ナカコーことKoji Nakamuraが、ソロ名義としては前作『Masterpeace』から実に5年ぶりとなる最新アルバム『Epitaph』をリリースした。

本作は、2017年4月よりスタートした「Epitaph」プロジェクトの集大成というべきもの。
当初はCDリリースを想定せずストリーミングのみをターゲットとし、同名のプレイリストはナカコーの気分次第で更新され、曲順やミックス、ヴァージョンなどが常に変化していた。1カ月に1度、2、3曲アップロードされるスタイルは、DAWとストリーミングを用いた新たな表現の模索ともいえるものだったのである。

そんなプロジェクトから2年経ち、ようやくCDというフォーマットで完成に至った本作。プロデューサーに若きサウンドクリエーターKazumichi Komatsu (Madegg)を迎え、歌詞をArita shoheiに依頼するなど、新たな世代とも積極的にコラボを行なっている。そもそもナカコーは、今回なぜこのような表現スタイルを選んだのだろうか。「自分の聴いたことのない、新しい音楽」をテーマに掲げ、どこへ向かおうとしているのか。

途中、話題はスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』へと脱線しながらも、彼のクリエイティヴの真髄に迫った。

─元々本作『Epitaph』は、ストリーミングのみをターゲットとして2017年4月よりスタートした同名プロジェクトでした。このアイデアを思いついた背景について、まずは教えてもらえますか?

ナカコー:ストリーミングの「Epitaph」プロジェクトを始めた頃は、自分のソロ作品をCDで出すということに対して興味がなくて。そんな時にスタッフから、いわゆるストリーミングで出す方法について提案があったんですよね。話を聞いて、そういうものからスタートするのも「あり」なんじゃないかなと。そんなところから始まりました。


─日本では2016年9月にサービスが開始されたSpotifyを筆頭に、いわゆる「サブスクリプション」は一気に普及していきました。そのことに対してナカコーさんは、音楽家としてどんなふうに感じていましたか?

ナカコー:僕個人の見解は、サブスクリプションは「ラジオ」に近いものだと思っています。もちろん、ラジオには様々な番組があるから、それとイコールの存在ではないけど、音楽としての捉え方というか。音楽が流れる、音楽を流す、そういうラジオとしての役割に近いものだというふうに考えていますね。もっとも変化したのは「アルバム」の概念じゃないかなと。サブスクリプションを「アルバム」として機能させるようなアイデアを持った人が出てきたときは、またひとつ変わっていくと思っています。

─おそらく、ナカコーさんが試みた「Epitaph」プロジェクトも、そんなアイデアの一つだと思いますし、今はまさに過渡期ということなのでしょうね。「ラジオに近い」とおっしゃるのは「音源を所有できない」「手元に置いておけない」という意味で、でしょうか。

ナカコー:うん、それが一番大きいかも知れないし、Spotifyなどは「コミュニティ」をどんどん増やしていく方向に行っているから、そこもラジオ的だなって思う。「ディスク」や「作品」を体感する方法として、今後どうなっていくのかという部分については、今はおっしゃるように考えどきなのかなと。特に、ミュージシャンは対価をもらうわけだから、そこで答えが出るまでに、選択肢として結論つける時間はもう少し必要かなと思います。

─プレイリスト「Epitaph」は、気分によって収録曲が変わり、ヴァージョンが変化し、曲順も入れ替えられるなど、かなり実験的な試みだったと思うのですが、実際にやってみてどんな印象を持ちましたか?

ナカコー:ひとつ言えるのは、作品を作っている様子を一定期間見せられるというのは、メリットとして大きいと思いました。
こういうやり方が定着していくと、それはそれで面白いんじゃないかなと思いますね。例えば自分の好きなミュージシャンが今、どんなことをしているのかを検索したら、ちょうどアルバム制作の真っ最中で、その経過を垣間見たり、途中段階の楽曲を聴けたりするというのは、素晴らしいことだと思います。

─「みんなやった方がいい」と思うのはなぜですか?

