皇位継承議論の盲点とは何か。皇室史に詳しい宗教学者の島田裕巳さんは「皇位継承をめぐる国会の論議において、天皇や皇族という“当事者”の意見を無視したままで果たしていいのだろうか」という――。
■自分の人生を決められない理不尽さ
自分の家をどうしていくのか。もしそれが、自分たち家族の意向で決められないとしたら、私たちは理不尽だと感じるに違いない。
それが家のことではなく、自分自身の人生についても言えるとしたら、その思いはさらに強まるはずだ。
もちろん、家についても個人についても、状況の違いがあり、経済や人間関係、社会関係によって、そのあり方が制約を受けることはある。だが、そこに当事者である自分たちの考えや意見がまったく反映されないことは、ほとんどの場合あり得ない。
ところが、天皇や皇族の場合には、まさにそうした事態が起こっている。皇位継承の安定化にむけての議論が進み、国会でも審議されているが、そのことに対して天皇や皇族が自分の考えや意見を述べる機会はまったく用意されていないのだ。
日本国憲法の第4条には、「国政に関する権能を有しない」と定められている。天皇が、自らの境遇について発言することは、「国政に関する権能」を行使したことと見なされ、それが封じられている。憲法では、皇族については何も述べられていないが、この原則が適用されると見なされている。
■必然だった「生前退位」のスクープ報道
だからこそ、現在の上皇が「生前に退位したい」という意向を示したときには、大きな騒ぎになったのだ。誰も、上皇がそんな意向をもっているとは考えてもいなかったわけだが、2016年7月13日午後7時のNHKニュースがそれをスクープとして報道し、8月8日には上皇自身の考えがビデオメッセージとして国民に伝えられた。
これは極めて異例のことだったものの、同年9月23日、当時の安倍晋三首相は「天皇の公務の軽減等に関する有識者会議」の開催を決め、10月17日には第1回の会議が開かれた。
この会議は翌17年4月21日まで続けられ、そこで最終報告が決定され、首相に手渡された。6月9日には「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立し、退位が決定された。
実際の退位は2019年4月30日のことだった。
退位については当初、美智子上皇后も反対したとされ、摂政をおくことが議論もされた。だが、上皇は、昭和天皇が大正天皇の摂政となって苦労したことを踏まえ、それに強く反対したため、実現はしなかった。
■今も変わらない天皇の地位の原則とは
皇室典範では、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定められており、これは、実質的に天皇の地位が終身であることを意味する。上皇はそれに反する意向を示したことになるが、それによって皇室典範そのものは改正されなかった。特例法として処理され、そのなかでも、皇室典範第4条の「規定の特例」であることが強調されていた。つまり、天皇の地位は終身であるという原則は、今も変わっていないのである。
現在の天皇が高齢になり、同じように生前に退位する意向を示したとしたら、少なくとも再び特例法を成立させなければならない。天皇は亡くなるまでその地位にあるべきだという建前は変わっておらず、天皇はそれに縛られていることになる。
日本国憲法では、国民に対して職業選択の自由が保障されている。ところが、国民ではない天皇にはそれが認められていないのである。
たしかに、天皇や皇族が、現在の象徴天皇制とそのあり方について、それぞれが自分の意見を自由に申し述べるようになったとしたら、様々な形で問題が起こる可能性はある。政府も国民も、そうした意見に影響を受ける可能性が高いからである。
■天皇や皇族の真意を聞かない不自然さ
しかし、一方で、皇位を安定的に継承していくための方策の議論に、天皇や皇族がまったく意見を述べることができないというのも、相当に不自然なことである。
いったい天皇や皇族は、国会で議論されてきた女性宮家の創設や旧宮家の男子が皇族の養子になる案について、どのように考えているのだろうか。
秋篠宮が女性宮家については当事者の考えが反映されないことに苦言を呈し、宮内庁が反省の弁を述べたこともあったが、その後宮内庁は、女性皇族から意見を聞いたのだろうか。その点は今のところ伝わってきていない。
果たして現状のままでよいのだろうか。
