7月3日にスペインの高速道路で事故死したポルトガル代表FWディオゴ・ジョタ。決して大柄な体格ではないが、リヴァプールで傑出した成績を残したアタッカーであった。
サッカー界を揺るがした悲劇を受け、ポルトガルの『Maisfutebol』は2020年に発表したディオゴ・ジョタの生い立ちを解説する記事を再掲していた。
それによれば、ディオゴ・ジョタは「ブランド物のスパイクを決して求めなかった」謙虚な人物であったという。
彼が生まれたのは1996年12月4日。父親のジョアキン・シウヴァと母親のイザベル・シウヴァの間に生まれ、フォズ・ド・ソウザというポルトガル北西部の街で育った。
父親のジョアキン、そして祖父や叔父たちもサッカー選手をしていたというフットボールの家系で、ディオゴ・ジョタも7歳で地元のゴンドマールに加入。
当初は左サイドハーフを務め、その後攻撃的MF、10番を経て再びストライカー兼左ウイングとしてプレーするようになったそう。もともとクロスが苦手であったためサイドのポジションは嫌いだったとのことだが、左足を強化するためにウイングをこなしていたそう。
また、サッカーで実績を積み重ねる一方、中学校や高校でも非常にいい成績を残していたとか。父親のジョアキンは以下のようにコメントしていた。
「息子が家で勉強しているのを見たことがない。彼にとっては授業に集中しているだけで十分だったんだ。中学校では家で教科書を広げなくても、成績はA判定ばかりだった。
勉学ではなくサッカーで身を立てることを決めたディオゴ・ジョタは16歳でパッソス・フェレイラのオファーを受け、その下部組織に加入するとともに実家を出たとのこと。
家族は決して裕福ではなく、父親も母親も工場労働者で、最低賃金よりも少しだけ高い収入しかなかったという。
「ディオゴは我々両親が直面していた困難を見てきた。そして、我々も家族の限界を決して隠すことはしなかった」と父親のジョアキンは告白したという。
「二人の息子がサッカーをしていて、そのためのお金を支払う。それは我々にとって決して楽なことではなかったが、ディオゴは全く何も求めることがなかった。
ブランド物のスパイクが欲しいと頼まれることもなかった。彼はそれが不可能だと分かっていたし、それを理解する感受性を備えていたんだ」
また、元気が有り余っている16~17歳の頃も決して夜遊びに出かけることなく、サッカーとゲームのみに時間を費やしていたとか。
「10代の頃、誕生日以外に夜遊びをしたところを見たことがない。外食もほとんどしなかった。
ただ、ディオゴにとっては午後にサッカーがあって、夜にプレイステーションで遊んでいるだけで十分だったんだね。我々は苦労して初めてプレイステーションを彼にプレゼントしたんだが、別に彼がそれを欲しがっていたわけでもなかった」
ジョアキンによれば、少年時代にサッカーの試合から家に帰る間は車の中で一言も喋らず、数時間経ってから冷静に物事を振り返っていたとか。
内省的で謙虚な態度を崩すことなく、パッソス・フェレイラ、アトレティコ・マドリー、FCポルト、ウォルヴァーハンプトン、そしてリヴァプールと着実にキャリアを重ねてきたディオゴ・ジョタ。
悲劇的な事故でそれは短く切り取られてしまったものの、彼が残したプレーの数々はこれからもサッカー界に生き続けていくことだろう。