ナカコー:今、単純に情報のスピードがどんどん速くなってきているから、それぞれのミュージシャンがどんな人なのか、みたいなことがどんどん流れていってしまうと思うんですよね。例えば新しいバンドが登場したとき、彼らが何をやっているのかというのを常に見せることが必要で。それを確保するのに、ディスクという形じゃなくて、ウェブに溶け込めさせる「音」として提示する期間があるというのは、うまく使えば色んな可能性があると思うんです。それこそYouTuberのやり方はまさにそれだと思うのだけど。

『2001年宇宙の旅』で「体験」そのものに意味があることを理解

─なるほど。そういえばTwitterでも「同じ曲を何度も録音したほうがいいよ。とくに今のバンドは。曲の消費が速いから、同じ曲を何度も塾考して世に出すことは、このスピードへの答えの一つになると思う」とおっしゃっていましたね。

ナカコー:その反面、アルバムというのは突然やってくるものでもあるから。過去そういう作品もたくさんありましたよね。
「え、作ってたんだ!」みたいな(笑)。リスナーにとってはそういう喜びも大切ですし。なので、システムとしてサブスクリプションは肯定的に考えているし「みんなやってみた方がいいよ」って思うけど、それが主流ではないというか(笑)。

─選択肢が増えるというのは、単純にいいことではありますよね。フィジカルで出したい人もいれば、オープンソース的に制作過程を開示したい人もいて。共存していく世の中になればいいのかなと。

中村:そう思います。それぞれのアーティストの使い方次第ですね。

─例えばカニエ・ウェストの昨年のアルバム『ye』が象徴的だったの思うのですが、ここ最近「アルバム」のボリュームが縮小されているのはサブスクリプションの影響もあると思いますか?

ナカコー:少なからずあるとは思います。作品というのは、それを鑑賞している間、相手の時間を言ってみれば「奪ってしまう」ものですよね。それが、例えば現代社会において1時間もあるのは、映画でもない限り難しいというか。30分とか40分くらいなら、割とサクッと聴けるし次の作業に移りやすいというのもあるかもしれない。


─なるほど。確かに世の中全体がどんどん「せっかち」になっている気はします。にも関わらず、映画の尺はどんどん長くなっているのは不思議ですね(笑)。昔はせいぜい90分とか100分だったのが、今は2時間半とか余裕で超えるハリウッド作品もあります。

ナカコー:しかも、それで鑑賞できちゃうのが不思議ですよね。この間も『2001年宇宙の旅』がリバイバル上映されていたじゃないですか。あれは1969年の映画ですが、あの2時間半もある作品を僕は劇場で3回観ちゃって(笑)。てことは休憩も3回挟んでいるということか。

─ご覧になったのですね! 大画面で観た4Kの『2001年~』はいかがでしたか?

ナカコー:最高でしたね。最初は真ん中の一番いい席で観て、次はちょっと前で観て、最後はもうかなり前で観ました(笑)。

─埋没感を味わってきたのですね(笑)。

ナカコー:あの映画は大画面で観るという「体験」そのものに意味があることが、ようやく理解できました。
僕が『2001年~』を初めて知った時にはすでにDVDもVHSで出回っていたし、「すごい作品だ」という冠が付いていたわけですよね。それを踏まえて観るのと、公開された当時の人たちが大画面で浴びたのとでは、全く意味合いが違う。今回、その当時の人たちと近い体験ができたのは滅多にない機会だったと思うし、実際に観てみたら……ちょっと今まで観た映画が全部ウソだと思うくらいの衝撃でしたね(笑)。もう、この先、小さなテレビ画面で観る『2001年~』は別モノだろうなと。

─ちょっと話がずれてしまいましたが、『2001年~』のアンビエントっぽさと、今作『Epitaph』のアンビエントっぽさは、どこか共振する部分があるとも思いましたか?

ナカコー:割と「確認」に近いものがありましたね。自分の感覚、今自分がいいなと思っているものや、欲している感覚が、『2001年~』にはそのままパッケージされていて。これまでに何度も観た作品ではあるけれど、今回は「体感」として味わうことができて。昔からあんなに好きだったのに、ここにきて再びその世界にのめり込むというのは、なんだかとても不思議でしたが。

─共通するキーワードは「タイム感」ですかね?

