ジャニス・ジョプリンがブレイクするきっかけとなったビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーのアルバム『チープ・スリル』にまつわる10の事実を紹介する。オーディエンスを装った音響効果、差し止められたバンドのヌード写真など、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーが、その後間もなくアイコンとなるシンガーと製作した最後のアルバムにまつわるトリビアとは?

1967年の夏を迎えるまで、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーは、ギグをこなし、ファンもいて、フル・アルバムのリリースを待つごく普通のバンドだった。
しかし、同年6月に行われたモンタレー・ポップ・フェスティバルでの2度のステージは、バンド初期の歴史など吹き飛ばし、カリフォルニアから来た話題の”ジャニス・ジョプリン・アンド・カンパニー”を、カルチャーの伝説に変えた。ジョプリン本人からすると、「人生における頂点のひとつ」だっただろう。テキサス出身の孤独で誤解を受けやすかった若き女性は、ひとりぼっちでつらい思春期には与えられなかった愛と引き換えに新たに得た名声を、誇らしげに身にまとった。

モンタレー・ポップ・フェスティバルはレコード業界にとってのゴールドラッシュで、メジャーレーベルが自分の場所を確保しようと大挙して押しかけた。ビッグ・ブラザーの場合、いわゆる一夜にしての成功という目論見は、外れてしまったようだった。それから1年のうちにジョプリンへ向けられる熱いスポットライトは、バンドを分裂へと向かわせた。しかしメジャー級の注目を浴びていた短期間で、ビッグ・ブラザーは世界のオーディエンスへアピールする最初で最後の作品を作り上げた。最高のエレクトリック・ソウルが詰め込まれ、1968年8月12日にリリースされたアルバム『チープ・スリル』は、紛れもなくサイケデリック・エイジの代表作といえる。さらに、消えゆくヒッピーの夢を商品化した作品でもあった。同アルバムは、ワイルドで自由奔放なサンフランシスコの夜の出来事を選りすぐったひとつの記録として、世界最大級のレコード会社が運営するスタジオで具現化された。「『チープ・スリル』は本物ではない」とする評価は誤っているだろう。しかし、過ぎ去った良き日々を再現しようとするのはギャツビー風のやり方であるかのように、作品に対する早まった憂鬱な見方もある。
ジョプリンが悲しげに歌うガーシュウィンの『サマータイム』だけが、サマー・オブ・ラブから、アルバムに見られるサマー・オブ・バイオレンスへの雰囲気の移り変わりを明確に示しているようだ。アルバムのリリースから1週間後、シカゴで行われた民主党全国大会で、警官がデモ隊を殴りつけた。そして1か月後、ジョプリンとビッグ・ブラザーは永遠に決別した。

『チープ・スリル』はバンドの絶頂期の作品で、『ふたりだけで』や『ボールとチェーン』、『心のカケラ』など、バンドが最も気に入っていた曲の数々が収められている。同アルバムのリリースから50周年を記念して、アルバム制作にまつわる10の知られざる事実を紹介しよう。

1. ジョプリンはCBSとのレコーディング契約を確実なものにしようと、クライヴ・デイヴィスと寝ようとした。

クライヴ・デイヴィスはCBSレコードの社長に就任した直後、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演したビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに強く惚れ込んだ。彼はバンドとすぐに契約したいと考えた。バンドがインディレーベルのメインストリーム・レコードと既に契約していたことは、ほとんど問題ではなかった。少しの法的な争いを経て、デイヴィスはアルバート・グロスマンをバンドのマネジャーに据え、20万ドル(約2200万円)の小切手を切ってメインストリームを追い払った。レーベルの社長になりたての人間としては、大胆な行動だった。そのわずか1年前、同じくサンフランシスコのジェファーソン・エアプレインが、わずか2万5000ドル(約280万円)の前払いでRCAレコードと契約したことが話題になったばかりだった。


