元ピンク・フロイドのドラマーのニック・メイスンがビーコン劇場の楽屋のケータリングエリアで小さな器に入った豆スープを飲んでいる。今、彼の新しいバンド、ニック・メイスンズ・ソーサーフル・オブ・シークレッツがニューヨークで初お披露目される3時間前だ。75歳になるこのドラマーがビーコン劇場の近くで最後に演奏したのは1972年で、その頃のピンク・フロイドは未完成のアルバム『狂気』の収録曲をツアーで演奏して反応を確認していた。これはプライベートジェットで移動し、フットボール・スタジアムをソールドアウトする彼のバンド人生が終わりを迎える直前だった。そして、目的のためには手段を選ばないマキャベリ的な勢力争いがバンド内で熾烈になり、ピンク・フロイドの再結成は夢のまた夢という状態で彼らは25年前に解散した。
音楽シーンからピンク・フロイドが抜けた穴は、多数のトリビュート・アクトを導入して行われたロジャー・ウォーターズとデヴィッド・ギルモアのソロ・ツアーの大成功によって埋められた。しかし、長年メイスンはそこに自分の居場所がないと感じ続けてきた。生存するピンク・フロイドのメンバー3人のうちの一人だというのに。それも最初から一度もバンドを離れずに在籍し続けたというのに。メイスンは言う。「できるとは思っていなかった。ただ、『本当にあそこに参加したいのか、ロジャーやデヴィッドやオーストラリアン・ピンク・フロイド・ショーなどで本当に演奏したいのか』って考えたよ」
そんなこともあって、過去25年間、彼はあまり活動をしてこなかった。
ロジャー・ウォーターズが2006年に行ったダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・ツアー中の数公演にゲスト参加し、ギルモアとは2014年のピンク・フロイドのインストゥルメンタル・アルバム『永遠/TOWA』で共演した。この作品はバンドとしての最終陳述として作られたため、その後のツアーは一切行われなかった。「1994年の大きな(『対/TSUI』)ツアーのあと、デヴィッドは大きなツアーはもうたくさんだという状態でね。その原因は理解できたけど、全面的に彼に賛同することは無理だった。でも、あの頃のデヴィッドの肩にはあらゆる重荷がのしかかっていたから、状況自体が変化していたんだよ。バンドとしてのハードワークもあったし、子供が小さくて家族の面倒もみないといけなかったから」とメイスンは説明する。
長い間、メイスンのソロ・プロジェクトは、それが何であれ、実現が非常に困難だと思われてきた。しかし1年ほど前に元ザ・ブロックヘッズのギタリストのリー・ハリスとベーシストのガイ・プラットがメイスンにアプローチしてきたのである。この二人は1987年にロジャー・ウォーターズの後釜としてピンク・フロイドに加入し、それ以来デヴィッド・ギルモアの主要コラボレーターでもある。彼らが話したアイデアは素晴らしくシンプルなものだった。それは、ピンク・フロイドが『狂気』でメインストリームに登場する前に作っていた、初期のシュールでサイケデリックな音楽に特化した新バンドを組むというものだ。「無礼に思われたくないのだが、本当の意味でデヴィッド・ギルモアがギターを弾けるようになるずっと前からニックは経験豊富なドラマーとしてやっていたのに、ギルモアが最高のソロを披露する後ろでニックはリズムのキープに専念させられていたんだよ。だからピンク・フロイドの初期の音楽に立ち返りたいと思ったんだ」と、ハリスが言う。
メイスンは慎重になりつつも、このアイデアを前向きに捉えた。ハリスとプラットがキーボーディストのドム・ベケンとスパンダー・バレエのギタリスト兼ソングライターのゲイリー・ケンプをリクルートしてきたあとは、もっと前向きになった。ちなみにベケンは90年代にオーブというエレクトリック・グループで活躍していた。こうして、全く異なるバックグラウンドを持った5人の男が集まった。しかし、彼らには、カリスマ性のある有名バンドリーダーの影で演奏してきたという共通点がある。
ロンドンにあるリハーサル・スペースに全員が集まって、長い間シーンから遠ざかっていたロックの重鎮の復活を試みたとき、5人の間に瞬時にケミストリーが生まれたのである。「ハードワークは好まない性格だから、ちょっとやってみようという雰囲気でなかったら状況は違っていたと思う。驚いたのは、音を出した瞬間にいい感触だったことだ。思うに、彼らの情熱がそうさせたに違いないよ」とメイスン。