ナカコー:そう。その作品を体感する「時間」というか、一つ一つの「時間経過」に意味があるというか。

─確かに。あれだけの尺を使ってこそ、見えてくる世界観ではありますよね。


ナカコー:そういう時間感覚は、『Epitaph』でもすごく意識しました。楽曲としての、いわゆるメロディラインはもちろん前提にはあるのだけど、何よりも「いい時間だったかどうか?」が自分の中では大事なテーマになってきていて。ライブでもレコーディングでも、それを聞いている空間と時間が、自分にとっていいものだったのか、それは必要な時間だったのかを、より深く考えるようになりましたね。

「聴いたことのないもの」への関心

─「Epitaph」プロジェクトのテーマとして「自分の聴いたことのない、新しい音楽」、つまり「過去の引用がされてない音楽」を目指したと聞きました。

ナカコー:実は、前のアルバム『Masterpeace』(2014年)を作り終えて割とすぐにデヴィッド・ボウイが亡くなってしまって。さらにプリンスも立て続けに死んでいったことで、聴くものがなくなってしまったんです。自分にとってのオリジネーターが2人、この世からいなくなってしまったことは、かなりデカかったんですよね。彼らの音楽は、自分の中に息づいているのだけど、でも実際にはもう存在していないという。何を作っていいのかわからないというか。わかるのだけど、なんとなく音楽そのものに興味を失ってしまった時期が1、2年あって。

─そうだったんですね。

ナカコー:とはいえ仕事をしないわけにはいかないので(笑)、そういう気分で何となくやっていて。だとしたら、これからは自分で作って自分で心地いいと思える時間を増やしていくしかないなと思い至ったんです。もともと新しい音楽や、聴いたことのない音楽は作ってみたいし、そういう欲求はずっとあった人間なので、そういう思いが当時の心境とタイミングよく合致したんじゃないかな。だからとにかく新しい、巷に流れている音楽ではないものをやりたいなと。

─なるほど。ただ、作品そのものは決して聴き手を突き放していないし、むしろ心地よさを感じたんです。それって、ある意味では「懐かしさ」や「既視感」につながる要素なのかなと思うのですよね。全く未知のものだと、きっと人は拒絶感が先に来ると思うし。そのあたりのバランスは作る時に考えましたか?

ナカコー:「聴いたことのないもの」というのは、サウンドやメロディがというよりも、時間の感覚なのかなと思います。「聴いたことのないものを聴いているような時間だった」と思えるような体験であれば、サウンドがものすごく不思議だとか、そういうことでもないんだなと。

─そこは『2001年~』の「体験」ともリンクしますよね。物語や映像がどうこうというより、あの時間と空間に埋没することに意味があるというか。

ナカコー:うん、そうですね。そういえば以前、iLL名義で『Sound by iLL』(2006年)というアルバムを作った時も、割と今と同じようなモードというか。「聴いたことのないものを作ってやろう」みたいな感じでした。ただ、あの時は割と攻撃的になっていましたね。音楽はあんな感じなのに(笑)、「怒り」みたいなものがモチベーションだったので、そこは今回とは違いますね。

─今回は、アレンジで「Madegg」ことコマツ・カズミチさんが関わっています。

ナカコー:ほとんど音楽を聴かなかった時期でも、Madeggくんの音楽はずっと聴いていて。というのも、彼は一際すごいアーティストだと思ったから。彼の音源を初めて聴いた時は、おそらく彼は20歳くらいの時だったと思うのだけど、その時から「ヤバイこの人」と思って、ずっと一緒に作りたいと思っていたんです。今回、アルバムを作るとなった時に「彼と作りたい」というのがまずあったくらいで。

─そうだったんですね。

ナカコー:なぜなら、彼が自分の楽曲をプロデュースすることによって、何か違った方向に持って行ってくれるだろうという確信があったから。そういう意味では、彼が今作で果たした役割はかなり大きいですね。僕自身も気づくことがたくさんあったし。

Madeggとの対話

─具体的にはどんな形で制作に関わっていたのでしょうか。最初の取っ掛かりとしては、ある程度曲の完成形を思い浮かべながら作っていくのですか?

