通算2作目のニューアルバム『The Sailor』をリリースしたばかりのリッチ・ブライアンに、このタイミングでは日本独占となる電話インタビューを実施。インドネシア・ジャカルタ出身の1999年生まれが、88risingの花形ラッパーになる前の修行時代と、新たな領域に乗り出した最新作、自身の民族性とアートの相互関係について語った。
―今日はどちらに?
ブライアン:LAにいるよ。
―そうですか、さっそく始めますね。まずは今年1月、日本で開催された88risingのショーケース・イベントについて。あなたがトリを務めていましたよね。
ブライアン:すっごく楽しかった。僕はそもそも日本って場所が大好きで、その前にも2回行ったことがあったんだけど、今回は仲間と一緒に東京、大阪とライブ・パフォーマンスで回ることができて最高に楽しかった。お客さんも超エネルギッシュだったし。
―日本人だけでなく、アジアからのお客さんを多く見かけたのも印象的でした。その感じって伝わりました?
ブライアン:うーん、正直よくわからなかった。それより、アジア以外の国から来たんだろうなってオーディエンスが意外と多かった気がする。その感じは他の国でやるライブでも一緒で、だから違和感もなかったし、いつもの感じで楽しめたよ。日本も同じなんだなって。
―その前に日本に来たのは何のため?
ブライアン:MVの撮影だね。「Who That Be」(2016年のシングル)を日本で撮ったんだ。
―あのビデオに映ってる感じが、あなたのイメージする日本?
ブライアン:好きなんだよね、ああいう風景とか、雰囲気とか。そこは姉貴(※)の影響もあると思う。彼女は日本が大好きすぎて、年に3~4回くらいのペースか、それ以上に行ってるかもしれない。僕も以前、姉貴と一緒に行ったことがあって、そのとき印象に残ったものを映像に取り込んだ感じかな。
※ソニア・エリカ:インドネシアにおけるファッション・ブロガーの先駆けで、フォトグラファーやボーカリストなど多方面で活躍中。Instagramのフォロワーは19.6万人。
インドネシアで「ヒップホップの一員」になるまで
―ここで少し遡って、あなたの音楽体験について教えてください。資料によると2012年頃からヒップホップを聴くようになったそうですが……。
ブライアン:いや、2012年っていうのはたぶん、僕がTwitterを活用するようになった時期だね。その頃にTwitterで話題になっていたのがマックルモアで、「誰それ?」って興味を持って「Thrift Shop」という曲をチェックしてみたんだけど、正直に言うと最初はピンとこなかった。
―それってインドネシアでの話ですよね?
ブライアン:そうだね、アメリカに初めて来たのは2年前だもん。当時はまだどっぷりインドネシアだよ。
―インドネシアでもそういったアメリカのヒップホップは人気があった、ということ?
ブライアン:全然。インドネシアでは人気なかったよ。今でこそ人気が出てきているけど当時はサッパリで、だからこそ僕はヒップホップと出会ったんだと思う。他の人が聴いてるものとは違う、知らないジャンルの音楽を見つけたいと思うタイプの子どもだったから。
―好きな音楽をシェアする友達もいなかった?
ブライアン:うん。
―それでネットの世界へ。
ブライアン:そういうこと。
―そこから自分でラップをやるようになった経緯は?
ブライアン:ラップを始めたのは、そうだなあ……。ヒップホップを聴き始めてから2~3年してからかな。あの頃はもう、本当にヒップホップしか聴いていなかったから、他にやりたいこともなかったっていうか(苦笑)。まあ、それを言ったら今だってヒップホップばっかり聴いてるんだけど、最近は意識していろんな音楽を聴くようにしているんだ。ヒップホップがNo.1なのは変わらないけどね。最初はどうだったかな……もちろん聴きながら真似して、ってところから入ったんだけど、その後は……うん、たぶん家でYouTube巡りをしながら見つけたビートやインストのトラックに自分でライムを乗せてみたのがきっかけだと思う。
―そうですよね。
ブライアン:「単語ひとつでも韻を踏むのが大変なのに、これを1曲通してやるの!?」みたいな(笑)。だけど僕って、結構チャレンジするタイプなんだよ。「やってやろうじゃないか!」ぐらいの感じで。何とか書き上げたものを拾ってきた音源に乗せて見たらなかなかの出来だったんで、当時ハマっていたTwitterにポストしてみたら、フォロワーの間で割と評判が良くて。作ったものを誰かが気に入ってくれるのは、すごくやり甲斐を感じたし嬉しくってね。コイツはクールだ!ってことでどんどんやるようになった。
2016年のデビューシングル「Dat $tick」がストリーミング数3億回を突破する特大ヒットとなり、リッチ・ブライアンは一躍シーンの最前線に躍り出た。
―誰か有名なアーティストの目に留まったりは?
ブライアン:なかった。全然だよ。もちろん、それを狙ってたというのはあるんだけど(笑)。
アメリカのヒップホップが人生の学校
―先ほどからアメリカンでヒップホップな感じの英語を流暢に話していますが、インドネシアでも普段から英語を話していたんですか?
