中国メディアの瀟湘晨報は11日、中東情勢が悪化する中、イランから8日間かけて脱出した中国人男性が「恐怖の体験」を語ったと報じた。

記事によると、湖南省常徳市出身の張永紅(ジャン・ヨンホン)さん(32)は10日、長沙黄花国際空港近くのホテルをチェックアウトし、長沙駅から故郷に帰る準備をしていた。

張さんは4カ月余り前にイランへ渡り、叔父が投資した工場で管理職として働いていた。春節の期間中、叔父やほかの中国人の同僚は帰国したが、張さんは管理者として現地に残った。ところが、春節後にイラン情勢が急激に悪化。米国とイスラエルによる大規模な攻撃が始まり、ミサイルと爆発音が絶え間なく響いた。

工場があるセムナーン州はミサイル発射地点から40~50キロの位置にあったが、張さんは毎日、イランがイスラエルの方向へ発射するミサイルの軌跡をはっきりと目にしていた。発射は朝・昼・晩の1日3回で、耳をつんざくようなごう音を伴っていた。張さんや現地の労働者はミサイル発射のたびに外に見に行き、終わると仕事に戻った。張さんはイラン人の同僚に「中国ではこんな光景は見られない。中国は世界で最も安全な国だ」と話したという。

攻撃が日増しに激しくなる中、身の安全を心配し始めた張さんは3月1日にイラン脱出を決意。翌2日午後5時に現地の華僑華人連合会(華聯会)の担当者から電話があり、首都テヘランに向かうように告げられた。華聯会はそれまで複数回にわたり中国人の避難を手配しており、3日に出発するのが最後の一団だった。

セムナーンからテヘランまでは車で約3時間だが、戦時下で送迎を引き受けてくれる人はいなかった。イラン人の同僚は「今テヘランに行くのは自殺行為だ」と警告し、「テヘランは平地にされるかもしれない」というメッセージを送ってくる人もいた。張さんは高額の報酬を提示したものの結局、車を手配できず。最終的に、華聯会の担当者に助けを求め、何とか車を手配してもらって同日午後9時に慌ただしく出発した。

張さんはテヘランへ向かう3時間、「最悪の事態」も覚悟した。もし道中で死ぬことになれば、「それは天が定めた運命だ」と思ったという。翌3日午前0時に指定された場所に到着し、華聯会の担当者と顔を合わせて「もう安全です」と声をかけられた時は涙をこらえた。その夜、張さんは一睡もできず、爆撃の音と頭の中に焼き付いた廃墟の光景が何度もよみがえったという。

3日正午ごろ、張さんらは大型バスで出発。途中で2度の検問を受けたが、中国のパスポートで問題なく通過できた。本来なら6~8時間の道のりだが、悪天候のためアゼルバイジャンとの国境に到着したのは午後10時過ぎだった。4日午前9時に出国手続きが始まった。

自力で避難してきた中国人も大勢おり、中には1歳の幼児もいたそうだ。手続きには5~6時間かかったが、列は整然としていて混乱はなかったという。

アゼルバイジャンに入ると携帯電話の通信が回復し、チャットアプリ・微信(ウィーチャット)には一瞬で家族や友人からの安否を気遣うメッセージが大量に届いた。在アゼルバイジャン中国大使館と現地の華僑協会は温かく迎えてくれ、宿泊場所と食事を提供してくれた。その後、華聯会の手配でアゼルバイジャン→ウズベキスタン→西安→長沙と乗り継ぐ航空券を確保できた。アゼルバイジャンから長沙まで約30時間かかったが、9日午後11時半に無事、長沙黄花国際空港に到着した。

張さんは「常徳に戻ったらまず津市牛肉粉(牛肉と米粉の麺の料理)をおなかいっぱい食べたい」と語った。また、情勢が落ち着いたらまたイランに行くつもりだと明かし、「イランは鉱産資源が豊富で、現地の人々も中国人に友好的。このままみじめに帰ってきて終わりたくない。大金持ちになりたいわけではなく、何かを成し遂げたいだけ」と話した。張さんが今回の経験を通して最も強く感じたのは「平和は本当に良い」ということだったという。(翻訳・編集/北田)

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