近年ヨーロッパでプレーする日本人選手は爆発的に増加している。
これは日本サッカーが進化していることを分かりやすく示すものだが、そうかといって過去の選手たちに実力がなかったわけでもない。
当時はまだヨーロッパにおける日本人選手の地位が低く、さまざまな障壁によって移籍が実現しなかったのが実情だ。
ここでは、1980~90年代にヨーロッパ強豪クラブへの加入が近づいたものの最終的には実現しなかった選手たちをご紹介しよう。
前園真聖
昭和48年生まれ(51歳)
加入寸前だったクラブ:セビージャ(スペイン)
1990年代に一世を風靡したスター選手であり、現在はタレントとして活躍する前園真聖。
日本代表は現在ワールドカップに7大会連続、五輪に8大会連続出場しているが、そのすべては彼が主将として導いた1996年アトランタ五輪出場から始まっていると言えるだろう。
アトランタ世代では、数年後にヨーロッパで衝撃を与える中田英寿の兄貴分的な存在であり、彼が全盛期だった頃のドリブルは「世界で通用する」と誰もが絶賛した。
実際、横浜フリューゲルス時代にスペインのセビージャからオファーを受けている。
ただ当時は代理人や移籍金のシステムが整っていなかったため叶わず。後年、「キャリアにおける唯一の心残り」と話している。
岡野雅行
昭和47年生まれ(52歳)
加入寸前だったクラブ:アヤックス(オランダ)
長髪をなびかせ、爆発的なスピードでピッチを疾走する姿から“野人”と呼ばれた岡野雅行。
日本代表は1998年にワールドカップへ初出場しているが、それを決めた大一番で決勝ゴールを記録したのが岡野であり、その試合は通称“ジョホールバルの歓喜”と呼ばれている。
そんな彼のプレーぶりに目を付けたのがオランダの超名門アヤックスだった。
同クラブは『足が速い選手』を獲得の基準としており、大学時代にバスケットシューズで100メートル10秒7を叩き出した逸話(本人談)をもつ岡野に熱烈なラブコールを送った。
岡野はアヤックスの練習に参加し、当時「世界一速い」と言われた元ナイジェリア代表FWティジャニ・ババンギダにもスピードで勝っていたという。
しかし所属していた浦和レッズがJ2降格の危機にあったこともあり、引き止められて破談に。
北澤豪
昭和43年生まれ(56歳)
加入寸前だったクラブ:スポルティング・リスボン(ポルトガル)
ヴェルディ黄金期のレジェンドであり、Jリーグの爆発的な人気を牽引したダイナモMF。
J開幕の1993年から花形選手として脚光を浴びたが、同年、日本代表として“ドーハの悲劇”も経験。選手たちはもう一段階上を目指す必要性を痛感し、その先陣を切ってエースの三浦知良がセリエAのジェノアへ移籍した。
北澤にも1995年頃、ポルトガル3強の一角スポルティングへの移籍話があったそう。自身によれば「メディカルチェックの一歩手前ぐらいまで話は進んだ」という。
ただ、ヴェルディから「まずJリーグを成功させてほしい」と言われ断念することに。自身は「行きたかったですよ」と振り返っている。
廣長優志
昭和50年生まれ(49歳)
加入寸前だったクラブ:VfBシュトゥットガルト(ドイツ)
廣長優志は、桐蔭学園から1994年にヴェルディ川崎へ加入。黄金期にあったチームで初年度から存在感を示し、U-23日本代表としてアトランタ五輪の予選突破にも貢献した。
そんな彼は182cmでありながら中盤、センターバックなど複数のポジションをこなすスケールの大きな選手だった。
高3の頃にはドイツで開催された国際大会で優勝し、得点王とMVPを獲得。同大会に出場していたシュトゥットガルトから獲得オファーを受けている。
自身によれば「うっすら(とした記憶)だけど、年俸2,000万円だった」とのこと。
その後五輪には出場したものの、キャリアとしてはやや伸び悩んでしまった廣長。「ドイツに行きたかった。“ちょっと俺は違う”というのを見せたかった」と悔やんでいる。
永島昭浩
昭和39年生まれ(60歳)
加入寸前だったクラブ:PSVアイントホーフェン(オランダ)
Jリーグ黎明期のスター選手で、後に“ミスター神戸”とも呼ばれた永島昭浩。端正な顔立ちで人気があり、娘である永島優美さんはフジテレビアナウンサーとして活躍している。
彼は地元の御影工業高を卒業後、松下電器サッカー部(現ガンバ大阪)に加入。25歳になった1989年の夏、1か月にわたってオランダ3強の一角であるPSVの練習に参加した。
これは松下電器(現パナソニック)とPSVの親会社であるフィリップス社が技術提携を結んでおり、深い関係にあったことによるもの。
当時のPSVはリーグ4連覇中で、1987-88シーズンには欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制していた超ビッグクラブ。チームには多くのオランダ代表やブラジル代表FWロマーリオも在籍していた。
永島はセカンドチームでプレーしたが、「毎日が品評会」という環境だったそう。
その結果、正式加入まで近づいた。決まっていれば望月達也氏に次いでオランダ2人目、堂安律より前にPSVでプレーする日本人選手となっていた。
しかし慣れない異国の環境は、知らず知らずのうちに体へ大きな負担を与えていた。
鼠径ヘルニアを患った永島は練習を続けられなくなり、そのまま帰国することに。あと一歩のところでヨーロッパでのプレーは叶わなかった。