2025年12月14日、香港メディア・香港01は、日本アニメをめぐる文化的植民と、中国アニメにおける文化的自信について考察した記事を掲載した。

記事は、「中国アニメの産業規模はすでに2000億元(約4兆円)を超え、世界最大級に達している。

中国のウェブアニメ『マスターオブスキル 全職高手』やオンラインゲーム『王者栄耀』が広く普及しているにもかかわらず『中国はいつ自分たちの英雄叙事を持てるのか』と問う声がいまだに存在している。その背景には『アニメとは巨大ロボットのような象徴があってこそ成立する』という思い込みがある。要するに『中国にはガンダムがない』という発想である。しかし、巨大ロボットや変身は日本アニメの一部の表現形式にすぎず、英雄叙事そのものではない。他国の得意分野を(自国が)持たないことを理由に、自信や叙事の正統性が欠けていると考えるのは、文化植民地主義的な思考にほかならない」と批判した。

そして、「中国ではさまざまな科学技術やイノベーションに関する競技大会が行われており、子どもたちはスマート家電、介護支援ロボット、ドローンなど、実際の課題解決を目的とした作品に取り組んでいる。子どもたちはすでに巨大ロボットを夢を見る段階を乗り越え、実際に手を動かして夢を形にできる環境を手にしている。また、大阪・関西万博のガンダム館では、CG映像のみで実体のある技術展示がなく、失望の声もあった。対照的に、中国館では人型ロボットが自然に来場者の間を歩いていた。虚構と現実、そして未来の方向性の違いは明らかである。中国館のテーマは『自然と共に生きるコミュニティーの構築 ―グリーン発展の未来社会―』であり、戦いではない。それでもなお、巨大ロボットを国力や自信の象徴と考えるなら、それは他国の価値観に依存した思考にすぎないだろう」と指摘した。

また、「なぜウルトラマンの配色は赤と青なのか。なぜ『スタートレック』の母艦はエンタープライズ号と呼ばれるのか。こうした設定は偶然ではない。文化作品は、その国が持つ価値観や世界観、さらには国力を背景として生み出されるものだからだ。そのため、文化が海外へ広がる過程で、政治的な意味や国家的な象徴を帯びることは自然な現象だと言える。したがって、文化作品に含まれるメッセージを読み取り、場合によっては警戒すること自体は、決して特別でも過剰でもない。問題はその見方が狭くなり、分析の焦点を見失ってしまうことにある。一つの作品や表現だけを切り取って批判しても、それは自己満足に終わり、文化的な競争や力関係の本質を理解することにはつながらない」と論じた。

さらに、「日本の漫画家・かわぐちかいじ氏の作品は、戦後日本や自衛隊をめぐる政治的タブーを正面から描いてきた。『空母いぶき』では、日本が空母を保有した結果、中国と戦争に至る過程が物語として描かれている。しかし、こうした作品は一般的なアニメファンの関心からはやや距離がある。その結果、話題性の高い『進撃の巨人』が日本アニメの軍事思想を読み解くための象徴的テキストとして扱われがちになる。

しかし同作は、一人の主人公を中心にした物語ではなく、複数の登場人物による群像劇だ。物語後半でエレン・イェーガーは明確に人類の敵となり、ほかの主要人物たちは彼を止める側に回り、『地鳴らし』を阻止することが物語の核心となる。アジアでも欧米でも、議論の焦点は『いかにエレンを止めるか』であり、彼の行為を全面的に肯定するものはない。『心臓を捧げよ』というセリフもまた、世界の滅亡を防ぐ側の言葉である。それを軍国主義の肯定と結びつける解釈は、物語全体を見ず、一部だけを切り取った短絡的な解釈だと言わざるを得ないだろう」とした。

そして、「文化輸出が国力の表れである以上、国家間に競争が生じるのは避けられない。政治的には距離を取りながらも、文化や技術の面では他国に憧れ、影響を受けるという現象は、歴史上繰り返し見られてきた。かつて日本車は世界市場で高い評価を得ていたとは言い難かった。しかし1990年のマカオ・グランプリにおいて、日産スカイラインGT-R(BNR32)が優勝したことで、日本車の高性能イメージは国際的に大きく刷新された。この勝利は、GT-Rが『ゴジラ』と称される流れを生み、日本車の技術力が評価される転機となった。 現在では、中国も自国メーカーとドライバーが国際大会で勝利を挙げる段階に入っている。英雄叙事や文化的自信は、特定の象徴や形式を模倣することで生まれるものではない。

どの分野で、どのような物語を積み重ねていくのかという視野と姿勢こそが問われているのである」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

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