ジョプリンにとってメジャーレーベルとの契約は、生涯最高の夢だった。彼女は自分なりのユニークなやり方で、デイヴィスに感謝の気持ちを表したいと考えた。デイヴィスは回顧録『Soundtrack of My Life』(2013年)の中で、バンドのフロントウーマンの代理としてグロスマンが驚きの電話を掛けてきたエピソードを紹介している。「彼女があなたと会いたがっている。契約を確実にするためには、あなたと寝るのが最善の方法だと彼女は考えている」とマネジャーはデイヴィスに伝えたようだ。自分のビジネスの常識にはなかった言葉に、デイヴィスは戸惑った。「”契約書にサインして、さあ一緒に仕事しましょう”では少し堅苦しいと感じたのかもしれない。だから彼女はもっと打ち解けようとして、私と寝ようとしたのだろう」とデイヴィスは、2014年に行ったガーディアン紙とのインタヴューで語っている。「私は申し出を断ったが、大いに光栄なことだと思っている」という彼は、キスをしたことだけは認めた。

2. 『チープ・スリル』はライヴ・アルバムになる予定だった。

ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーによるバンド名を冠したスタジオ・デビュー・アルバムは、1967年8月にメインストリーム・レコードからリリースされたが、明らかに売上不振だった。ジョプリン自身も「酷いレコード」と表現し、チャートの最高位も60位だった。
ビッグ・ブラザーの能力を考慮すると、メジャーレーベルでのデビュー・アルバムはライヴ・アルバムの方がよいだろうと思われた。「彼らは演奏もさることながら、オーディエンスの興奮を煽るライヴも好評だった」と、アルバムのプロデューサーを務めたジョン・サイモンが2015年に証言している。「ライヴでの興奮を活かすため、バンドはライヴ・アルバムを強く望んでいた」

リモート・レコーディング・コンソールをレンタルし、デトロイトのグランド・シアターで1968年3月1日から始まったライヴを2回分レコーディングした。しかし残念ながら、いくつかの問題が発生してしまった。まず、彼らのライヴ・パフォーマンスの耳をつんざく大音量により、レコーディング・メーターはずっとレッドゾーンを指していた。さらに、オーディエンスからのリアクションが全くなかった。「女性があんな風に歌うのを誰も経験したことがなかったんだ」とエンジニアのフレッド・カテロは、アリス・エコースルによるジョプリン伝『Scars of Sweet Paradise』の中で述べている。

「曲が終わるたびにオーディエンスは”はぁ?”という感じでノー・リアクションだった」 さらにプロデューサーのサイモンにとって悪いことに、バンドの”雪崩のように巻き起こるエネルギー”も、彼が把握した”多すぎるミス”を覆い隠すまでに至らなかった。プロデューサーは、音源をニューヨークにあるコロンビア・レコードのスタジオBへ持ち込み、音外しやコードの間違い、さらに歌詞の誤りに外科手術を施して修正しようとした。しかしスタジオで手を加えるにあたり、音楽以外のところで問題が発生した。「”ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーがライヴ・レコーディングを行った”という噂がすぐに広まり、ライヴ・アルバムへの期待が大きく高まってしまった」とサイモンは振り返る。「ファンをがっかりさせたくなかった」という彼らは、ライヴ風のスタジオ・アルバムの製作を試みた。


