書に『特攻知られざる内幕』(PHP新書)など多数がある。
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(日本海軍史研究者 戸高 一成)
日本海軍は余裕で勝てると思っていたが、結果的に空母4隻と200機以上の航空機を失って敗北した。この敗北には、旧日本軍の問題点が詰まっている」という――。(第2回)
※本稿は、戸高一成『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■太平洋戦争のターニングポイント
ミッドウェー海戦は、現代のわれわれが学ばなければならない戦いである。
昭和17年(1942)6月5日(現地時間6月4日)、北太平洋中央部のミッドウェー島沖で、日本とアメリカの機動部隊が激突した。空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)、戦艦2隻(榛名、霧島)、重巡洋艦2隻(利根、筑摩)など、日本海軍の作戦史上トップクラスの巨大兵力を投じ、三日にわたる戦闘を繰り広げた。
しかし、日本はすべての空母と200機以上の航空機を失うという大敗を喫する。空母4隻は、普通の軍艦に比べて遙かに大きな戦力をもっている。つまり、大きな艦隊が全滅したに等しいと考えていい。
それによって、戦争の作戦遂行能力が大幅に損なわれたのはいうまでもなく、以後、日本は劣勢を覆すことができず、敗戦へと至った。その意味では、太平洋戦争のターニングポイントといえる海戦だ。もっとも、「ハワイ攻略の足場としてミッドウェー島を取る」作戦は、海軍内部で「いずれ実施する」程度に考えられていたものだった。
それが昭和17年6月に実施されたのは、連合艦隊司令長官・山本五十六の強い意志による。同年4月18日、日本近海に迫ったアメリカの空母ホーネットから、ドゥーリットル中佐率いる爆撃隊が発進。東京などの日本本土を空襲した。
被害は軽微だったが、この「ドゥーリットル空襲」は天皇への崇敬の念が強い山本に大きな衝撃を与えた。連合艦隊を預かる者として、東京への空襲を二度と繰り返させないために、ミッドウェー作戦を主張したのである。
■「日本の海軍はアメリカをなめきっていた」
ミッドウェー島攻略自体は、将来の実施が計画されてはいたが、具体的スケジュールは、まだなかった。軍令部は「その時機ではない」と判断したが、軍令部の反対を押し切って真珠湾作戦を成功させた山本に、強く抵抗できなかった。
こうして本来の長期計画に沿わないイレギュラーな形で、ミッドウェー作戦は無理矢理実行されるのである。
ミッドウェー作戦の前段として、真珠湾作戦とインド洋作戦で大きな戦果をあげたことにより、「機動部隊が行けば勝てる」との意識が海軍内にあったことを指摘しておきたい。そこには「負ける」という危機感がなく、終戦時に連合艦隊の参謀であった千早正隆氏の言葉を借りれば、「日本の海軍はアメリカをなめきっていた」。
たとえば、山本五十六が指揮する戦艦大和以下の第一艦隊が、機動部隊の後方に出撃していたが、誰が見てもこの艦隊が出ていく必要はなかった。では、なぜ出撃したのか。
軍人が戦地にいるのと内地にいるのとでは、大きな違いがある。恩給の額や給与に差がつく上に、勲章の査定にも影響する。もちろん、戦地にいるほうがプラスだ。連合艦隊司令部は直接戦闘を指揮しているので、たとえ内地にいても戦地扱いだが、他の部隊はそうはいかない。
作戦計画に入って動かないと、参加にはならないのだ。したがって、砲戦部隊が貢献できないのを承知の上で、「瀬戸内海に置いておくのは気の毒だ」との思いから、乏しい燃料を使い、あれだけの艦隊を動かしたとの見方もある。
■「勝つ戦いに参加させたい」という不合理な判断
同様のことは、航空隊にも見受けられる。海軍は11月頃が人事異動の時期だが、昭和16年(1941)は真珠湾作戦を念頭に置いていたので、パイロットの大規模な異動がなかった。異動してからしばらくは練度が落ちるからだ。
大きな作戦の直前は、原則的に人をあまり動かさないほうがいい。このため海軍は、昭和16年にはパイロットを動かさず、次の年に異動させた。つまり、ミッドウェー作戦前に、機動部隊の搭乗員がかなり入れ替わってしまったのだ。
そこには、基地航空隊で待機している搭乗員への「配慮」もあった。真珠湾作戦とインド洋作戦で外された彼らは、参加した搭乗員に対して、「あの連中ばかりがいい目を見ている」と不満をもっていた。
戦後、パイロット出身者から「どうせ勝つのなら、俺も行かせろというような空気があった」と聞いたことがある。要するに、同じ人ばかり功績をあげていることへの批判の声が強く、上層部は「勝つ戦いに参加させてあげよう」と考えたのではないか。いずれの場合も、負けることなど微塵も考えず、勝つ前提だったからできることであった。
