江戸時代に活躍した喜多川歌麿とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「もとより類まれな観察眼を持っていた。
その能力は、蔦屋重三郎の導きによってより高いステージに上がった」という――。
■史実では確認できない歌麿の2度目の修業
ここのところNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、喜多川歌麿(染谷将太)は精彩を欠いている。蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)の兄弟分として、日本橋通油町の耕書堂に居候しながら、どこか影が薄い。画業にしても、蔦重から依頼されるのは人まねが中心。世間からも「人まね歌麿」と見られている。
第30回のサブタイトルは、まさに「人まね歌麿」(8月10日放送)。以前から歌麿に「当代一の絵師にする」と約束している蔦重は、そろそろ人まねでない歌麿らしい絵を描かせたい。だが、そう促されても、歌麿が思うようにできずにいるところに、師匠である鳥山石燕(片岡鶴太郎)が、耕書堂に歌麿を訪ねてくる。
そこで歌麿は石燕に頼み込んで、あらためて弟子にしてもらうようだ。蔦重のもとを離れ、石燕の庵に住まわせてもらい、もう一度修行するというのだ。
歌麿は若いころ、妖怪画で知られる狩野派の町絵師、石燕に師事し、そこで絵を描く基礎を身につけた。だが、現在、「べらぼう」で描かれている天明5年(1785)当時、歌麿がふたたび石燕のもとで修業をした、という話は脚本家の創作である。
それでも、このころが歌麿にとって、次の飛躍への準備期間だったのは間違いない。
第30回で蔦重は歌麿に「枕絵」、すなわち男女の情交を描いたいわゆる春画を描くように勧めるようだが、実際、春画に取り組んだことも、歌麿の飛躍につながった。歌麿は春画を含め、なにをどう身につけて、どんな飛躍を遂げることになったのだろうか。
■5年間に学んでいたこと
「べらぼう」では、天明5年時点でも「人まね歌麿」だが、もう少し早い時期に、蔦重は歌麿を独立した絵師として起用していた。
蔦重が吉原から日本橋通油町に移ったのは天明3年(1783)9月だが、その直前の同年7月、歌麿は『燈籠番附 青楼夜のにしき』ではじめて「喜多川」と名乗った。ちなみに、喜多川は蔦重の養家の姓で、蔦重の本名は喜多川柯理といった。蔦重が歌麿に喜多川姓を名乗らせたのは、版元と絵師という関係を超えて、「べらぼう」が描く兄弟のような思いがあったからではないだろうか。
そして、この年の8月に吉原の祭り「俄」に取材をした『青楼仁和嘉女芸者部』と『青楼尓和嘉鹿島踊 続』で歌麿は、華麗な衣装に身をつつんだ芸者や女郎たちを、色の数も多い大判の錦絵全6図に描いた。「青楼」とは遊廓を指す言葉である。
そこでは上半身を中心に描いたのちの大首絵と違い、全身像が描かれ、たしかに勝川春章の画風をまねた面はある。だが、芸者にしても演じる姿ではなく、裏側の様子が描かれるなど、明らかに「人まね」ではない個性が表現されている。
こうして無名の新人絵師に大きな仕事をあたえた蔦重だが、それから天明8年(1788)まで5年ものあいだ、歌麿に錦絵などの大きな仕事をあたえていない。
では、歌麿は5年間もなにを学んでいたのか。それは天明8年に歌麿が手がけた2方向の作品を見れば、おのずと明らかである。
■ずばぬけた観察眼
天明8年(1788)以降、蔦重が歌麿作品として次々と刊行したのは、美しい彩色摺絵入狂歌本だった。まず、この年の正月に出された『画本虫ゑらみ』は、歌麿の名を世に知らしめた出世作だといえる。
当時、「天明狂歌」と呼ばれた大変な狂歌ブームだった。蔦重はおそらく狂歌師たちに入銀(出資を募って本をつくること)によって出版費用を集め、質の高い贅沢な狂歌本をつくった。そのひとつで、30人の狂歌師が虫を詠題に狂歌を競った絵入狂歌本『画本虫ゑらみ』は、雲母、真鍮、鉛白など鉱物系の絵具もたくみに使われ、質感がたもたれている。
だが、質感を支えているのは、なんといっても歌麿が描いた生きものである。トンボやバッタ、ケラやハサミムシなどの昆虫から、ヘビやトカゲなどの爬虫類、カエルやカタツムリまでが植物とともに、図鑑のようにじつに緻密に、生き生きと描かれている。こうした小動物がこれほど精緻かつ鮮やかに描かれていることに、驚きを禁じえない。
この狂歌本の跋文(ばつぶん)は、師匠の石燕が書いている。「今門人歌麿の顕はす虫中の生を写すは是れ心画なり」とし、「幼昔物事に細かく成るが、ただ戯れに秋甲虫を撃き、はたはた蟋蟀を掌にのせ遊びて、余念なし」と続けている。