3. バックに聞こえるオーディエンスの歓声は、ジョプリンが人生最後に食事したバーニーズ・ビーナリーで録音された。

サンフランシスコ人による渦巻くサイケな長旅の興奮を、風通しが悪く面白味のないミッドタウン・マンハッタンのレコーディング・スタジオの中で再現することは、ひとつの難題だった。スタジオでトラックごとにレコーディングする従来の方法は、バンドの好む音楽の作り方に反した。「普通のレコーディング方法は、全てが完全に隔離されていた」と、ベーシストのピーター・アルビンは『Scars of Sweet Paradise』の中で証言する。「皆ヘッドホンを付け、ヴォーカリストは防音のヴォーカル・ブースに入る。ドラマーはどうしてよいかわからず途方に暮れる。それではバンドの共同作業によるレコーディングとは言えない」とアルビンは言う。ライヴの雰囲気を出すために、仕切りカーテンを低くし、スポットライトやバンドのPAシステムまで導入し、ライヴ・ルームの中にステージを設置した。さらなるライヴらしさを演出するためにサイモンは、スタジオのスタッフ、エンジニア、マネジャーたちを動員してオーディエンス役に見立て、彼らの歓声を録音したテープ・ループを用意した。「タンバリンやホイッスルなどを持たせ、”ここに立って適当に歓声や叫び声を上げ、タンバリンを叩き、ホイッスルを鳴らしてくれ”と皆に指示した」と、カテロは振り返る。

アルバムのクレジットには、”ライヴ音源”は、ビル・グラハムがサンフランシスコに所有していた伝説のフィルモア・オーディトリアムでレコーディングされたことになっているが、アルバムで唯一のライヴ曲『ボールとチェーン』は、グラハムがサンフランシスコに所有する別の施設ウィンターランド・ボールルームで行われた。9分間の同曲で聴けるギター・ソロは、スタジオで別途録り直しされている。
「アルバムのリアルなコンセプトを思いつき、実現したジョン(サイモン)は素晴らしかった」とドラマーのデイヴ・ゲッツは、前出のエコールによる著書の中で述べている。「アルバムを聴く人たちが、サンフランシスコのボールルームにいるような感覚になれる」 ゆったりした『タートル・ブルース』には、ハリウッドのサンタモニカ大通り沿いにあるレストランバー、バーニーズ・ビーナリーで録音されたアンビエンス・ノイズが加えられている。ジョプリンは同店の常連で、1970年10月3日に宿泊先のランドマーク・ホテルへ戻る直前に立ち寄り、人生最後の食事をした。その後の真夜中過ぎ、彼女はホテルの部屋でヘロインを過剰摂取したと思われる。

4. アーマ・フランクリンはジョプリン版の『心のカケラ』が自分の曲だとはわからなかった。

アルバム『チープ・スリル』に収められた7曲のうち3曲はカヴァー・ソングで、ピーター・アルビンに言わせると”ビッグ・ブラザー風”にアレンジされたものだった。『サマータイム』は大きく変更が加えられ、マイナーキーで書き直したビッグ・ママ・ソーントンの『ボールとチェーン』は、無限の広がりを感じさせた。カヴァ―曲の中で最も注目すべきは『心のカケラ』で、バンドの最初で最後のトップ20ヒットとなった。

同曲は、プロデューサーでバング・レコードの創業者であるバート・バーンズと、共同作業者のジェリー・ラゴヴォイによって書かれた作品だった。当初バーンズは、当時バング・レコードに所属していたヴァン・モリソンに歌わせようとしたが、モリソンが拒否したため、アレサ・フランクリンの姉であるアーマ・フランクリンに回された。当時のフランクリンは、1960年代初頭に数枚のシングルをリリースしたもののぱっとせず、音楽活動からほとんど引退していた。バーンズが彼女を説得して音楽へと引き戻す1967年まで彼女は、IBMのアドミニストレーターとして働いていた。
やや崩したカリプソとしてアレンジされ、高音のソウルフルなヴォーカルがフィーチャーされたオリジナル・バージョンの『心のカケラ』は、ビルボード・チャートの62位にランクした。フランクリンによるフル・アルバムも企画されていたが、1967年12月30日にバーンズが心臓発作で亡くなりレーベルが混乱したため、実現することはなかった。