天皇や皇族が、自分たちのあり方についての議論においてかやの外におかれたままでよいのだろうか。
その議論は是非とも必要なのではないだろうか。
■戦前の昭和天皇の宮中改革とは
私が改めてそのことを考えるようになったのは、『天皇を覚醒させよ 魔女たちと宮中工作』(講談社)という本を読んだからである。著者の若杉良作氏は、新潮社から刊行されていた『新潮45』誌の最後の編集長だった。私は、同誌に数多くの論考を発表しており、若杉氏も担当者だったことがある。
そんな縁で同書を読んでみたのだが、話の全体は、松本清張の遺作の一つとなった未完の小説『神々の乱心』(上・下/文春文庫)のノンフィクション版である。そこには、皇室に取り入ろうとした新興宗教の教祖たちや、それに関係する「怪しげな人たち」の実像が描かれている。
そうした人々は天皇に霊的な覚醒を促したり、昭和天皇に代わって弟の高松宮を即位させようと画策するのだが、ここで述べていることに関係するのは、それではなく、昭和天皇が戦前の段階で宮中の改革に熱心に取り組んだことである。
新興宗教の教祖などが宮中と関係を持つ上で重要な役割を果たしたのが、天皇や皇后に仕(つか)える女官たちであった。女官は最初、律令によって定められたものなので、その歴史は奈良時代にまで遡る。そのあり方は歴史とともに変化していくが、明治時代においても、その総数は300人にも及んだ。
■大リストラを敢行した昭和天皇の狙い
女官には位があり、上から尚待(しょうじ)、典侍(てんじ)、権典侍(ごんてんじ)、掌待(しょうじ)、権掌待(ごんしょうじ)、命婦(みょうぶ)、権命婦(ごんみょうぶ)と言い、その下に、それを手伝う女嬬(にょじゅ)や針女(しんめ)、雑仕(ぞうし)がいた。権掌待以上は伯爵家や子爵家といった華族や社寺の家の出身でなければならないと定められていた上、皆、未婚の処女であった。
昭和天皇は皇太子であった時代、半年にわたってヨーロッパを訪問した。その際に、ヨーロッパ各国の王室についてつぶさに知る機会を得て帰国し、その後に体調のすぐれない父親の大正天皇の摂政となった。
そこで最初に手がけたのが、それこそ平安時代そのままとも言える女官制度の改革だった。昭和天皇は、典侍や掌待といった職名や、それぞれの女官につけられた早蕨(さわらび)や楓(かえで)といった源氏名を廃止した。女官の出身を華族や社寺の家だけに求めることもやめ、既婚の婦人にさえ門戸を開いた。
女官は宮中に住みこんでいたが、通勤制も導入し、女官の数自体、女官6人、女嬬7人と大幅に削減した。大リストラを実行に移したのである。それは側室廃止に伴う一夫一婦制への移行であり、子どもも、それまでは他の家に預け、そこで育てられたのを、夫婦で育てることに変化したのだ。
■「開かれた皇室」の正体を問う
昭和天皇は生後70日で、養育係となった川村純義(すみよし)伯爵家に預けられた。弟たちも同様だった。
戦前の天皇には、自分たちの家のあり方について自分で決めることができた。戦後、日本国憲法が制定されることで、国民の基本的人権は幅広く認められるようになったが、逆に天皇や皇族については、それが著しく制限されることになった。なんとも皮肉なことだが、国民との間に著しいギャップが生まれたのである。
皇室に嫁ぐことや皇族と結婚する上でのハードルが高いものになったことにも、それが影響している。旧宮家の皇族への復帰が現実的な策と考えられないのも、やはりそれが関係する。戦後のキャッチフレーズは「開かれた皇室」だが、国民にむかっては開かれても、中はかえって窮屈な世界になってしまったのだ。
天皇が政治に直接かかわれば、それは、現在の憲法体制に悪影響を与え、社会は混乱するかもしれない。だが、皇室のあり方となれば、政治そのものとは一線を画している。天皇や皇族が、自分たちのあり方と将来について発言する自由はもっと認められてよいのではないだろうか。
以前の寄稿で、皇位継承については、皇室典範の規定を廃して皇室会議に任せたらよいのではないかという提言を行ったが、そこにそのことが関係する。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
■自分の人生を決められない理不尽さ
自分の家をどうしていくのか。もしそれが、自分たち家族の意向で決められないとしたら、私たちは理不尽だと感じるに違いない。
それが家のことではなく、自分自身の人生についても言えるとしたら、その思いはさらに強まるはずだ。
