■養子に出された松平定信が田沼意次の地位に
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)において少年時代の松平定信(幼名は賢丸)は寺田心さんが演じていました。そして成長した定信は、井上祐貴さんが演じます。
「田沼時代」を築いた老中・田沼意次(渡辺謙)は天明6年(1786)8月27日、老中を辞職、同年閏10月には2万石と大坂蔵屋敷を没収されるという憂き目に遭うのでした。意次辞職の2日前には、10代将軍・徳川家治(眞島秀和)が病死。政策の失敗(下総印旛沼干拓工事、大和金峰山の開発中止、反発を招いた御用金令など)などもあり、意次は将軍危篤から死去へという混乱の中で「政治責任」を取らされたと言えるでしょう。
10代将軍・家治亡き後、後継の将軍となったのが、徳川家斉です。オットセイの陰茎を粉末にしたものを飲んで精力を増強、55人もの子女を残したことで家斉は「オットセイ将軍」とも呼ばれますが、それはここでは詳述しません。
■11代将軍の父・一橋治済は腹黒い策謀家だった?
家斉の父は徳川(一橋)治済という人物です。治済を「べらぼう」では生田斗真さんが演じています。同ドラマにおける治済は一見、人当たりが良く温厚そうな雰囲気を漂わせていますが、その裏では冷徹さと策謀をもって行動するダークさが際立っています。「悪役」と言えるでしょう。
では治済とは実際にはどのような人物だったのでしょう。
話を治済に戻すと宗尹の子として生まれた治済は、一橋家の家督を継承します。前述したように治済の子は家斉(幼名は豊千代)であり、家斉は天明元年(1781)に家治の養子に選定されていました。家治の嫡男・家基が18歳の若さで急死(1779年)し、家治には男子がいなかったからです。そしてこの家治の養子の選定を中心になって担ったのが田沼意次でした。意次の尽力もあり、家治の養子は治済の子(家斉)に決定されるのです。ちなみに家治からすると、家斉は従兄弟の子に当たります。
■意次の弟が一橋家の家老になっていたが…
御三卿のひとつ一橋家と田沼家は深い繋がりを有していました。意次の弟に田沼意誠がいますが、その意誠の子は田沼意致(「べらぼう」で演じるのは宮尾俊太郎)。この父子は一橋家の家老に就任しているのです。意致の家老就任は安永7年(1778)のことでした。意次は自らの弟と甥を一橋家に家老として配置した訳ですが、そのことは前述の将軍養子選定に大きな影響があったでしょう。
意次としては親族が家老を務める一橋家の者が将軍になってくれたら、将軍が交代したとしても田沼家は安泰だろうと考えたはずです。また意次の尽力により将軍養子が家斉に決定したことは、一橋家(治済・家斉父子)に大きな恩を売ったということにもなります。しかし、治済は意次への「恩」を「仇」で返すことになるのです。
先に見たように田沼意次は将軍・家治死去に伴い政治責任を取らされて失脚した訳ですが、治済は意次を擁護するどころか、意次を排斥し「田沼政治」を否定する動きに御三家と共に出ています。治済は水戸徳川家の治保に書状(天明6年10月24日)を送っていますが、その中で「田沼政治」をバサリと一刀両断しているのです。
では治済は「田沼政治」のどのような点が気に入らなかったのでしょうか。
■8代将軍・吉宗の孫である治済は、田沼を排除
治済の懸念としては、将軍となった我が子・家斉がまだ10代の少年であったことです。そして「上様」(家斉)をしっかりと補佐するような者が現時点においてはいないということでした。そのような状態が続けば段々と将軍の「御威徳」(威厳と徳望)が薄くなってしまうと治済は案じているのです。現状を打開するには「実義」(誠意)、「器量」(才能)に秀でた者を要職(老中)に就ける必要があると治済は考えていました。
その上で「享保の御仁政」(8代将軍・徳川吉宗の政治)に立ち帰ること、「上下安堵」「万民帰服」することを治済は願うのです。では、誰をその要職に就けるのか。
■白河藩主になった松平定信が呼び戻される
治済と御三家は「田沼政治」を一新するため、定信を老中に就任させることに奔走するのです。将軍の実父・治済と御三家の推薦であればすぐにでも定信は老中に就けそうですが、そうはなりませんでした。意次が老中を辞任したとは言っても、当時の幕閣には「田沼派」の面々(例えば大老・井伊直幸や老中・水野忠友)が残っていました。
また将軍・家斉が未だ年少とあっては、老中の権力は強力であり、影響力もありました。治済と御三家は「田沼派」の老中に定信を推薦しますが、拒否されてしまいます。御三家・御三卿は貴種ではありますが、幕政に参画していた訳ではなく、そこから排除されていました。定信の老中就任に幕閣が反対した理由は、定信は将軍の縁者(定信の妹・種姫は10代将軍・家治の養女)であるということでした。
定信の老中就任に真の意味で道を開いたのは、治済らの画策ではなく、江戸における打ちこわしでした。天明7年(1787)5月20日夜、江戸において、米の買い占めを行った米屋や富商に対する打ちこわしが勃発。この打ちこわしは数日で沈静化していますが、将軍のお膝元での騒擾(そうじょう)は衝撃的でした。
■徳川の人間と老中たちの勢力争いがあった
準松はあまり知られていない人物ですが、飛ぶ鳥を落とす勢いが当時ありました。治済は定信の老中就任が実現しないのは「筑後守」(準松)が反対しているからだと語っており、その権勢のほどが窺えます。しかし、定信の老中就任を阻む最大の障壁が取り除かれたことにより、天明7年(1787)6月19日、ついに定信は老中首座を拝命するのです。
一橋治済の念願はついにかなったのです。これまで見てきたように治済は田沼家と接近しつつも、内心では「田沼政治」を苦々しく眺めていました。そして田沼意次が老中を辞任すると、反田沼の松平定信を老中に担ぎ上げんとしたのです。
しかし事実関係を見ていくと普通に考えられているほど、御三家・御三卿の声は大きくはなかったのでした。「べらぼう」においては不気味な「怪物」のように描かれている治済ですが、ひと言で幕府を動かすような強大な影響力はなかったのです。
■将軍の父として多額の年金をもらい、老後は余裕
しかし、治済は当時としては長寿で、77歳まで存命でした。天明8年(1788年)に息子の11代将軍・家斉は父・治済を「大御所」待遇にしようと幕閣に持ちかけました。
その後、治済は一橋家の家督を六男・斉敦へ譲って隠居し、幕府から5万石の賄料と5千両の年金を贈られました。現在の米価に換算して、5万石は年収38億5000万円。年金だけでも5千万円以上です。そして、文政元年(1818年)6月5日、剃髪して穆翁と号します。
朝廷からも高い官位を授けられ、寛政11年(1799年)には、従二位権大納言、文政3年(1820年)に従一位。文政10年(1827年)に死去し、文政11年(1828年)に内大臣、文政12年(1829年)に太政大臣をそれぞれ追贈されました。これは没後、正一位太政大臣を贈られる将軍にも匹敵するほどのものでした。
参考文献
・藤田覚『松平定信』(中央公論社、1993年)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
----------
濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
----------
(歴史研究者 濱田 浩一郎)