ナカコー:それは結構不思議なもので。はじめに「こうしたい」という完成形を定めていないんですよ。僕がラフに作った素材をMadeggくんに送り、戻ってきたものをバシッと並べた瞬間に「もうできている」というか(笑)。それはMadeggくんの音楽を聴いたときに、僕が理想とする音楽をやっていたから。彼と作ると決めた時点で、もう自分の中でできていたのだろうなと思います。

─道筋や目的地を特に決めず、ファイルのやりとりがある意味「対話」のような感じで、気がついたら思いも寄らない場所まで来ていた、みたいなところもあったのかもしれないですよね。

ナカコー:うん、そうですね。

─ある意味、ファイル上で「インプロのセッション」をやっているような。

ナカコー:とてつもなくいいインプロをやっている時って、信じられないことになっていて。演奏者全員が「信じられない」って顔で演奏するんですよ(笑)。それと近いかも知れない。

─彼が以前のインタビューで、「今のアーティストってアイドルみたいなものに近くなっていっている気がするんです。音楽でも、スター性を重視すると、キャラクター性のようなものが強くなっていっている。それに対して違和感」と話していて。ナカコーさんも「自分を消したほうが音楽は作りやすい」とツイートしています。この、お二人の感覚って通じるものがあるのかなと思いました。

ナカコー:昨今の「キャラクターありき」という風潮は確かに違和感がありますね。キャラクターというのは滲み出るものだし、時間の経過とともに増していくものだと思う。それは人間だから、最初に設定があるわけじゃないんですよ。アニメやゲーム、映画だったらそれは必要なのですけど、普通に生きている人間なのだから「設定」が先にあるのは、見ていて無理があるんですよね。例えばゴールデンボンバーとかは、全然構わないんですよ(笑)、そもそもそういう戦略だし。彼らのやっていることは、頭がいいなと思うんですけど。

─はい。そもそもコンセプトありきを自覚してやっていることですからね。

ナカコー:普通にシンガー・ソングライターが「まず設定から考えよう」ってなるのは、ちょっと違うんじゃないかなって。まず曲を書いて、どんな音楽を面白がる人なのか、どんな音楽を作る人なのか、そこからやってくださいっていう感じがしますね。

─先に設定を決めてしまったら、作る音楽も自由でなくなってしまいますよね。

ナカコー:それに、ネットの用語もカテゴライズなんですよね。「僕は陰キャです」とか言われてもこっちは知らんし(笑)。人間って「陽キャ」と「陰キャ」の2種類しかないの? って思っちゃう。それって、ある意味では「遊び」だったはずなのに、実際の生き方まで縛られてしまっている人が多いなって思う。カテゴライズを社会にまで組み込もうとすると、それは違うだろって思う人は当然でてきますよね。おそらくMadeggくんの違和感も、その辺りにあるんじゃないかな。

─「作家性」も「オリジナリティ」も、作品を作り続けた先にあるような気がしますよね。「いいインプロ」も、自分というエゴを消した先に生まれるのかも知れないし。

ナカコー:それはありますね。例えば1曲作って「自分はこうなんだ」と決めてしまって、次はそこからスタートするっていうやり方だと、どんどん自由がなくなっていく気がするんです。その「自分はこうなんだ」というこだわりを捨ててしまえば、どこからでもスタート出来るのにって。そう思う現場に出くわすことが多々あって。だから、若いミュージシャンがもしそこでもがいていたら、「ちょっとそのこだわり、捨てた方が作りやすいんじゃない?」って言いたいですね。

言葉が「音楽」として機能している

─あと、作詞にArita shoheiさんを起用したのはどんな経緯だったのでしょうか。

ナカコー:Aritaくんとは、同じイベントに出ていて知り合ったんですけど、その時に彼はギターと歌だけのスタイルで。リハーサルで彼が歌い始めた瞬間、「この人、すごいいい歌を歌うな」と。普段、そんなことあまりないんだけど、言葉がすごく頭に入ってきたんです。しかも、その言葉が「音楽」として機能している。それで、初対面だったのだけど「歌詞を書いて欲しい」とすぐに頼んで。

─へえ!