もちろん、家についても個人についても、状況の違いがあり、経済や人間関係、社会関係によって、そのあり方が制約を受けることはある。だが、そこに当事者である自分たちの考えや意見がまったく反映されないことは、ほとんどの場合あり得ない。
ところが、天皇や皇族の場合には、まさにそうした事態が起こっている。皇位継承の安定化にむけての議論が進み、国会でも審議されているが、そのことに対して天皇や皇族が自分の考えや意見を述べる機会はまったく用意されていないのだ。
日本国憲法の第4条には、「国政に関する権能を有しない」と定められている。天皇が、自らの境遇について発言することは、「国政に関する権能」を行使したことと見なされ、それが封じられている。憲法では、皇族については何も述べられていないが、この原則が適用されると見なされている。
■必然だった「生前退位」のスクープ報道
だからこそ、現在の上皇が「生前に退位したい」という意向を示したときには、大きな騒ぎになったのだ。誰も、上皇がそんな意向をもっているとは考えてもいなかったわけだが、2016年7月13日午後7時のNHKニュースがそれをスクープとして報道し、8月8日には上皇自身の考えがビデオメッセージとして国民に伝えられた。
これは極めて異例のことだったものの、同年9月23日、当時の安倍晋三首相は「天皇の公務の軽減等に関する有識者会議」の開催を決め、10月17日には第1回の会議が開かれた。
この会議は翌17年4月21日まで続けられ、そこで最終報告が決定され、首相に手渡された。6月9日には「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立し、退位が決定された。
実際の退位は2019年4月30日のことだった。
退位については当初、美智子上皇后も反対したとされ、摂政をおくことが議論もされた。だが、上皇は、昭和天皇が大正天皇の摂政となって苦労したことを踏まえ、それに強く反対したため、実現はしなかった。
■今も変わらない天皇の地位の原則とは
皇室典範では、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定められており、これは、実質的に天皇の地位が終身であることを意味する。上皇はそれに反する意向を示したことになるが、それによって皇室典範そのものは改正されなかった。特例法として処理され、そのなかでも、皇室典範第4条の「規定の特例」であることが強調されていた。つまり、天皇の地位は終身であるという原則は、今も変わっていないのである。
現在の天皇が高齢になり、同じように生前に退位する意向を示したとしたら、少なくとも再び特例法を成立させなければならない。天皇は亡くなるまでその地位にあるべきだという建前は変わっておらず、天皇はそれに縛られていることになる。
その地位から退こうとしても簡単にはそれができない。それが一大騒動に発展することははっきりしているので、自由に退位を表明できないのだ。
日本国憲法では、国民に対して職業選択の自由が保障されている。ところが、国民ではない天皇にはそれが認められていないのである。
たしかに、天皇や皇族が、現在の象徴天皇制とそのあり方について、それぞれが自分の意見を自由に申し述べるようになったとしたら、様々な形で問題が起こる可能性はある。政府も国民も、そうした意見に影響を受ける可能性が高いからである。
■天皇や皇族の真意を聞かない不自然さ
しかし、一方で、皇位を安定的に継承していくための方策の議論に、天皇や皇族がまったく意見を述べることができないというのも、相当に不自然なことである。
いったい天皇や皇族は、国会で議論されてきた女性宮家の創設や旧宮家の男子が皇族の養子になる案について、どのように考えているのだろうか。
秋篠宮が女性宮家については当事者の考えが反映されないことに苦言を呈し、宮内庁が反省の弁を述べたこともあったが、その後宮内庁は、女性皇族から意見を聞いたのだろうか。その点は今のところ伝わってきていない。
果たして現状のままでよいのだろうか。
天皇や皇族が、自分たちのあり方についての議論においてかやの外におかれたままでよいのだろうか。
その議論は是非とも必要なのではないだろうか。
■戦前の昭和天皇の宮中改革とは