オリジナルの『心のカケラ』を称賛していたビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーのメンバーたちは、同曲を自分たちのユニークなスタイルに合わせたサイケデリック・バージョンにしようと思い立った。「アーマ・フランクリンに似せたくはなかった」とアルビンは後に語っている。「アーマのバージョンには、我々にはない優美さとミステリアスさがあった」 ジョプリンのソウルフルなシャウトを前面に出したビッグ・ブラザー・バージョンは、商業的にオリジナルを上回り、多くの人たちは『心のカケラ』といえばビッグ・ブラザーを思い浮かべるだろう。「ジャニスの歌うバージョンを初めてカーラジオで聴いた時、正直に言ってそれが自分の歌った曲だとはわからなかったわ」とフランクリンは、1973年にブルーズ&ソウル誌のインタヴューで語っている。「もちろん、曲が注目されてオンエアされ、彼女が売れたのは素晴らしいこと。でも彼女のバージョンは私のものとは全く違っていたから、腹も立たなかったわ」

5. クライヴ・デイヴィスはビッグ・ブラザー・バージョンの『サマータイム』をリチャード・ロジャースに聴かせたが、評価は低かった。

1968年のある日、リチャード・ロジャースが、同社社長のゴッダード・リーバーソンとランチしながら次のミュージカルのための資金集めについて話し合うため、ニューヨークにあるコロンビア・レコード本社に立ち寄った。デイヴィスはブロードウェイの大物にうやうやしく近寄り、自己紹介した。軽い会話を交わしながらデイヴィスはロジャースを自分のオフィスへと招き入れ、ビッグ・ブラザーの『サマータイム』のテープを聴かせた。彼は、年上のロジャースが、オペラ『ポーギーとベス』の有名曲のフレッシュなバージョンを高く評価するだろうと思っていた。

ロジャースは腰を下ろし、デイヴィスは再生ボタンを押した。「ロジャースは無表情で曲を聴いていた」と後にデイヴィスは回顧録に書いている。「曲が終わった時も、彼はひとことも口に出さなかったので、私は落胆した」 演劇界のロジャースに先入観なく聴いてもらうには、『サマータイム』はやや彼の分野に近すぎると思ったデイヴィスは、全く方向を転換してみた。「次に『心のカケラ』を聴かせたが、これが失敗だった」という。

『オクラホマ!』や『サウンド・オブ・ミュージック』、『王様と私』などのミュージカルを手がけた作曲者は、90秒も聴かないうちにテープを止めるように言った。ロジャースは「曲は理解できないし、どうしてこのような曲が受けるのかわからない」とまで言ったという。「ジャニスの歌を聴いたロジャースは、なぜ彼女に才能があると思う人間がいるのか理解できないようだった」とデイヴィスは言う。困惑したロジャースは、「私に作曲のやり方を変えろというのか、或いはブロードウェイ・ミュージカルはロック・ソングでなければならない、というのなら、私のキャリアはもう終わりだ」とデイヴィスに告げた。ロジャースは新しいサウンドを全く受け入れない人間だと悟ったデイヴィスは、慌てて話題を変えたという。

6. アルバムには『ハリー』という短いジャム・セッションや米国国歌も収録される予定だった。

『チープ・スリル』の初期のアルバム・ジャケットには、ターバンを巻いた男性の吹き出し中の「ART: R. CRUMB」という表記の下に、「HARRY KRISHNA! (D. GETZ)」の文字がかすかに読み取れる。ジョン・サイモンによる最初のミックスでは、この短い曲が収録される予定だったが、あまりにも雑な曲だと懸念するレーベル幹部の介入により、収録が見送られた。また、『ハッピー・バースデー・トゥ・ユー』も収録予定だったが、コロンビアの幹部に却下されたという。

しかし、別のスタンダード曲のアレンジ・バージョンを退けたのは、サイモン自身だった。ギタリストのサム・アンドリュースは、プロデューサーのサイモンに米国国歌のランスルーをアピールしたが、即却下されて落ち込んだ。「それから約1年後、ジミ・ヘンドリックスがインストゥルメンタル・バージョンを演奏した」と、エリス・アンバーンが自著『Pearl: The Obsessions and Passions of Janis Joplin』の中で述べている。「ジミ・ヘンドリックスよりも1年前にジャニスが国歌を歌っていたら、どんなに画期的だっただろう」

