■着実に悪化していた米国の雇用と景気
8月1日に発表された米国の雇用統計は、これまで堅調だと考えられていた景気が失速している可能性を物語る内容だった。7月の非農業部門雇用者数は前月比7.3万人増と予想を大きく下回ったほか、遡及されて改訂された5月と6月の非農業部門雇用者数の伸びが、それぞれ1.9万人、1.4万人と、大幅に下方に修正されたためだ(図表1)。

日本では雇用統計は景気の遅行指標となるが、雇用が流動的な米国では景気の一致指標となる。先行して発表された4~6月期の実質GDP(国内総生産)が前期比年率3.0%増と1~3月期(同0.5%減)から一転してプラスになったことや、直前の連邦公開市場委員会(FOMC)で金利が据え置かれたため、市場は景気を楽観視していたようだ。
ただし、雇用統計に先行して発表された景況感指標は、雇用の悪化を示唆していた。いわゆるISM景況感指数の雇用指数は、製造業のみならず非製造業に関しても、中立水準を割り込むとともに、足元にかけて悪化の度合いを強めており、雇用統計の内容はこうした先行指標の動きを確認するものだった。市場の楽観が行き過ぎていたのだろう。
また、雇用統計そのものの精度の問題も意識される。非農業部門雇用者数はストックデータであるため、遡及改定をしたところで、本来であればそれほど内容は変化しない。それが大きく揺れたのであるから、推計そのもの正確性が問われる事態とも言える。いずれにせよ、米国の雇用であり景気は、市場が楽観視していたほど強くないようだ。
雇用統計の内容に激怒したドナルド・トランプ大統領は、統計の作成責任者だった労働省の統計局長を解任した。解任したところでどうなるものでもないが、トランプ大統領らしい行動である。自らの関税政策で米景気が悪化したという評価を是が非でも避けたいという腹積もりだろうが、関税政策が企業活動を圧迫しているのは明らかである。

■何故インフレは加速しないのか
他方で、関税政策によって予想されたインフレの加速だが、物価統計を確認する限り、まだまだ限定的だ(図表2)。直近6月の消費者物価(CPI)は総合指数が前年比2.7%と2カ月連続で上昇が加速したが、懸念されたほどの伸びではない。特に、関税によって上昇の加速が見込まれた商品価格に関しては、同0.6%上昇にとどまっている。
CPIに先行する生産者物価(PPI)に関しても、直近6月は1.7%と上昇が2カ月連続で加速しているが、懸念されたほどの加速ではない。この理由は明らかで、企業が関税政策と国内需要の動向を見定めて、価格転嫁を控えているからである。つまり各企業は、自らの利益を犠牲にして引き上げられた関税分のコストを吸収しているわけだ。
7月末から4~6月期の決算が相次いで発表されているが、日本のみならず、ドイツなど他国の大企業の決算を確認しても、輸出の対米依存度が高い企業ほど関税政策の影響を強く受けている。見方を変えると、これはトランプ大統領による各国の企業に対する実質的な課税だ。米国で儲けたいなら自ら利益を削り誠意を示せというところだろう。
現在、トランプ大統領は薬価の引き下げに腐心しているが、これもグローバル企業に対する事実上の課税措置だと位置づけられる。アストラゼネカやノボノルディスクといった欧州の製薬大手のみならず、イーライリリーなど米国に拠点を置く製薬大手も対象で、米国で活動するなら利益を削れという、トランプ大統領の姿勢をよく示している。
結局、日系を含めた輸出型の大企業がトランプ大統領に屈するかどうかが、今後の関税政策のカギを握ることになる。
各国の大企業が価格転嫁を進めて、米国の消費者にコストをどんどん移転すれば、インフレが加速し、米国民の生活は苦しくなる。そして、中間選挙を来年11月に控えた大統領は窮地に陥って関税政策を見直すことになる。
■カギとなるのは大企業による価格転嫁
対して、各国の大企業が価格転嫁に慎重であり、薄利多売を続けるなら、トランプ大統領の勝利となる。関税のコストを各国の大企業に移転することができれば、米国の家計の痛みは軽いままに、米政府は歳入を増やすことができる。一方、米企業にはトランプ政権は減税という恩恵を与える。まさにアメリカ・ファーストな経済運営である。
では価格転嫁が進むのかというと、基本的には“まだら模様”となりそうだ。サイクルが短い一般消費財の場合、価格転嫁はされやすい。一方で自動車などの耐久消費財の場合、モデルチェンジなどのタイミングでもない限り、価格移転は行われにくい。したがって、米国向けの耐久消費財を扱う大企業の業績は、より厳しいものになるだろう。
そうした意味で、日本のお家芸ともいえる自動車は難しい立ち位置にあるのかもしれない。先般の日米合意で自動車関税は25%から15%に引き下げられることになったが、これは事実上の“口約束”だったことが明らかとなっており、日米間の認識の隔たりの大きさから、交渉を担当した赤沢亮正・経済再生担当大臣が再渡米する事態となった。

15%程度であれば、販売奨励金の削減や為替レートの下落で、自動車産業の業績はそれほど悪化せずに済むだろう。しかしそれ以上となると、価格転嫁までに時間を要することもあり、関税の悪影響を吸収するために食い潰される自動車メーカーの利益も増えることになる。臆さず価格転嫁ができるなら話は別だが、それは中々、望みにくい。
■頼るべきは米景気の悪化か
ここで話を元に戻すと、米国の景気そのものが失速していることは、トランプ政権の関税政策の賞味期限を考えるうえでは、実は歓迎すべきことだろう。景気が悪化し物価が上昇する、いわゆる「スタグフレーション」に陥れば、大統領がいくら正当性を声高に主張したところで、米国の大勢の民意は、間違いなく、反トランプとなるためだ。
米国を除く国々のベストシナリオは、大企業が米国で価格転嫁を進めていくうちに、米国の景気が一段悪化することなのだろう。トランプ大統領が望むように、連邦準備制度(FRB)が利下げを行っても、需要が刺激されインフレが加速するか高止まりするため、生活は苦しくなる。これが中間選挙を見据えた来年の前半までにギヤリングすれば、話は変わる。
しかし、大企業が米国での価格転嫁に慎重であり続け、トランプ大統領による実質的な課税に応じ続けるなら、インフレも加速しない。それどころか、FRBが利下げを進めれば、短期的には景気は上振れするかもしれない。そうなれば中間選挙でもトランプ大統領は勝利し、関税政策を据え置くだろう。むしろ、かえって強化するかもしれない。

とはいえ、各国の大企業が利益を削る以上、グローバルに雇用は悪化する。このことは当然、世界経済にとって悪影響を与える。米国に生産拠点を移管させる動きも、各国から雇用を奪うことになる。言い換えれば、各国の大企業が耐えようとすればするだけ、トランプ関税による世界経済への悪影響は長期に及ぶことになるのかもしれない。
(寄稿はあくまで個人的見解であり、所属組織とは無関係です)

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土田 陽介(つちだ・ようすけ)

三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員

1981年生まれ。2005年一橋大学経済学部、06年同大学院経済学研究科修了。浜銀総合研究所を経て、12年三菱UFJリサーチ&コンサルティング入社。現在、調査部にて欧州経済の分析を担当。

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(三菱UFJリサーチ&コンサルティング 調査部 主任研究員 土田 陽介)
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