2026年2月14日、台湾のポータルサイト・vocusに「『葬送のフリーレン』から考える人工知能(AI)時代に欠けつつある人間性」と題したコラムが掲載された。

コラムは、「『葬送のフリーレン』の物語は、勇者ヒンメル、戦士アイゼン、僧侶ハイター、そしてエルフのフリーレンからなる勇者一行が、10年に及ぶ冒険の末に魔王を討伐するところから始まる。

50年に一度の流星雨を共に眺め、50年後の再会を約束するが、再会の時、ヒンメルは老い衰え、やがてこの世を去る。彼の存在はフリーレンに『人間』への関心を抱かせた。彼女はヒンメルの魂を探し、再び語り合うため、戦士アイゼンの弟子シュタルク、僧侶ハイターに託されたフェルンと共にかつて魔王討伐に向かった道を再び歩み始める」と紹介した。

続けて、「ヒンメルは第1話で死去するが、物語から消えたことはない。時間の基準は『勇者ヒンメルの死後何年』と数えられ、各地には彼の銅像が立つ。フリーレンはしばしば彼との記憶を思い返し『勇者ヒンメルならそうしたってことだよ』と語る。同作が筆者の関心を引く点は少なくとも三つある。第一に『時間』の描写と視座、第二に異なる種族間の『対話』、第三に「強者」の謙虚さである」と述べた。

まず時間について、「フリーレンにとって10年の冒険は生涯の百分の一にすぎない。しかしその10年を欠けば、彼女はただのエルフにすぎない。まさにこの経験が、彼女に記憶を呼び起こし続ける意味を与えているのである。もし生命が無限であり、すべてを知り得るならば、人はなお世界に好奇心を抱くだろうか。

全知全能であれば、進歩への動機は失われるのではないか。有限性こそが希望を可能にする。知識・技術・時間・空間の制限があるからこそ、人は未来に可能性を託すのだ」と論じた。

また対話については、「フリーレンの師・フランメは、魔族の言語は理解のためではなく欺瞞(ぎまん)のため、すなわち人の目をごまかし、だますことにあると語る。ただしそれは、魔族が人間の言語を利用する場合を指すのであって、魔族同士の相互理解を否定するものではない。魔族もまた集団で行動し、内部では理解と信頼が必要であるからだ。理解と欺瞞は対立ではなく、理解があってこそ欺瞞も可能となる。欺く者も欺かれる者も、言語を理解してはじめて欺瞞は成立する。ゆえに『欺く言葉』もまた、理解を前提としているのである」と説明した。

さらに、「作中の魔法は、想像し、かつ信じることによってのみ実現する。想像だけでは不十分であり、信念が伴わなければ実現しない。人と人との対話も同様である。

理解を基盤としなければ真の対話は生まれない。現実世界に魔族はいないが、欺瞞の言語は満ちている。ゆえに目指すべきは排除ではなく、理解に基づく共存なのである」と強調した。

そして強さについて、「フランメは、魔族にとって魔力は人間の地位や財産に等しいと述べる。だからこそ魔族は魔力を隠さず、むしろ誇示する。これは人間が地位や富に執着する姿と重なる。確かに多くの人は地位や富に縛られているが、真に賢い者は『欲しいもの』と『必要なもの』を区別する。強い者ほど誇示しない。そして本当の強さとは、自分だけが勝つことではなく、周囲をも強くすることである。さらに、自らの強さが才能だけでなく、環境や他者、そして偶然にも支えられているからだと理解しているからこそ、謙虚でいられるのである」と言及した。

その上で、「総じて『葬送のフリーレン』は人間性を描く作品である。エルフの視点から人間の有限性を示し、魔族と言語の関係から理解の可能性を問い、ヒンメルとフリーレンの関係から真の強さを示す。

AIが台頭する現代において、失われつつあるのはまさにこの人間性である。人は有限な存在であるが故に希望と可能性を抱き、言語を通じて相互理解する存在であって、単なる合理的計算の主体ではない。故に人は、他者と理解し合い、共に強くなる生を歩むヒンメルのように生きるべきなのである」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

編集部おすすめ