ブライアン:実はノーで、学校に科目はあるけど家で話すことはない。少なくとも僕の家では誰も英語は話さないし、会話はインドネシア語だ。僕もインドネシアの友達と話す時は英語じゃないしね。僕にとって英語のレッスンはミュージックビデオを観まくること。毎日、毎日、そればっかり観てたから……。好きなものが英語の音楽だったから、それが僕には当たり前だったんだ。そしてある時、気がついたらビデオを観ながら英語で一緒にラップしてて、さらに気がついたら頭の中で考えている言語も英語になっていた。本当に不思議だけど、自分の内なる声が英語になってた感じ?
―それはすごい。
ブライアン:面白いよね。あとはTwitterで知り合ったアメリカ人の友達とのやり取りで英語を使ったり。でも、やっぱり誰かのラップを聴いて真似して、っていうのが一番練習になったと思う。ノリとか、そういうのもわかるから。最初はメッチャ難しかったよ。ライムを覚えるのも一苦労なのに、それを口に出してラップするのはもっと難しくて。今でも覚えてるけど、最初にラップで格闘したのはマックルモアの「Thrift Shop」だったから、あのライムはまだ頭に入ってるよ。
2018年にリリースした自身初のフル・アルバム『Amen』は全米18位のヒットに。ジョージ『Ballads 1』とともに、2018年の88rising快進撃を印象付ける作品となった。
―自分で書いたオリジナルのライムは最初から英語?
ブライアン:英語だよ。アメリカのヒップホップにどっぷり浸って育ってきたから、当然のように英語になった。
―ヒップホップが語学学校であり、音楽学校であり、職業訓練校でもあった。
ブライアン:間違いないね。
この投稿をInstagramで見るRich Brianさん(@brianimanuel)がシェアした投稿 - 2019年 7月月7日午前1時30分PDT
2019年7月7日、リッチ・ブライアンはラッパーとして初めてインドネシアのイスタナ(大統領宮殿)を訪問し、ジョコウィ大統領と会談した。
―でもヒップホップには、ラップ以外にもいろんな側面がありますよね。ビートメーカー、プロデューサー、DJ、ダンス……そういったエリアに興味はなかった?
ブライアン:うーん、どうかな。ビートメイクはもちろん興味があるけど。今は実際、自分で自分の曲をかなりプロデュースしてるし。プロデュースを始めたのは2年前かな。ラップを始めて少ししてからプロデュースもするようになった。何度かプロデューサーと組んでみてコツがわかったのと、やっぱり人に説明して理解してもらうのって難しいんだよね。こっちのヴィジョンがイマイチ伝わらないことがあって、だったら自分で勉強してやってみようと。いざやってみると、アレンジやミックスの諸々についてわかってきて、すごく役に立った。プロデュースを勉強したことでソングライターとしてもすごく成長したと思う。
最新作『The Sailor』とアジア人としてのアイデンティティ
―ニューアルバム『The Sailor』 のタイトルは探求することの象徴で、作品自体も「新たな領域に乗り出していく」ことについて、「移民たち」の視点からストーリーを描いているそうですね。リリックにまつわるヴィジョンもそこにある、という解釈で間違いないでしょうか。
ブライアン:そうだね。ヴィジョンというか、それは「プラットフォーム」かな。いろいろやってきたなかで気づいたんだ、これは僕独自の基盤だなって。言い換えれば、僕に開かれたチャンスでもある。ユニークな個性という意味でも、今まであんまり積極的に触れてこなかった題材という意味でも。それに、タイミング的にも相応しい気がした。
―というと?
ブライアン:今でも僕が音楽を作り続けている一番の原動力になっているのが、聴く人に閃きを与えたいということ。「よう、俺も前から音楽やってたんだけど、お前の曲を聴いたら久し振りに弾きたくなってギターを引っ張り出したよ」みたいな感想を言ってもらえるのが何より嬉しいんだ。自分もそうやって刺激を受けてここまできたから、今度は刺激を与える側にいるんだと思えるのがね。音楽をやっててよかったと思うし、続けていく励みにもなる。
―「今まであまり触れてこなかった」というのは、どういうことを指すのでしょう。例えば、1stシングルの「Yellow」でラップしているようなこと?