私が改めてそのことを考えるようになったのは、『天皇を覚醒させよ 魔女たちと宮中工作』(講談社)という本を読んだからである。著者の若杉良作氏は、新潮社から刊行されていた『新潮45』誌の最後の編集長だった。私は、同誌に数多くの論考を発表しており、若杉氏も担当者だったことがある。
そんな縁で同書を読んでみたのだが、話の全体は、松本清張の遺作の一つとなった未完の小説『神々の乱心』(上・下/文春文庫)のノンフィクション版である。そこには、皇室に取り入ろうとした新興宗教の教祖たちや、それに関係する「怪しげな人たち」の実像が描かれている。
そうした人々は天皇に霊的な覚醒を促したり、昭和天皇に代わって弟の高松宮を即位させようと画策するのだが、ここで述べていることに関係するのは、それではなく、昭和天皇が戦前の段階で宮中の改革に熱心に取り組んだことである。
新興宗教の教祖などが宮中と関係を持つ上で重要な役割を果たしたのが、天皇や皇后に仕(つか)える女官たちであった。女官は最初、律令によって定められたものなので、その歴史は奈良時代にまで遡る。そのあり方は歴史とともに変化していくが、明治時代においても、その総数は300人にも及んだ。
■大リストラを敢行した昭和天皇の狙い
女官には位があり、上から尚待(しょうじ)、典侍(てんじ)、権典侍(ごんてんじ)、掌待(しょうじ)、権掌待(ごんしょうじ)、命婦(みょうぶ)、権命婦(ごんみょうぶ)と言い、その下に、それを手伝う女嬬(にょじゅ)や針女(しんめ)、雑仕(ぞうし)がいた。権掌待以上は伯爵家や子爵家といった華族や社寺の家の出身でなければならないと定められていた上、皆、未婚の処女であった。
権典侍クラスになると若い女性で、天皇の側室となることが最大の役目だった。明治時代には、まだそんな特殊な社会が宮中に存在したのである。
昭和天皇は皇太子であった時代、半年にわたってヨーロッパを訪問した。その際に、ヨーロッパ各国の王室についてつぶさに知る機会を得て帰国し、その後に体調のすぐれない父親の大正天皇の摂政となった。
そこで最初に手がけたのが、それこそ平安時代そのままとも言える女官制度の改革だった。昭和天皇は、典侍や掌待といった職名や、それぞれの女官につけられた早蕨(さわらび)や楓(かえで)といった源氏名を廃止した。女官の出身を華族や社寺の家だけに求めることもやめ、既婚の婦人にさえ門戸を開いた。
女官は宮中に住みこんでいたが、通勤制も導入し、女官の数自体、女官6人、女嬬7人と大幅に削減した。大リストラを実行に移したのである。それは側室廃止に伴う一夫一婦制への移行であり、子どもも、それまでは他の家に預け、そこで育てられたのを、夫婦で育てることに変化したのだ。
■「開かれた皇室」の正体を問う
昭和天皇は生後70日で、養育係となった川村純義(すみよし)伯爵家に預けられた。弟たちも同様だった。
その子である上皇は、2歳まで昭和天皇夫妻によって育てられ、その後は、東宮傅育(ふくいく)官によって養育された。現在の天皇ともなれば、弟妹とともに上皇夫妻によってずっと育てられている。
戦前の天皇には、自分たちの家のあり方について自分で決めることができた。戦後、日本国憲法が制定されることで、国民の基本的人権は幅広く認められるようになったが、逆に天皇や皇族については、それが著しく制限されることになった。なんとも皮肉なことだが、国民との間に著しいギャップが生まれたのである。
皇室に嫁ぐことや皇族と結婚する上でのハードルが高いものになったことにも、それが影響している。旧宮家の皇族への復帰が現実的な策と考えられないのも、やはりそれが関係する。戦後のキャッチフレーズは「開かれた皇室」だが、国民にむかっては開かれても、中はかえって窮屈な世界になってしまったのだ。
天皇が政治に直接かかわれば、それは、現在の憲法体制に悪影響を与え、社会は混乱するかもしれない。だが、皇室のあり方となれば、政治そのものとは一線を画している。天皇や皇族が、自分たちのあり方と将来について発言する自由はもっと認められてよいのではないだろうか。
以前の寄稿で、皇位継承については、皇室典範の規定を廃して皇室会議に任せたらよいのではないかという提言を行ったが、そこにそのことが関係する。
あるいは、当事者であればこその妙案も生まれるかもしれないのである。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)
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