※文中敬称略
※8月7日以後のネタバレを含む可能性があります。
■作曲家いずみたくの情熱的な人生
「いせたくやです! 芝居と音楽が大好きです!」――。
連続テレビ小説『あんぱん』8月4日放送回では、やなせたかしの盟友である、作曲家いずみたくがモデルの「いせたくや」が登場した。演じるのは、連続ドラマ初出演となるMrs. GREEN APPLEの大森元貴だ。
初回登場時は、学ラン姿が初々しい18歳の演劇学校生という設定だ。5日の放送回では、のど自慢大会に挑むメイコ(演・原菜乃華)に歌唱指導しつつ、流暢なピアノ演奏も披露した。
いずみたくは「見上げてごらん夜の星を」など数々の名曲を世に生み出した、稀代のヒットメーカーとして知られている。やなせたかしとは「手のひらを太陽に」のほか、アンパンマンミュージカルの劇中歌など300曲近くを共に制作。交流は30年以上に及んだ。亡くなる直前まで作曲を続け、冒頭の『あんぱん』の台詞通り、史実上の彼も演劇と音楽にその生涯をささげた。
自伝によると、「知り合って好きになった女性と、すぐ結婚してしまう」と言う性格の持ち主で、プライベートでは5回の結婚を経験。
そんないずみたくと、やなせたかしとの名コンビは、どのようにして生まれ、名曲「手のひらを太陽に」が誕生したのか。史実上の二人の本当の出会い、そして別れとは――。
■やなせたかしと似ている幼少期
1970年に刊行された自伝『ドレミファ交遊録』(いずみたく著、朝日新聞社)によると、いずみは1930年、東京都・谷中で、東京中央電信局勤めの父と専業主婦の母の間に生まれた。
母の影響で宝塚のファンになり、幼稚園時代はまわりの子供が童謡を歌うなか、一人宝塚歌劇のラブソングを歌うような子供だった。幼稚園帰りはいつもいじめっ子に泣かされていた気弱な一面もあったようだ。
一方、やなせたかしも自伝『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)で、幼いころは負けず嫌いで、勝負ごとにまけては泣いてばかりいたと明かしている。「手のひらを太陽に」が今も多くの子供を元気づけるのは、二人が幼いころにたくさん涙の味を味わったからかもしれない。
いずみは名門・東京府立第五中学校(現在の都立小石川高校)に入学するも、飛行機乗りにあこがれて14歳で親元を離れ、仙台陸軍幼年学校へ。そこでも音楽好きは変わらなかったようで、軍歌練習中に勝手にハモりパートをつけて歌い、上級生に殴られたこともあったという。
■いずみの人生を決定づけた出来事
1945年、15歳で終戦を迎えた。やなせたかしが戦争を通じて逆転する正義のむなしさを痛感していたころ、いずみもまた、自身の生きる意味を見失っていた。
東京に戻り旧制中学に復学するも、かつての同級生たちとの学力差にがくぜんとした。いずみが陸軍幼年学校で訓練を受けている間も、同級生は東大目指して一心不乱に勉強を続けていたのだ。絶望した彼は、ふらふらと上野の闇市をさまよい歩き続けた。「僕は一体、何をすればいいのか」――。
自問を続けた末、ふと心に浮かんだのが、演劇だった。そのまま中学の演劇部に入部し、みるみる芝居の世界にのめり込んでいった彼は、鎌倉アカデミア演劇科や舞台芸術学院などで学びながら劇団を発足。公演で全国を回った。『あんぱん』初回登場時のいせたくやのモデルは、このころの姿だろう。
ある山形の公演で、いずみの今後を決定づける出来事があった。会場となった山中の小学校は、老人から子供まで観客で膨れ上がっていた。芝居の準備中、いずみがアコーディオンを手に舞台に立ち、観客にロシア民謡の「カチューシャ」を歌唱指導する場面があった。
「さあ、皆さん、もっと大きな声を出して!」
しかし、いくら声をからして指導しても、観客の声は会場に響かなかった。
■永六輔が2人をくっつけた
「みんなを歌わせるためには、日本の歌を作らなくては。いつまでも『カチューシャ』や『トロイカ』じゃだめなんだ。もっと身近な生活の歌――」
この思いが、後に生涯で約1万5000曲もの曲をつくりあげた、いずみの原点となる。
作曲家になろうと決意した彼は、劇団を辞め、タクシー会社や運送会社で働きながら、作曲家の芥川也寸志(やすし)に弟子入りして音楽を学ぶ。その後、作詞家の三木鶏郎(とりろう)が率いる「冗談工房」に参加。永六輔や野坂昭如らと組んで、数々の曲を手掛けていく。
その後、野坂昭如と制作会社を立ち上げ、2年間で200曲近くのCM曲を作り上げた(ちなみに、40代以上には耳なじみのあるCM曲「伊東に行くならハトヤ」も2人が手掛けたもの)。
一躍売れっ子作曲家となったいずみだが、本人は自分に満足していなかった。
そんな矢先、突然永六輔から声を掛けられる。
「たくちゃん、ミュージカルを作ろう! 他には絶対ないやつを!」。その舞台美術として白羽の矢が立ったのが、やなせたかしだった。この舞台「見上げてごらん夜の星を」が、いずみたくとやなせたかしの、本当の出会いのきっかけだった。
■「やなせサンはとても不思議な人だ」
