2020年の世界フィギュアスケート選手権は、残念ながら新型コロナウイルスの影響で中止となった。出場を予定していた選手たちもさまざまな想いを口にしながら前を向いており、ファンもまた同じ気持ちだろう。
第1回は2014年、ソチ五輪の悪夢を振り払い、1カ月後の世界選手権で金メダルを取った、浅田真央。ショートプログラムで演じた『ノクターン』は、彼女がまだあどけなさを残す16歳から大人の女性になった23歳の間に紡がれてきた情感が香る、決して忘れられることのない永遠に語り継がれる物語だ――。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
初の世界選手権で演じた『ノクターン』は、ほろ苦さが残った
繊細なピアノ曲であるショパンの『ノクターン』は、浅田真央の軽やかなスケーティングに最も似合う曲としてよく挙げられる。浅田は、2006-07シーズンと2013-14シーズン、どちらもローリー・ニコルの振り付けによるショートプログラム『ノクターン』を滑っている。16歳の浅田が滑る最初の『ノクターン』は、まだ幼さが残る当時の彼女によく合う、透明感のあるプログラムだった。終盤のステップで最後に見せる、浅田の体からピアノの高音がこぼれてくるようなツイズルが今も印象に残る。
シニアデビューして瞬く間にグランプリファイナルチャンピオンとなった2005-06シーズンを経て、シニア2年目の浅田はようやく規定の年齢に達し、2007年東京大会で世界選手権初出場を果たす。しかし、シーズンを通してそれまで失敗がなかったショート『ノクターン』で、予定していた3回転フリップ―3回転ループのセカンドジャンプが1回転になるミスをしてしまう。ショート5位と出遅れた浅田はフリーで追い上げて銀メダルを獲得したものの、初の世界選手権での『ノクターン』は苦い味の残るものになった。
それから7年後、銀メダルを獲得したバンクーバー五輪では達することができなかった頂点を目指すソチ五輪シーズンのショートに、23歳の浅田は再び『ノクターン』を選んだ。そこには、振付師としての立場を超えて常に浅田を見守ってきたニコルの、大人になった彼女に再び『ノクターン』を表現してほしいという願いが込められていたという。
しかし、ソチ五輪のショートで信じられない悲劇が起きる。
世界最高得点で滑り切った、愛あふれる『ノクターン』
既に2008年、10年大会で2度世界選手権の金メダルを獲得していた浅田だが、期待を背負って出場したソチ五輪から約5週間後、日本で迎えるこの世界選手権には特別な重みがあったに違いない。ソチ五輪とは違い、さいたまスーパーアリーナは浅田の背中を押す温かい雰囲気に包まれていた。薄紫色の衣装でスタート位置につく浅田を見れば嫌でもソチでの悪夢がよみがえるが、それを振り払いつつ祈るような思いで見守る観衆の視線の中、演技はスタートした。
代名詞でもあるトリプルアクセルは、浅田にとってとても大きな意味を持つジャンプだ。
初出場の2007年世界選手権から、バンクーバー・ソチと2つの五輪を経て、8回目の出場となる2014年世界選手権までに浅田が身につけた多くのものの中で、特に豊かになったのは情感だろう。トラウマになってもおかしくないソチの記憶を乗り越え、3つのジャンプをすべて加点のつく出来栄えで成功させた後に見せた浅田のステップは、観衆に語りかけるようだった。演技を終えて観客席に向き直った浅田は四方に丁寧に頭を下げ、リンクを後にする。世界最高得点(当時)となるハイスコア、78.66が表示されると、佐藤信夫コーチと並んでキスアンドクライに座った浅田は笑顔でVサインを出し、喜びを表現した。「(今までの)ベスト3に入るぐらいの演技」と自ら語るほど、完璧な『ノクターン』だった。
首位発進となったショート後、浅田は「最初からしっかり集中して、愛あふれる『ノクターン』を滑ろうと思いました」と語っている。
「ホテルにいる時から、そして6分間(練習)の時から、滑っている時もずっと『オリンピックの悔しさを巻き返す』と思っていました」
フリーでも1位だった浅田は、3回目の世界選手権優勝を成し遂げた。
良い時も悪い時もずっと応援し続けてくれた人たちのために…
初出場の東京大会から7年を経て、再び母国開催の世界選手権に臨んだ浅田の大きな変化として感じられたのは、観衆の応援を力にし、それに応えようとする姿勢だ。
「ソチでの悔しさを晴らしたいという思いで、ずっとやってきました。なので、その気持ちもあったからかもしれないです。あともう一つは、今日はたくさんのお客さんが私を後押ししてくれたなと思っていたので……応援してくださっている方にも、いい演技をお見せしたいということを感じました」
さいたまスーパーアリーナの客席からリンクに注がれていた応援の思いは、浅田に確かに届いていたのだ。
そしてフリー後、金メダリストとして臨んだ記者会見でも、浅田は今季感謝の気持ちを表す言葉が多いことについて問われている。
「バンクーバーが終わってからすべてを見直して一からやってきて、ようやく今年自分で納得する演技ができつつあるなという状態でした。なので、バンクーバーからソチオリンピックまで、ファンの方も自分を今まで支えてくださった方も、良い時も悪い時もずっと応援し続けてくださった、そういう思いがやはりどんどん強くなりました」
「私自身、(ソチ)オリンピックのフリーの演技とこの世界選手権は、得点や順位というよりは、自分がバンクーバー(五輪)から一からやってきたものをすべて、自分のすべてを出そうと思ってやってきました。なので、自分が目指してきたものがようやくできたんだという確信と、『ようやく評価してもらえたんだな』という気持ちでいっぱいです」
バンクーバー五輪で浅田はトリプルアクセルをショート・フリー合わせて計3本成功させており、これはギネスの世界記録に認定された。しかし当時の浅田はジャンプのフォームが崩れていることを自覚しており、トリプルアクセルに頼らざるを得なかった事情もあった。バンクーバー五輪後、浅田は新たに師事した佐藤コーチの下、ジャンプの修正に取り組み始める。基本からジャンプを見直していく過程の浅田には、試合でジャンプがまったく決まらずことごとく失敗する時期もあった。それでも諦めずに続けた挑戦が、ソチ五輪のフリーで達成した「一つのプログラムの中で計6種類の3回転ジャンプをすべて跳び、(2回の繰り返しを含めて)8回の3回転を入れる」という偉業となって結実している。
天才少女と呼ばれて一気に世界の頂点に駆け上がった少女は、苦しい時期を経て、感謝の気持ちをスケートで伝えられる名スケーターとなった。16歳で迎えた初めての世界選手権と、23歳で臨んだ8回目の世界選手権で滑った二つの『ノクターン』の間には、長く語り継がれるであろう浅田真央の物語がある。
<了>