7. オリジナルのアルバム・ジャケットには、ベッドで撮影したメンバーのヌード写真が使われていた。

「メンバー全員と寝たわ」とジョプリンはかつて、ビッグ・ブラザーのメンバーについて語っている。「みんな私の家族のようなもの。だからみんなとやったの」という。そういう意味では、ベッドでのメンバーを描写した当初のジャケット・コンセプトは、完璧なもののように思われる。しかしメンバーは、コロンビア・レコードのクリエイティブ・ディレクターだったボブ・ケイトーのニューヨークにあるオフィスを訪れた時、ヒッピーの仮宿泊所をイメージしたジャケット・デザインを見て困惑した。LSDや雑多な装飾やピーター・マックス風のデザインをごちゃ混ぜにした広告のようなデザインだった。ひと目見たジョプリンは「こんなのボツよ!」と叫んだ。実際に彼らはそのデザインを却下し、ヒッピーの中心地だったヘイト・アシュベリーの本物の雰囲気を出すために、メンバーは着ているものを脱ぎ捨て、スタジオ周辺にあったさまざまな物で大切な部分を隠してポーズを取った。「僕らは服を全部脱いでベッドへ飛び乗り、カメラに向かって微笑んだんだ。とても愉快な朝だった」と、サム・アンドリュースはアンバーンに証言している。写真には、マルボロのカートン、ジョプリンのサザン・カンフォートの瓶、ヘロインを熱するために使われたであろうキャンドルなどが、メンバーの裸体と共に写り込んでいる。写真はレーベル幹部が許可するはずもなく、却下された。最終的に、Zap Comixを創刊したカルト・カルチャーのヒーローで、オリジナルの裏ジャケットをデザインしたR・クラムによる漫画が採用された。

8. バンドが当初選んだ『セックス・ドープ・アンド・チープ・スリルズ』というアルバム・タイトルは、レーベルによって却下された。

レコード会社側で問題となったのは、オリジナルのジャケット・デザインだけではなかった。コロンビア・レコードは、バンドが選んだ『セックス・ドープ・アンド・チープ・スリルズ』というアルバム・タイトルにも難色を示した。悪名高き麻薬撲滅キャンペーン映画『リーファー・マッドネス 麻薬中毒者の狂気』から引用したフレーズは、アンドリュースのお気に入りだった。「我々の音楽やムーヴメントへの過剰反応に対する解毒剤になるかと思ったんだ」と彼はアンバーンに語っている。「”おふざけなんだから大目に見てよ!”って感じさ」 ママス&パパスやザ・ローリング・ストーンズも、アルバム・ジャケットにトイレの便座を表示することを禁じられた時代、タイトルに”セックス”や”ドープ(麻薬)”といった言葉を使うのは限度を超えているとみなされた。最終的にタイトルは短くされ、シンプルに『チープ・スリル』となった。