つまり、歌麿は幼いころから物事の細部にこだわって観察し、秋の虫たちと戯れ、コオロギを手のひらにのせて観察するなど、絵を描くための探求に余念がなかったというのだ。
■虫、貝、鳥の次に描いたもの
歌麿はこの調子で、翌寛政元年(1789)には、36人の狂歌師が36種の貝を詠んだ『潮干のつと』で、同様にさまざまな貝を描き、さらに、寛政2年(1790)に出された『百千鳥』では鳥を描写した。鳥を詠題にした恋の戯れ歌が30首掲載され、鳥はもちろん樹木や草木もすこぶる写実的に描かれ、歌麿の力量が存分に伝わるとともに、眺めて楽しい絵本になっている。
蔦重は、師匠の石燕が記した歌麿の類まれな観察眼に注目し、これらを描かせたのだろう。また、狂歌本を歌麿に描かせるまでの環境づくりにも余念がなく、吉原で開催される狂歌の会に歌麿を連れていっては、狂歌師たちが求めるものを即興で描かせるなどして、信頼を勝ちとらせたようだ。
とはいえ、虫や貝、鳥を精密に生き生きと描けるだけでは、当代一の浮世絵師にはなれない。その点でも蔦重には余念がなく、歌麿が人間をもっと深く描く方向でも才能が開花できるように、ひとつの仕事をあたえた。
それが『画本虫ゑらみ』と同じ天明8年(1788)に発表された枕絵本、すなわち春画本の『歌まくら』だった。
■あまりに写実的な男女の営み
江戸時代に春画は数多く描かれたが、建前としては禁じられていた。だから、『歌まくら』にも版元や絵師の名も記されてはいないが、序文の筆致や着物に描かれた蔦の紋などから、蔦重と歌麿の手になるものとしか考えられない。
歌麿は全12図を一つひとつ、設定と構図に変化をつけながら、男女の情交を写実的に、また力強く描いた。そこでは特に女性が、意志をもった生身の生活者として、きめ細かく描かれている。
性器のリアルな描写もあるが、それもまた鋭い観察眼で描かれている。
写実的に描かれすぎて、エロティシズムが少し希薄な気もするが、それはエロティックな内容を美しく、品よく描けるということでもある。
しかし、これだけ写実的な春画は、想像だけで描けるはずがない。おそらく蔦重は歌麿を吉原に送り、動植物に対するのと同じ観察眼で、男女の営みを観察させたのだろう。いずれにせよ、歌麿がここでじっくり女性を観察したことが、のちの「美人大首絵」につながったことは疑いようがない。
■美人画はみな同じ顔にみえるが…
歌麿といえば美人画である。だが、美人画は元来、最初から人気の役者を描いた役者絵などより売りにくかった。そこで蔦重と歌麿が考えたのは、美人だと評判の町娘を主題とすることだった。難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊雛の3人を一緒に描いた『当時三美人(寛政三美人)』は、まさに身近なアイドルのブロマイドとして評判を呼んだ。3人のうち前者2人は茶屋で働き、最後の1人は富本節の名取だった。
もうひとつ蔦重と歌麿が打ち出したのが「美人大首絵」だった。顔を大きくとらえた大首絵はそれまで役者絵にかぎられていたが、歌麿はその様式を美人画に導入した。

歌麿が描く女性は、ある意味、みな同じ顔をしているが、それには理由があった。歌麿は似顔絵を描いたのではなく、この時代に理想とされた美人顔を描いたのである。それが蔦重の指導によるものか、歌麿自身の発想なのかわからないが、錦絵が大衆に広く売るものである以上、当然の戦略だった。
だが、歌麿は女性の半身像のなかで、少しの手の動きや身体の傾き、わずかな表情の違いによって、女性のイメージを描き分け、その女性の性質や感情を見事に伝える。初の美人大首絵シリーズである寛政4年(1792)の『婦人相学十躰』も、それぞれの女性の容姿は気になるが、それ以上に、それぞれの心情を見る人に想像させる。
そんな絵はやはり歌麿にしか描けなかった。そして、それは蔦重の導きにより小動物や春画で鍛えた結果であった。
最後に余談である。『婦人相学十躰』に描かれた女性をはじめ、歌麿が描く女性は胸がはだけて乳房が露出していることが多い。吉原で男女の情交を観察しすぎた余り、いつもはだけた女性を描いてしまったのだろうか。それとも、当時の若い女性はこうして胸がはだけていることが多かったのだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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