ナカコー:最初に「Lotus」の歌詞が上がってきて。それを歌ってみたら何の違和感もなかった。自分の世界とAritaくんの世界は、すごく近い部分があると思いました。

─言葉が「音楽」として機能しているというのは?

ナカコー:今の音楽って、言葉がものすごく多いじゃないですか。それは自分としては辛いからいつもシャットアウトするのだけど(笑)、僕が本来、日本語の音楽でとてつもなく好きな部分は「間」なのですけど、Arita君はそこを意識しているから美しいと感じるのでしょうね。

─ところで、元々、CDリリースやダウンロード販売を想定しなかった「Epitaph」を、益子樹さんによるマスタリングを経てアルバム『Epitaph』として完成させるに至ったのは、どんな経緯だったのでしょうか。

ナカコー:このプロジェクトをスタートした2016年と比べると、ここ数年は特に「物体の価値」が少し変わってきたように思っています。「CDの見直し」という現象も、起こり得るのではないかと。5年くらい前からある、「CDなんて要らないんじゃないか?」という風潮が見直されつつある気がしますね。それは「物体」として最高峰にあるアナログレコードが返り咲いたというのも大きいと思いますね。アナログこそ、アーティストの表現形態として最高峰である、と。僕も『Epitaph』はアナログで出したいと思っているのだけど、してくれないだろうなあキューンは(笑)。

─あははは。

ナカコー:やっぱりどこかで人間は、モノにも愛情を持ちたいんじゃないかな。ストリーミングは公共性があり、誰に対しても平等なものです。でも自分で手に入れ、手で触ってということを、多くの人が今も求めている。

─「特別感」ですよね。

ナカコー:そこに気づけたのは、『Epitaph』プロジェクトをスタートしたからこそだと思いますね。

Koji Nakamura
ナカコーことKoji Nakamura。1995年「スーパーカー」を結成。解散後、「iLL」「Nyantora」やナカコー、フルカワミキ、田渕ひさ子(NUMBER GIRL/bloodthirsty butchers/toddle)、牛尾憲輔(agraph)からなるバンド「LAMA」で活動。その活動はあらゆる音楽ジャンルに精通する可能性を見せメロディーメーカーとして確固たる地位を確立し、CMや映画、ドラマの劇伴制作、アートの世界までに届くボーダレスなコラボレーションを展開。その他remixerとしても様々なアーティトを手がけ遺憾なくその才能を発揮している。そして、2014年4月には自身の集大成プロジェクトKoji Nakamuraを始動させ『Masterpeace』をリリース。現在は、「NYANTORA」、「LAMA」、ナスノミツルや中村達也と組んだ「MUGAMICHILL」、Merzbow、Duenn、Nyantoraによるノイズ・ユニット「3REASA」で活動しながら、アンビエント、実験音楽といった”レフトフィールドな音世界”を届けるイベント「Hardcore Ambience」を定期的に行っている。また日本作品として初めてフランス・カンヌ国際シリーズフェスティバル コンペティション部門に正式出品されたドラマ「潤一」の劇伴音楽とエンディングテーマ曲、「WOWOWオリジナルドラマ アフロ田中」の劇伴音楽とメインテーマ曲を担当。2017年4月より、音楽は有機的に変化するものをテーマにストリーミングプロジェクトを展開。2019年6月26日、5年ぶりのCD作品『Epitaph』をリリースした。
http://kojinakamura.jp/

<INFORMATION>

Koji Nakamuraが語る、音楽における「時間の感覚」と「価値」の話

『Epitaph』
Koji Nakamura
ソニーミュージック
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