日本レスリング重量級の歴史を塗り替える可能性を秘めた存在がいる。男子フリースタイル97kg級の吉田アラシだ。

2028年ロサンゼルス五輪での金メダル獲得も、もはや夢物語ではない。92kg級から97kg級へ階級を上げ、世界の第一線で闘うための肉体と技術を着実に手にしてきた。指導者が「まるで千手観音」と評する多彩な組み手、自由奔放でありながら勝負どころを逃さないセンス。重量級の常識を覆す男はいかにして生まれたのか。

(インタビュー・文=布施鋼治、写真=United World Wrestling/IMAGO/アフロ)

97kg級の第一線で闘える吉田アラシの実力

2028年のロサンゼルス五輪で日本レスリング重量級史上初の金メダル獲得。男子フリースタイル97kg級の吉田アラシにとって、それは決して夢物語ではない。大会を重ねるにつれ、現実味が帯びてきた。これだけ頼もしい存在はいない。

それにしても、いつから世界で通用するようになったのか。以前、単刀直入にその背景を訊くと、アラシはフィジカルの強化を挙げた。きっかけはパリ五輪出場を果たすために、92kg級から97kg級に階級を上げたことだ。

日本大学レスリング部の齊藤将士監督は秘話を明かす。

「当初アラシは『92kg級で世界チャンピオンになりたい』みたいなことを言っていたんですよ。

たぶん自分が勝っているカザフスタンの選手が92kg級で世界チャンピオンになっていたので、そういうふうに思っていたのだと思います」

無理強いはしないが、選手との対話を率先して試み、そっと背中を押す。それが齊藤のポリシーだ。このときも遠慮なく進言した。

「狙えるときに狙わないと、そのレベルには行けないよ」

そのレベルとは、一つ上の階級である97kg級の第一線で闘える実力を指す。

パリ五輪への挑戦後がもたらした“体の変化”

レスリングにはオリンピック階級と非オリンピック階級があり、97kg級は前者で92kg級は後者にあたる。

世界選手権では全10階級いずれの階級も争われるが、オリンピックになると6階級の前者のみ。当然世間の評価は前者に偏る傾向があるため、オリンピック前になると、オリンピック階級に照準を合わせる選手は多い。

齊藤は「タイミング的に階級を上げるなら今」と感じたうえで背中を押したつもりだった。日大で臨時コーチを務めるアラシの父であるジャボ・エスファンジャーニは当初「先生、アラシに97kg級はまだ無理。ケガをしてしまうよ」と消極的だったが、度重なる話し合いの末、2024年になってからアラシは階級転向を決意した。

その時点でパリ五輪に出場するためには二つの方法が残されていた。4月のアジア予選か5月の世界最終予選でファイナルまで進出することだ。タイミング的にはギリギリの決断だった。

97kg級の体作りのため、齊藤監督はストレングス&コンディショニングコーチとして東京五輪で金メダルを獲得した梨紗子と友香子の川井姉妹や須﨑優衣らを指導した沼田幹雄にアラシの指導を頼んだ。

「そのとき、アラシはヒザを手術したばかりだったので、上半身から作っていく形でやってもらいましたね」

残念ながらアジア予選は5位、世界最終予選は8位に終わり、アラシのパリ挑戦は終わった。しかしながら沼田の指導の効果は絶大で、世界最終予選が終わったあたりからその効果は感じるようになった。

天性の能力も「まだチャンピオン級は押し出せない」

「予選前もやっていたけど、まだ97kg級の体になっていなかった。でも終わってからもトレーニングを続けていったら、体がどんどん大きくなっていきました」

その成果は翌年のアジア選手権同級優勝という形で具現化された。アラシは「あのときは92kg級で闘ったときと同じ感覚で動けた」と振り返る。

「さすがに動きは遅くなったけど、(対戦相手と)競えるだけのフィジカルを持ち合わせていた。オリンピック予選のときと比べたらアジア選手権のほうが相手を押し出せたり、押し負けなかったりしましたからね。やっぱり沼田さんのトレーニングは関係していると思いますね」

現在は下半身のフィジカル強化を図る。

「97kg級の他の選手を見たら、みんな足とか太いんですよ。(前回の試合で)カイル・スナイダー選手は一回押し出すことができたけど、試合終了間際だったので、相手も諦めていたと思う。でも、(時間がたくさん残っている時間帯では)まだチャンピオン級は押し出せない。フィジカルの部分もまだちょっと足りていないと思うので、これからもっと強化していきたいですね」

しかし、ここで一つの疑問が湧く。

フィジカルトレーニングで得たパワーはうまく応用しなければレスリングには活かせない、ということだ。そのスキルは本人のセンスや能力にかかってくるだろう。

では、アラシの場合はどうなのか。

齊藤は、「アラシは、そうした能力に長けている」と分析する。

「レスリングが好きということも大きいけど、そこには天性の部分がある。状況を読むというか、(自分の力を)状況に当てはめる能力が高い」

「まるで千手観音」自由奔放なレスリングの使い手

アラシの組み手を観察すると、少なくともそのうまさは国内では突出している。対戦相手に対して真正面から力任せに挑むのではなく、組み手によって崩してから技に入る。だからこそアラシのアタックは余計に効く。


齊藤はアラシの組み手の多彩さに舌を巻く。

「押したり、引いたり、いなしたり。はたまた上を攻撃していたと思ったら、下を攻撃する。試合のとき、アラシの両腕の動きを注視してください。

まるで千手観音のように動いていますから」


そういえば、以前ジャボにアラシの強さの秘訣について訊くと、「子どものときと同じようなレスリングをしているから」と答えていた。型にハマったレスリングではなく、無意識のうちに体が動く自由奔放なレスリングができる。筆者は勝手にそう解釈した。


現在は日大の4年生。来春には卒業する見込みで、すでに社会人になってからもレスリングを続けることは決めている。


「(練習場に併設された)寮は出るけど、近くに部屋を借りてこれからも日大を拠点に練習するつもり。社会人になったら、レスリングをやることでお金を得られるということになるので、今まで以上に結果を求められる。その責任は重いと思うので、頑張ってもっと結果を出していきたい」


2026年はスナイダーとのラバーマッチ(過去1勝1敗の相手との決着戦)とともに、過去オリンピックで金1、銀2、世界選手権では金3を含む計6個のメダルを獲得したザ・グレイティスト、ハッサン・ヤズダニ(イラン)がこの階級で復帰を果たした。国際大会でアラシとの初対決はあるのか。重量級に吹けよ風、呼べよアラシ。

【連載前編】「日本の重量級は世界で勝てない」レスリング界の常識を壊す男、吉田アラシ。21歳の逸材の現在地

<了>

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