同作は井上靖の同名小説原作で、時代的には現在の中国西北部にあった西夏が宋との敵対姿勢を明らかにして、正式に王朝として歩みだした11世紀の話となっている。ということで、舞台は中国だが、役者は日本人がメインだ。まあ、このあたりは、ハリウッドなどで役者がローマ人とかやっていることもあるので、問題はないだろう。
主人公は奴隷にされそうになった西夏人(三田佳子)を助け、できたばかりの西夏文字を見せられて、西夏に興味を持つようになった科挙志望の趙行徳(佐藤浩市)。もうひとりメインとして行徳が西夏の首都に行く途中、捕まった西夏兵の漢人部隊隊長だった朱王礼(西田敏行)がおり、その2人を中心に話は進んでいく。
『天と地と』では、大規模な人員を動員した合戦シーンが見所になっていた。この作品でも、俯瞰で陣型が見えるほど、大人数を動員して、戦いのシーンを作っている。しかも、シルクロードの要所が作品舞台ということで、ほぼ騎乗した部隊しかおらず、もしかするとこっちの方が、手はかかっているかもしれない。しかし、この戦闘シーンが同作の残念シーンのひとつでもあるのだ。
原作は時の君主や英雄にスポットを当てた、娯楽向けの作品ではないので、同作では、原作ではほとんど描写のない会戦シーンをほぼゼロの状態から描いている。CG時代全盛になる以前、『天と地と』の他に、海外でも『ワーテルロー』や『戦争と平和』、『アラビアのロレンス』など、現在では実現不可と思われる大規模人員をさいたシーンが話題となった作品がある。
同作はというと、戦闘はほぼ想像で描かれている。別にそれが悪いわけではない。想像でも迫力のあるシーンを作れている作品もあるので。
西夏の軍は西夏人、ウイグル人、吐藩(とばん)人、漢人の混成部隊だったというならば、遊牧民伝統の騎馬弓兵くらいいそうなものだが。騎馬弓兵がパルティアンショットをするだけでもかなりアクセントがあるのに、そういったシーンは一切ない。大金を使ってこの微妙なシーンはダメな要素の一つだろう。唯一良かったと思えるのは、戦前の軍議で、命令が各民族用にほぼ同時通訳されて伝えられるシーンくらいか。
また全体的なストーリーの流れとしてもあまり良いとは言いがたい。まず、原作も場面転換がめまぐるしいのだが、本作はさらにそのテンポを悪くしている。原作の行徳はあまり表向きに感情が乗るシーンが少なく、感情のないキャラと思われるのを危惧したのか、オリジナルで必要性を感じないシーンがバンバン出てくる。それらのシーンの影響で、違和感ある上、話がさらに飛び飛びとなってしまう。しかも無駄に倫理観を押しつけるもので、わりと早い時間で、砂漠の民に順応していった原作の行徳とは大きく違う存在となってしまっている。
そしてこの改変は本筋にも大きな影響を及ぼしている。ウイグル王族の姫・ツルピア(中川安奈)を行徳は助けるのだが、このツルピアと一緒に行徳がなぜか敦煌を逃げようとして捕まるシーンや、戦に負け晒されているツルピアの父親である王の首を取り返す話など、必要なのかどうかわからない場面を無駄に挟んでくるので、極端にテンポが悪い。しかも、行徳が西夏の首都に行くことが決まり、離れる前にツルピアから首飾りを渡されるシーンでは、わりと重要な原作のセリフを省いている。さらに、行徳が首都に行っている間に、ツルピアが西夏の君主である李元昊(渡瀬恒彦)に奪われ、その姿を行徳に見つけられてツルピアが最終的に身投げしてしまうまでの展開も、若干改変がくわえられている。ヒロインであるツルピアとの別れから再会までの期間の描写が重要なのに…だ。
行徳は首都で西夏文字を習っている際、原作ではツルピアを一瞬でも「どうでもいい存在」と思ってしまい、1年で帰る約束の留学を2年に延長している。
ほかにも、原作では全く喋らない李元昊をわざわざ目立たせ、裏切った朱王礼に向かって「歴史に名を残すのはお前じゃない」と語らせるなど、無駄にチープさを煽ってしまっている部分が多い。まあそれでも朱王礼や、敦煌を治める帰義軍の曹延恵(田村高廣)が李元昊を裏切る理由は映画の方が納得いくものとなっている。また行徳の留守中に、かくまう約束をしたのに、ツルピアに想い寄せてしまい、さらに、李元昊に奪われてしまった、朱王礼の苦悩と怒りなども、映像にした方が、かなりわかりやすい。
衣装やセットもそれほど悪い訳ではないが、どうしても作品テーマに演出やストーリー展開が追いついていないような気がする。かといって『天と地と』ほど、ネタ方面に突き抜ける強烈なシーンがある訳ではないので、色々な部分で惜しい作品だ。ただ、ロケにこだわっただけはあり、風景はやはり美しいシーンも多いので、観光ムービー的な要素としてはかなりの出来ではある。
(斎藤雅道=毎週土曜日に掲載)