『アンパンマンの遺書』によると、ある時、永六輔が、突然、荒木町のやなせたかしの自宅を訪ねてきたという。
短髪ですりきれたジーパンを履きこなしたすらりとした青年だった永は、初対面のやなせに「ミュージカルの舞台装置をやなせさんにお願いしたい」と唐突に切り出した。やなせは舞台装置の経験もなく、ミュージカルもよく知らなかった。あっけにとられている間に、永は「それじゃお願いします」と風のように去っていったという。
いずみは、それまで受けたCMの仕事を一切断り、ミュージカルにすべての力を注いだ。
著作の中でいずみはやなせについて「やなせサンはとても不思議な人だ」「ヒューマニズムに溢れた、彼の漫画のような詩はとても作曲しやすかった」と語っている。2人が仕事を続けてこられたのは、二人の子供向け作品に対するスタンスの近さも影響している。
■ゲゲゲの鬼太郎の歌にあるメッセージ
やなせたかしは、著書『何のために生まれてきたの?』(PHP研究所)の中でこう述べている。「僕は物語をつくる時も、歌をつくる時も、子ども向け、大人向けとかを区別したことはなくて。子どもも大人も、一緒に感動しなくちゃいけないと思っているから」。
このスタンスはいずみにも共通している。いずみは「ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲ~」という歌い出しが印象的な「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作詞)のテーマソングも作曲している。自伝『ドレミファ交遊録』の中でも、いずみは「いかにも子供っぽい歌が嫌い」と述べ、以下のように続けている。
「大人も子供も音楽性はまったく同じ、というより、どちらかと言うと子供の方が音楽性が優れている場合が多いので、したがって子供の歌と、大人の歌をメロディー上で区別するのは、間違っている、といつも考えている」。
そこで先の「ゲゲゲの鬼太郎」の歌は、ブルースのテクニックを用いて作曲したという。
そんなスタンスが、二人がともに作ったもっとも有名な曲「手のひらを太陽に」にも現れている。生きる喜びだけでなく、かなしさも歌っているこの曲は、決して子供だましの歌ではない。元々この詩は、やなせが自らの焦燥感に向き合う中で生まれたものだった。
■「手のひらを太陽に」の秘話
当時、やなせは自分の仕事に悩んでいた。『あんぱん』でも、嵩(演・北村匠海)が広告制作の仕事では認められながらも、漫画が思うようにかけず焦りを感じるシーンが描かれている。史実でも、やなせは三越百貨店勤務時代から少しずつ漫画を描いていたものの、ヒットには恵まれなかった。
フリーになった後も、ラジオやテレビの仕事、イラストの仕事などをこなす毎日。忙しい毎日を過ごしつつも、焦りを感じていた。徹夜で仕事をする中で、なんとなく手のひらに懐中電灯をあてて遊んでいたら、血の色がびっくりするほど赤かった。「自分はこんなに落ち込んでいるのに、自分の血はせっせと紅く、熱く流れている」――。
そのことに励まされた気がした。この詩に曲をつけてほしい、といずみに依頼して出来上がったのが「手のひらを太陽に」だ。1961年に発表され、NHK「みんなのうた」で放送されると、またたく間にお茶の間に広まった。
■もうアンパンマンの以外の童謡をつくらない
この曲以降も、2人は長きにわたって共に曲を作り続けた。『アンパンマンの遺書』によると、いずみがあまりにヒットソングを連発し、時代の寵児となっていくのを見て、一時はやなせが遠慮して離れていた時期もあったという。
それでも結局30年以上にわたって交流は続き、1973年からは「0歳から99歳までの童謡」という企画を立ち上げ、2人は無償で月に1曲童謡を作り続けた。
いずみが最期に手掛けたのは、アンパンマンミュージカルの劇中歌だった。この時いずみは病床で、鉛筆を持つ力がなくなっていたという。妻は「この歌は他の人に頼みましょう」と提案したが、いずみは首を縦に振らなかった。「いや、僕が作曲する。僕が口でメロディーを言うから、写譜してくれ」。そうして曲を作り上げたのち、いずみは62歳で生涯を閉じた。
いずみ亡きあと、やなせはアンパンマンの以外の童謡は一切つくらなくなった。『ボクと、正義と、アンパンマン』(PHP研究所刊)のなかで、やなせはこう振り返っている。
「誰とでも仕事をするというほどボクは器用ではありませんので、この仕事はいずみたくの死で終わったと思っています」。
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市岡 ひかり(いちおか ひかり)
フリーライター
時事通信社記者、宣伝会議「広報会議」編集部(編集兼ライター)、朝日新聞出版AERA編集部を経てフリーに。
AERA、CHANTOWEB、文春オンライン、東洋経済オンラインなどで執筆。2児の母。
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(フリーライター 市岡 ひかり)