9. アルバム完成前に50万枚が予約販売されており、リリースを急ぐため36時間ぶっ通しでセッションとミックス作業を行った。

1968年3月にニューヨークで行った2週間に渡るセッションでは、わずか3曲しか仕上げられなかった。翌4月、サイモンとバンドはアルバムを完成させるため、コロンビア・レコードのロサンゼルスのスタジオへ場所を移した。約1か月間レコーディングを続けたが、完成には程遠かった。原因のひとつはサイモンの完璧主義にあり、バンドののんびりとしたスタイルと真っ向からぶつかったのだ。「絶対音感を持ったプリンストン大出身の気取り屋が、”ギターのチューニングが狂っている”とか”ヴォーカルの音程がずれている”とか言って、何百万回もやり直しさせるんだ」と、アシスタント・プロデューサーを務めたエリオット・メイザーは振り返る。やがて6月に、サイモンがザ・バンドのセカンド・アルバムをプロデュースするためにこちらを離れねばならなくなった時、関係者一同はホッとしたことだろう。その後はメイザーが、完成までのプロデュース作業を引き継いだ。彼の仕事の大部分は、できるだけ早くプロジェクトを仕上げたいと苛立つコロンビア・レコードの幹部を上手くかわすことだった。メイザーが依然として、「B面をどうやってまとめようか」という段階にいた頃、彼はクライヴ・デイヴィスからの電話を受けた。メイザーは、まだこの世に存在しないアルバムが予約販売だけで50万枚を売り上げ、ゴールド・アルバムが保証されていることを知らされた。「レコードを仕上げようとがんばっているバンドに、絶対に伝えたくないことだった」とメイザーは、アンバーンに語った。

プレッシャーが増す中、ジョプリンとサム・アンドリュースはエンジニアと共に、ファイナル・バージョンをミックスするために36時間ぶっ続けで作業した。「1日半、睡眠も食事もほとんど取らなかった」とアンドリュースは振り返る。しかし、過酷なセッションと長時間の作業は、それだけの価値があった。「我々は何かを成し遂げたという実感を得たし、売れる可能性があるんじゃないかと思った」

10. アルバムのリリースからわずか1週間後、ジョプリンはビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーを去ると宣言した。

ジョプリンがビッグ・ブラザーから離脱するという予兆は、バンドが『チープ・スリル』のレコーディングのためにスタジオ入りする前からあった。ジョプリン以外のバンドのメンバーは事実上お飾りだという、アルバート・グロスマン率いるマネジメント・チームの明確な方針は、プレスキットにも表れていた。コンサート宣伝時の表記も突然、”ジャニス・ジョプリンとビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー”となり、グロスマンはバンドに隠れて策略をめぐらした。「アルバートはジャニスにまず、ビッグ・ブラザーを排除する、と言ったんだ」と、ミュージシャンでジョプリンのアルバム『パール』にも関わったニック・グラヴィナイティスは言う。「彼はジャニスにレコード契約を持ちかけ、”25万ドル稼がせてやる。ただしお前だけだ。契約にビッグ・ブラザーは含まない。よく考えてみろ”と言ったんだ」

1968年に入り、ジョプリンに対するバンド外からのプレッシャーも高まっていた。「我々がひとたび暖かく居心地の良いサンフランシスコを離れると、”ビッグ・ブラザーは音楽的能力が低い”と評論家たちに批判されるようになった」とドラマーのデイヴ・ゲッツはエコールスに明かした。「最終的に、それがバンドを分裂させるきっかけとなった」という。ザ・ロサンゼルス・フリー・プレス紙は、「ジョプリンのソウルは、パートナーとしてホールディング・カンパニーには手に負えない」と主張した。さらにローリングストーン誌は、バンドのボストンでのギグを「乱雑で音楽全体の恥さらし」と評した。ジョプリン自身はそれら全てを笑い飛ばそうとした。インタヴューではバンドを”お粗末なミュージシャン”と率直に認めつつ、彼らは”家族のようなもの”と述べていた。しかし、彼女のヒーローであるエタ・ジェイムズやオーティス・レディングが得意としたホーン中心のソウル・サウンドを目指すには、彼女は独自の道を歩まねばならないことを承知していた。『チープ・スリル』がリリースされてから数週間後の1968年9月中旬、グロスマンはメディアに対し、ジョプリンがビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーから”友好的に”離脱したことを発表した。1968年12月1日、彼らはサンフランシスコで最後のステージに立った。「とっても悲しい瞬間だったわ」と1970年、ジョプリンはローリングストーン誌のデイヴィッド・ダルトンに語っている。「世界で一番好きな人たちだったし、彼らもそれを理解してくれていた。でもミュージシャンとしての自分を真剣に考えた時、私は新しい道を行かなきゃならなかったの」
編集部おすすめ