2025年11月5日、中国のポータルサイト・捜狐に「震えるほど美しい!劇場版『チェンソーマン レゼ篇』はなぜ観客を圧倒したのか」と題した記事が掲載された。

記事はまず、「アニメ映画を見ることは、ブラインドボックスを開けるようなものだ。

観客は原作への信頼と情熱を胸に劇場へ足を運ぶが、時に粗悪な作品に裏切られることもある。本当の誠実さや深い魅力は、むしろ世間からあまり評価されていない作品の中に隠れているものだ。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』から『THE FIRST SLAM DUNK』に至るまで、アニメ映画はもはや大画面で見るだけのものではなく、今という時代に生きる人々の感情を映し出し、その心が何に反応し、何に傷つくのかを『試す場』になっている」と述べた。

そして、「『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は30年の歳月を経て、現実と虚構を交錯させながら一世代の精神的焦燥に終止符を打った。『THE FIRST SLAM DUNK』は宮城リョータの視点を通して、無数の人々の青春の記憶を呼び覚ました。しかし、すべてのアニメ映画が心を動かすわけではない。『劇場版 黒子のバスケ LAST GAME』のように、テンションとスピードだけが先行し、見終われば記憶から消えてしまう『商業的寄せ集め』も少なくない。一方、劇場版『チェンソーマン-レゼ篇』(以下『レゼ篇』)は、劇場版『鬼滅の刃』無限城編ほどの話題性はないものの、今年最も誠実で魂を感じるアニメ映画となった」と評した。

また、「藤本タツキ氏の漫画が原作の『チェンソーマン』は、暴力と不条理の象徴として知られている。だが『レゼ篇』は、荒削りな残酷さの中に、これまでになく繊細な『やわらかさ』が注ぎ込まれている。舞台は、まだソ連が崩壊しておらず、スマホも情報過多もない時代の日本。誰かを好きになるにはただ勇気が必要で、2人を好きになることはもう苦悩そのものだった。

16歳の主人公・デンジが、血と炎の世界でレゼと出会った初恋のときめきは、あまりにも純粋で、あまりにも致命的だ。日本のシンガーソングライター・米津玄師が手がけた主題歌『IRIS OUT』と『JANE DOE』は、廃墟に咲く花のように旋律が重なり、耳に切なく残る。観客が感じるのは、デンジの恋の葛藤や感情の爆発力だけでなく、愛が希薄になった時代における『心のときめき』だ」と説明した。

さらに、「『レゼ篇』の偉大さは、『敵を倒す』ことが『人間らしさ』を覆い隠していない点にある。多くの現代アニメの成功パターンは、熱血、友情、戦闘、サスペンスの組み合わせであり、恋愛はたいていおまけに過ぎない。『NARUTO -ナルト-』における恋愛要素は単なる物語の潤滑油のようであり、『ワンパンマン』に至っては感情の可能性を完全に排除されている。しかし『レゼ篇』はあえてその流れに逆らった。デンジはレゼを前にしても『悪を倒す主人公』にはならず、ためらい、弱さを見せ、手放す。この人間的な迷いこそが、作品をジャンルの枠を超えたものにしている。『エヴァンゲリオン劇場版:破』で旧作を改変し、初号機が『友情の相手』ではなく『恋慕の相手』を救うようにしたように、藤本氏もまた『恋愛の欠落こそ魂』という精神を受け継いでいる。血なまぐささと余韻を融合させ、暴力の後にも呼吸できる空間を残したのだ」と論じた。

記事は、「映画を見る時、無意識に体が震える。

最初は、映像の多様な画風や濃密な光影、あるいは視覚的衝撃のせいだと思っていたが、よく考えるとその震えはもっと深い共鳴から生まれていた。デンジとレゼの日常の断片は、戦闘よりも強く心を動かした。藤本氏は非現実的な作品に『現実感』を与え、自分もかつて、好きな人を待ち、震え、愛に傷ついたことを観客に思い出させたのだ。『俺のハートは、レゼに奪われちまった。 もう一生喜んだり、悲しんだり、できないのかもしれない』とのデンジのせりふは、上映後に観客が心の中でそっとつぶやく言葉のようだ」と言及した。

また、「『葬送のフリーレン』が『魔王を倒す』のではなく『過去を振り返る』物語へとアニメの定番構造を書き換えたように、『レゼ編』も『善悪の対決』と『青春の初恋』を自然に絡み合わせ、血なまぐさくも優しく、虚構的でありながら真実味のある新しい物語を創り上げた。また『レゼ編』は安易に観客の予想に迎合しない。そこには『回想シーンによる感動』も『スカッとする快感』もなく、代わりに『やわらかなノスタルジー』と『感情への正直さ』がある。藤本氏の偉大さは、物語のどんでん返しにあるのではなく、彼が人々にアルゴリズムと快楽が支配するこの時代においても、愛は依然として最も破壊的な信仰であると人々に再び信じさせた点にあるのだ」とした。

そして、「詩は常に新鮮であるべきだ。新鮮であってこそ、読み返す価値がある。『レゼ篇』の恋愛物語は、多くの人の青春の記憶と重なるかもしれないが、決して古びてはいない。

情報があふれ、感情が希薄になった現代においても、アニメは人の心の奥にある柔らかさと不安を掘り起こす『生命の考古学』になり得ると私たちに思い出させる。スクリーンが暗転する時、私たちはすでに結末を知っているかもしれないが、そのときめきは今も体の奥で震えている。『チェンソーマン』はもはや少年と悪魔の戦いではない。『人間』がいかに廃墟の中でもなお、愛を信じようとするかを描いた詩だ」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

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