そこに真珠湾作戦のときのような緊迫感は見当たらない。
■最初は米国機を完全に撃退できたが…
勝つ前提だった例は、他にもある。
計画書を受け取った潜水艦部隊が「燃料が足りない」と告げると、司令部は「作戦が終わったときにはミッドウェー島を取っているから、そこで補給を受けよ」と答えたという。部隊によっては、「6月以降の郵便物はミッドウェーに転送せよ」と指示を出していたほどだ。
さらにいえば、機動部隊の出撃日を5月27日(日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った日として、「海軍記念日」とされていた)にしたことには、ある種のお祭り気分さえ感じる。
もちろん、危機感を抱いた人がいなかったわけではない。真珠湾作戦のときの徹底した情報管理に比べ、情報が漏れすぎていることを危ぶみ、飛行隊の中には「今度の作戦では、生きて帰れないかもしれない」と、帰郷の際に墓参りする者もいた。
しかし、総じてそういう人間は非常に少なかった。
6月5日、第一航空艦隊の空母を発進した攻撃機がミッドウェー島を爆撃し、海戦の本格的な火蓋が切られた。最初の頃は、攻撃に来襲したアメリカの飛行機を、日本の機動部隊は完全に撃退している。報道カメラマンとして赤城に乗っていた日本映画社の牧島貞一氏は、「すごいニュース映像になると思い、興奮して撮影した」と語っていたが、それほど圧倒的だった。
■敵状把握も不十分だったのに、調子に乗っていた
各艦の目の前で次々に敵機が落ちる光景を、手空きの人間は表に出て、お祭り騒ぎで見ていた。敵機の撃墜に手を叩いて喜ぶ者もいれば、金平糖を食べながら見物する者もいたという。
千早氏のいう「アメリカをなめきっていた」ことによる「たるみ」は、兵隊たちにも広がっていた。
日本の機動部隊が有する飛行機隊の能力からすれば、米空母を全滅させ、ミッドウェー島は即座に占領完了、となってもおかしくなかったからだ。普通にぶつかったら、日本は圧勝。そのことを彼らは疑わなかった。
一方、アメリカも真珠湾とインド洋の戦いで、日本の空母部隊の戦闘能力が高いことを知っていた。空母とミッドウェー島の基地航空隊で兵力を五分五分に持ち込み、とりあえず日本の艦隊を追い返し、ミッドウェー島を取られないことが基本戦略だった。
しかし、結果的に日本はミッドウェー島攻略に失敗するだけでなく、主力の母艦4隻を失って敗走した。
アメリカが「奇跡」と呼ぶほどの結果をもたらしたのは、何だったのか。日本の敗因として大きいのは、まず敵状把握が不十分だったことである。日本は偵察機の数が少なく、「あの数でよくアメリカの空母を見つけたものだ」と、むしろ戦後に感心されたほどである。
■「二つの作戦」の優先順位が曖昧だった
また、偵察機は「空母らしきもの」と曖昧な電報を打って、司令部を混乱させている。しかし、これは暗号書にある正式な信号文で、そもそも規定自体が悪かったといえる。ただし、これは敗因の一部にすぎない。
それ以上に決定的な失敗は、「作戦の目的が二つあって、優先順位が曖昧だったこと」だ。
「二つの目的」とは、「ミッドウェー島攻略」と「アメリカ空母の撃滅」である。連合艦隊司令部は後者を重視して、「兵力の半分は雷装(魚雷装備)で残せ」と指示した。ただし、前月の珊瑚海海戦で、米空母がダメージを受けていることから、「敵の空母はまず出てこないだろう」と連合艦隊司令部は踏んでいた。
機動部隊でも、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一、草鹿龍之介や源田実などの航空参謀は、「この段階で空母は出てこない」とみていた。
そこに曖昧な偵察の報告が加わり、「周囲にアメリカの空母はいない」と機動部隊の幕僚は判断。
ミッドウェー島への攻撃隊を指揮した友永丈市大尉が「第二次攻撃の要あり」と打電してくると、残っている雷装した攻撃機に陸用爆弾を積み替えるか話し合う。その最中に敵に発見され、攻撃を受ける。
最初の攻撃は陸上機によるものだったので、空母はいないとみて雷装から爆装(爆弾装備)への換装を続けさせたが、途中から空母機が来襲したことを知ると、爆装を止めて雷装を命令した。このように対応が二転三転したのは、「ミッドウェー島攻略が主なのか、空母が出てきたら、それを叩くほうが主なのか」が、現場に示されていなかったからである。
■「上層部の能力欠如」が最大の敗因
そのために現場は混乱し、状況の変化に柔軟に対応できなかった。