告知を一切せずに、彼らはテストライブとしてロンドンのディングウォールズ・カムデンをブッキングした。ここは最高収容人数500人という小さなクラブだ。ケンプが説明する。「このライブは大勢の人でごった返したよ。僕はスパンダー・バレエ時代に7割女性という観客に慣れていたが、ディングウォールズは9割が男だった。
小さい会場に限っていえば50年ぶりに演奏したメイスンにとって、この夜は本当に素晴らしい体験となった。「25歳に戻った気分だった。やっと他のミュージシャンたちと顔を合わせ、互いに目で合図しながら演奏できたんだよ。観客席の後ろまで見渡せて、みんなが真剣に聞いているのが見えた。大きなスタジアムでの演奏も素晴らしい体験だし、打ち上げ花火をしたり何なりと普段と違うことができる。でも自分の見える範囲に観客がいるときの親密度はそれと比べ物にならないよ」とメイスンが語る。
ソーサーフル・オブ・シークレッツは2018年9月にヨーロッパ・ツアーを敢行し、2019年3月に全国の劇場をまわる6週間の北米ツアーを行った。メイスンは生まれて初めてツアーバスで各地をまわり、メンバー全員で1台のバスに同乗した。メイスンが言う。「ピンク・フロイド時代はチャーター機とリムジンでの移動が普通だった。実はそういう体験はまったく恋しくない。ただ、ツアー初日にバスの洗面所で滑ってしまって肩を強打してしまった。それも徐々に回復しているし、このツアーを楽しんでいるよ。ほら、今はバスの座席に座って考え事しているだけだからね。それ以外することはないんだよ。考え事をしていると必ず、今、自分はここにいたいと実感するのさ」と。
ニック・メイスンズ・ソーサーフル・オブ・シークレッツのヴォーカルはガイ・プラットとゲイリー・ケンプが担当するが、ステージの真ん中に立つメンバーは一人もいない。ケンプが説明する。
アメリカの観客にとって、これはクラシック・ロックのラジオ局で一度も聞いたことのない無名の楽曲ばかりのライブとなるため、観客がまごついてしまう心配があったのだが、行く先々で熱狂的に受け入れられている。ビーコン劇場ではピンク・フロイドのヒット曲をリクエストする観客はゼロだった。メイスンが「正直な話、『マネー』や『コンフォタブリー・ナム』を聞きたかったら、ロジャーのライブやデヴィッドのライブ、オーストラリアン・ピンク・フロイド・ショーに行けばいいんだよ」と言う。
そういうライブで見られないものこそがソーサーフル・オブ・シークレッツのセットのハイライトといえる。「ナイルの歌」のハードロックの攻撃性、トリッピーな「原子心母」の尺長のジャム、「太陽讃歌」のシュールな音楽の旅。ビーコン劇場で「太陽讃歌」を演奏していたとき、黒い服を着た男が舞台の袖から現れてリード・ヴォーカルをとった。それが2013年以来初めてメイスンと共演するロジャー・ウォーターズとわかると、観客の熱気が最高潮に達した。驚いている観客に向かってウォーターズは「私たちはとても親しい旧友だ。ところでニック、このライブ最高だな。思ったんだけど、お前の腕前、あの頃よりも格段に上がっているんじゃないか?」と言った。
今後のソーサーフル・オブ・シークレッツの予定は未定だ。しかし、メイスンは世界中をツアーするアイデアと、ライブ・アルバムを制作する可能性を示唆している。このバンド活動を一番喜んでいるのがメイスンの奥方ネッティーだ。彼女は女優としてイギリスで長い間活躍している。ビーコン劇場でのライブが始まる前に彼女が楽屋に顔を出した。そして、ネッティーは「彼がやっとプレイしているのを見て興奮しているの。理由を教えましょうか? 彼は生まれて初めてニック・メイスンとして有名になったんですもの」と喜んでいた。
メイスンはそれを聞いて奇妙に感じるらしい。「もともとバンドとしてこのプロジェクトを始めたわけだ。でも、今はなんというか……自分がこのバンドを率いているような雰囲気でね。もちろん全員でやっているのだけど、どうも、このバンドでの自分の存在が大切だと思われているようなんだ。これは全く予期していなかったことさ」と、若干の困惑を隠せない。
ビーコン劇場での公演後の打ち上げで、ウォーターズは隅っこでブルース・ウィリスと肩を寄せ合って話している。一方、メイスンは元ピンク・フロイドのツアー・キーボーディストのジョン・カリンや、かつてピンク・フロイドのコンサート・プロモーターだったマイケル・コールなどと挨拶をしている。メイスンが着ている白いボタンダウンシャツは、ライブ後の汗がひかないせいで濡れているが、彼の表情は活き活きと明るい。そして「このバンドで1曲歌いたいとロジャーが言ってきたときは冗談だと思った」と言って、メイスンが続ける。「今、本当に気分が良い。まあ、ライブのあとは大抵こんな気分だけどね。気分が悪くなる理由なんてないよ」と。