「狙っていない反り投げだった」――。そのように自身の戦いを振り返るオリンピック金メダリストは、そう多くない。
(インタビュー・文=布施鋼治、写真=長田洋平/アフロスポーツ)
5点差からの一投。「奇跡」を呼び起こす女
奇跡を呼び起こすオリンピック金メダリスト。
八面六臂の活躍を目の当たりにすると、そんなニックネームをつけたくなる。安易に「奇跡」という言葉を使いたくないが、彼女だけは例外といっていいのではないか。そう思わせるだけの逆転劇を何度も自分でプロデュースしているのだから。
2024年8月10日(現地時間)のパリ五輪でもそうだった。女子レスリング62kg級・準決勝で彼女──元木咲良は5点ビハインドで迎えた中でグレース・ブレン(ノルウェー)に反り投げを決め、そのまま大逆転のフォール勝ちを収めたのだ。
その瞬間、場内から沸き起こったどよめきはすさまじかった。たとえレスリングに詳しくない者でも、元木を単なる日本代表という情報しか知らない者でも、その反りの意外性と美しさに惜しみない拍手を送っていた。
もっとも、意外性を感じていたのは観客だけではない。反り投げを見せた当人も驚きの表情を隠せなかった。試合後、元木は「狙っていた投げではない」と意外な事実を打ち明けた。
「(相手のタックルを)ブリッジして逃げようと思ったら、たまたまひっくり返って、たまたまフォールできただけです」
「たまたま」を繰り返し使っていたのは謙遜でない。もともとネガティブな性格で、「もっとわたしを見て」といった自己顕示欲は1mmたりとも持ち合わせていない。
さらに元木は試合で反り投げを決めたことも初めてだったことを明かした。
「反り投げは(投げるほうも)怖い。試合どころか練習でもやったことがない。今日は本当にレスリングの神様が助けてくれたんだと思いました」
オリンピックに出場するようなトップアスリートでも、「お願い、神様!」と拝みたくなるときがある。しかしどんなに拝んだとしても、日頃練習を積み重ねていなければ、咄嗟に動くことはできまい。後日、元木は筆者に知られざる秘話を明かした。
「パリで先に金メダルを獲った文田健一郎さんの反り投げを見ていたんですよ。その姿が頭にインプットされていたのかもしれない」
パリ五輪では元木が登場する3日前に美しい反り投げをトレードマークとする文田健一郎が男子グレコローマン60kg級で金メダルを獲得している。結果的にパリ五輪のレスリングでは最大の逆転劇ともいえる反り投げをプロデュースした原動力はイメージトレーニングだったのか。
「もう怖いものは何もない」準決勝が引き出した覚醒
準決勝での劇的な勝利によって元木は覚醒した。
「もう怖いものは何もないと感じました。明日の決勝は思い切り攻め、自分の実力を存分に発揮して金メダルを獲りに行きたい」
その言葉に偽りはなかった。決勝ではイリナ・コリアデンコ(ウクライナ)を相手に第1ピリオドからローリングなどの回転技で4-1とリードする。第2ピリオドになると、電光掲示板に不具合が生じ、試合が中断されたが、元木の気持ちが揺らぐことはなかった。
「昨日は自分に負けてしまうような試合内容だった。今日は『自分に絶対負けない』という気持ちで臨みました」
試合再開後、元木はアンクルホールド(対戦相手の足首を交差させた状態でクルリと回転させ点数を稼ぐテクニック)で3回転させ、テクニカルスペリオリティ(野球に例えるとコールドゲーム)で念願の金メダルを獲得した。試合後の元木の話には苦労人としての涙と汗が滲み出ていた。
「階級を上げる前(非五輪階級の59kg級)の世界選手権は準決勝で負けて3位だった。昨年の世界選手権は階級を(五輪階級の)62kg級に上げたけど、そこでも決勝で敗れてしまった。
「一回戦負けなのに…」七転び八起きの原点
まさに七転び八起き。元木のレスリング人生を振り返ってみれば、そんな言葉がピタリと当てはまる。目立った勝利より大きな挫折のほうが多い。そんなキャリアを歩んでいたのだ。
父・康年さんは男子グレコローマンスタイル63kg級のシドニー五輪代表だった影響も手伝い、3歳からレスリングを始めた。しかしデビュー戦では対戦相手の男の子に恐怖を感じ戦意喪失。泣きながらマットから逃亡してしまう。その後も元木は会場入りしても怖くてマットに立てないような引っ込み思案な少女だったという。
それでも、練習を積み重ねていくうちに少しずつ強くなっていったのだろう。元木は表彰台に上がる機会を増やしていくが、そのほとんどが2位か3位で、優勝する機会はなかなかなかった。