日本の個々の兵士は、支那事変以来、実戦経験を積み、アメリカよりも経験値が高かった。しかし、その現場の人間の能力を、十分に活かすだけの能力が上になかった。作戦目的の曖昧さを含め、上層部の能力欠如が、大敗を招いた最大の要因といっていいだろう。
ミッドウェー海戦では、先述したように、日本海軍はアメリカをなめきっていた。しかし一方のアメリカ軍は、真珠湾でやられた分をやり返してやろうと戦意をもつだけでなく、ここでやられたら太平洋戦線が大変なことになる、と危機感を高めていた。その意識の差も勝負の明暗を分けたが、アメリカの勝因は他にもある。一つは、ダメージコントロール技術が進んでいたことだ。
日本の攻撃隊が米空母を炎上させても、次の攻撃隊が向かうとすでに消火されており、別の空母と勘違いしたほど、米海軍のダメージコントロールは徹底していた。
さらに徹底していたのは攻撃精神である。日本の損害ばかりが議題に挙がるが、海戦ではアメリカの攻撃隊も大消耗している。無事に帰ったのは、爆撃機B17などの大型機が主で、雷撃隊などはおおむね全滅した。帰ってくるのが数機という状況が繰り返されても、ペースを落とさず、飛行機を次から次へと出した。このあたりがアメリカの凄さである。
■昭和天皇に“虚偽の報告”をした可能性が高い
戦後の調査では、アメリカ海軍はとても飛行機が飛べないような悪天候の状況下でも、かまわずに偵察機を飛ばして、殉職者を出すことも覚悟している。
2年後のレイテ沖海戦でも、アメリカは、栗田艦隊とぶつかった前衛の護衛空母に「そこで撃たれていろ」と命令を出している。要するに、本隊を守るための盾にしたのだ。目的がはっきりしているから、本当の意味で全力を尽くせる。そこに、アメリカの強さの根源を見ることができる。
結果として、ミッドウェー海戦で、日本とアメリカの空母の戦力は逆転した。さらに意識の面でも、アメリカは真珠湾でやられた分をミッドウェーでやり返し、「日本、何するものぞ」と、気分を取り直した。戦力だけでなく意識も逆転し、その後の戦局に大きな影響を与えた。
海戦が終わった後も、ミッドウェー作戦に関する日本海軍の失敗は続く。
まず、陸軍に損害をはっきり教えないだけでなく、6月7日に軍令部総長の永野修身が昭和天皇に拝謁したとき、ミッドウェー作戦の中止と損害を奏上しているが、ここで永野は日本側の損害について、空母の沈没を加賀、蒼龍のみと虚偽の奏上をした可能性が高い。
6月10日の大本営発表は「米軍航空母艦2隻を撃沈」「我が方は航空母艦1隻の喪失、航空母艦・巡洋艦各1隻の大破」(『昭和天皇実録』より)といった嘘の内容だった。海軍はその直後に機動部隊を再編制したが、天皇に損害が2隻と言った手前、それ以外の空母2隻は、沈んでいるにもかかわらず編制表の中に名前が載せられた。
■失敗を隠蔽し、教訓を生かせなかった
兵力量の決定と艦隊の編制は、天皇の大権事項であり、統帥権に直接関わる問題だ。極端にいうと、編制表に沈んだ艦を載せるのは、天皇に嘘をつかせていることになる。これは極めて罪が重い。
また、戦訓調査をしておきながら、レポートを超極秘にして隠蔽したことも、罪が重い失敗である。
戦訓は、次の戦いに役立てるための研究だ。特にミッドウェー海戦のような大被害を受けた経験は、内部で情報を共有し、同じような失敗をしないために活かさなければいけない。しかし、海軍はどこにも出さなかった。誰にも見せない教訓など、教訓たり得ない。
ミッドウェー作戦の教訓を活かしていれば、その後の無駄な消耗、無意味な敗北は、もう少し減っていた可能性がある。
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戸高 一成(とだか・かずしげ)
日本海軍史研究者
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長。1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学美術学部卒業。「戸高」の「高」は、正式には「はしごだか」。財団法人史料調査会の司書として、特に海軍の将校・下士官兵の証言を数多く聞いてきた。92年に同会理事。99年より厚生省(現・厚生労働省)所管「昭和館」図書情報部長。2005年より現職。19年、『「証言録」海軍反省会』(PHP研究所)全11巻の業績により第67回菊池寛賞を受賞。著書に『日本海軍戦史』(角川新書)、『日本海軍 失敗の本質』(PHP新書)、編書に『特攻知られざる内幕』(PHP新書)など多数がある。
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(日本海軍史研究者 戸高 一成)
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