ようやく大器の片鱗を見せたのは、埼玉栄高校2年のときだった。
元木は「自分は強くないし、オリンピックなんて狙える器ではない」と会場の片隅で人知れず涙を流した。自信も目標も失いかけていた高校3年生に声をかけたのは育英大学レスリング部の柳川美麿監督だった。
「一回戦負けなのに、のびしろがある」
柳川の殺し文句に気持ちを揺れ動かされ、育英大に見学に行ったことが元木の大きな転機となった。
「大学でも厳しい環境でないと、わたしは絶対強くならないと思っていました。先生も一生懸命面倒を見てくれるし、選手同士もすごく激しくやっていたので、育英でやってみたいと思うようになりました」
なぜ主役になれなかったのか? 強豪だらけの62kg級
もっとも、大学に入ってからすぐサクセスストーリーを歩んだわけではない。大学2年のときには右ヒザの靱帯断裂という大ケガを負ってしまったのだ。元木は「この世に終わり」を感じるほど落ち込んだ。手術が決まると、それまで地道に頑張ってきたことがバカらしくなった。
「思い切ってレスリングをやめ、金髪ギャルにでもなろうかな」とさえ思った。悔しかった。泣いて、泣いて、泣きまくった。でも、涙を流すだけでは何も変わらない。踏み止まることができたのは、手負いの状態になっても手を差し伸べてくれる人たちが周囲にいたからだろう。
マットに復帰するまでの7カ月間、元木はレスリングの研究に没頭した。昼も夜も関係なく、海外の強豪選手の試合映像を凝視し、テクニックを盗もうとした。育英のレスリング場ではマット練習に参加しない代わりにチームメイトの動きを観察し、自分に合っていそうな技術は貪欲に取り入れようとした。
埼玉の実家に帰省すると、風呂に入っているときでも、試合映像を見入った。康年さんを感心させるほど、娘の研究ぶりは徹底していた。その成果は十分にあった。2022年に復帰を果たすと、同年9月には世界選手権59kg級で3位になっている。
それでも、62kg級でエントリーした同年12月の全日本選手権で元木にスポットライトが当たることはなかった。
この階級にはパリ五輪への出場最右翼の尾﨑野乃香、東京五輪同級金メダリストの川井(現・恒村)友香子、元世界王者の稲垣柚香、元アジア王者の類家直美ら強豪たちがひしめき合っていたからだ。しかも、その直前まで元木が主戦場にしていた59kg級は非五輪階級。いくら世界選手権で銅メダルを獲得しているとはいえ、62kg級とは選手層が違いすぎた。
さらに、元木にとっては今大会が62kg級でのデビュー戦だった。階級制の格闘技では1階級違うだけでも、パワーや圧力には雲泥の差があることが多い。62kg級で実績のある尾﨑や川井と比べると、どうしても見劣りしてしまうことは否定できなかった。
誰も注目していなかった未完の大器が、頂点を獲るまで
とはいえ、予想は予想にすぎない。トーナメントが進むにつれ、元木が主役に躍り出るのに時間はかからなかった。準決勝では尾﨑の対抗馬である川井を9-2で撃破。続く決勝でも尾﨑を4-2で破ってしまったのだ。
尾﨑とは接戦だった。第2ピリオド開始1分過ぎまでは尾﨑が2-0でリードしていた。しかし、いずれもアクティビティタイム(消極的と見なされた選手が30秒間の猶予期間を与えられ、その時間内に点数をとらなければ、相手に1点が入るルール)で失点したものだった。
尾﨑のアタックはことごとくカットしているのに加え、バランスを崩すこともなかったので、途中から観客席には「もしかしたらアップセットが起こるのでは?」という空気も漂い始めた。
案の定、元木は場外押し出しで1点を返す。そして残り時間24秒というところで、尾﨑のワキをくぐるようにしてバックに回り、3-2と逆転に成功。その後もう一点を追加して、4-2のスコアで優勝した。
試合後、元木は「尾﨑選手は攻撃的なので、合わせたら負けると思った」と振り返る。
「(同年の)世界選手権の準決勝では残り30秒でやみくもに行って負けたので、今回は残り時間を考えた練習をしてきました。世界選手権が終わってレスリングが楽しくなった」
その勢いで翌2023年の世界選手権では銀メダルを獲得し、念願のパリ五輪出場を決めた。一つひとつ確実にステップアップしながら頂きを狙う。柳川の目に狂いはなかった。ほかの誰も注目していなかったが、元木はのびしろだらけの未完の大器だった。
【連載後編】史上3人目の世界グランドスラム達成。レスリング元木咲良が見せた“完全制覇”と、その先にある敗北
<了>
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