ブライアン:そうだね。あの曲を書いたのは、アルバムに向けて動き出した当初。だから、古い方に入るんだけど、あれを書いたことでアルバム全体のインスピレーションが広がったと言ってもいい。あの曲を書いた時、僕はちょっとおかしな状況にあって……人生のそういう時期だった、というか。とにかく4カ月ぐらいスランプに陥って何も書けなくなってね。壁にぶつかって、どっちにも進めない感じだった。もう終わりかな、って思ったくらい。
―出だしから「誰にも知られないまま、自分を消し去るにはどうすればいい?」と歌ってますもんね。
ブライアン:でも、あの曲のインストを聴いたらビリビリッと刺激が走って一気に視界が開けたんだ。自分のなかで、「Yellow」は映画的な曲だと思ってる。3章構成からなる映画。第1章が「葛藤」で、第2章で「変化」が訪れて、最終章ではそこから脱し、感動的な美しいアウトロに繋がるという。
―第2章のブリッジで、”自分がイエローだからといって、気持ちに抗わなくていいんだ”とラップしているのも印象的です。
ブライアン:この曲のリリックを書いている時は、実はアイデンティティについて何も意識していなかったんだ。その時の自分の気持ちを言葉に表現したい、ただそれだけだった。なんでこんなに面倒臭いんだ、なんでこんなに辛いんだ、みたいなリリック……最初のヴァースはまさに当時の気持ちを表していて、それをできるだけ無防備にさらけ出そうとしていた。それが2ndヴァースではスケールの大きな、希望を感じさせるヴァイブスに変わっていくんだけど、その辺りからかな。これは思っていたよりビッグな曲に展開していきそうだ、と感じ始めたのは。そして歌詞の面でも、今まで言えなかったようなことを言うチャンスかもしれない、この曲だったらたくさんの人に伝わるかも。共鳴する可能性があるかもと思えてきたんだ。
―音楽活動をするうえで、アジア人であることをどこまで意識していますか? アメリカでヒップホップをするということは、アジア人であることを再認識する経験なのでは、と想像しますが。
ブライアン:ヒップホップシーン全体のなかで、自分がマイノリティなのは間違いないし、たしかに厳しいと感じるところもあるよ。でも、そういうチャレンジは僕にとって自己証明の機会だ。何を誰に証明したいのか、というと、僕はもっとこう、なんだろ……とにかく、できるだけ多種多様な人に、僕の民族性ではなくアートそのものを語ってもらいたいんだよね。わかる?
―ええ。
ブライアン:そこを証明してみせたいって気持ちに、ますますなるだけだよ。
ケンドリック・ラマーも支えた名プロデューサー、Bēkonとの共同制作
―『The Sailor』にはケンドリック・ラマー『DAMN.』にも貢献していた、プロデューサーのBēkonが参加しています。彼とはどのように出会ったのでしょう?
ブライアン:さっき話した「Yellow」のトラック、あれで初めて彼を知ったんだ。それで連絡を取って、いろいろと話をして、本人だけではなく彼のクルーもまとめてエグゼクティブ・プロデューサーに迎えようということになった。彼も同意してくれたからニューヨークで落ち合って、アルバム用にその時点で書いてあった曲をひと通り聴いてもらって、僕が録音した「Yellow」も気に入ってもらえて……というのが始まりだった。
―Bēkonとの制作はどのあたりが特別でしたか?
ブライアン:彼らは総勢6人のプロデューサーグループで、その機能の仕方が見ていて本当にクールだった。全員が楽器を弾けるから、「俺はギター」「じゃあ俺はキーボードを弾くよ」「なら俺はドラムマシーンを」って感じ。それを全部コンピュータで繋いで、その真ん中にアーティスト用のマイクを立てる。要するに僕のマイクだね。あとは基本、ライブ演奏をそのまんま録音する感じ。いわゆるジャムセッションなんだ。あのときは3時間ぐらいみんなでジャムって、そこから20も30も断片的なアイディアが生まれた。そこから一段落したあと、夜にみんなで全部聴き直しながら、「OK、このアイデアはいいね。使える曲ある? どの曲のどの部分に?」と検討していくんだ。そして曲に反映させていくと。
『The Sailor』はシングル「Yellow」「Kids」「100 Degrees」に加えて、ウータン・クランのRZAが参加した「Rapapapa」、ジョージを迎えた「Where Does the Time Go」などゲスト参加曲も充実。
―さぞかし充実したレコーディングだったんでしょうね。
ブライアン:ああ、一緒に作業していて本当に楽しい人たちだった。文字どおり、今の音楽シーンで最高峰の才能に囲まれてやれたんだから。さっきも話したようにセルフプロデュースも楽しいし、やりたいようにやれる利点があるんだけど、ああいう人たちと組むとやっぱりね……。僕自身もビートが作れないスランプを3~4カ月も味わったことがあるだけに、彼らの存在は実に心強かったよ。安心感もあったし、僕じゃ思いつかないようなアイディアをどんどん考えてくれるから、身を委ねてライティングの方に専念できたのはとてもありがたかった。
―ニューアルバムの音楽的なポイントもそこにありそう?
ブライアン:その通り。最初は自分で全部プロデュースするつもりで、先に5曲か6曲を作って「超ドープじゃん!」と悦に入っていた。あのままだったら間違いなく、アルバムは違う方向へと進んでいただろう。その後、Bēkonと話してエグゼクティブプロデューサーをやってもらうことになって、最初から確信があったとは言わないし、実は遠慮気味な……無難な方向性に落ち着きそうな感じもあったんだけど、割とすぐにコラボレーション的な色合いが濃くなっていってね。たくさんの才能が一堂に会し、様々なアイデアをぶつけ合った結果がいい形で出たんじゃないかな。ホント、気に入ってるよ。聴いていてもわかるんじゃない?
―たしかに。
ブライアン:彼らは自分たちがいいと思ったことをやる、人がどう言おうが気にしないっていう姿勢を貫いていた。それが僕にはすごく励みになったんだ。このアルバムには彼らの持ち味が十分に発揮されていると思う。僕自身、今回のアルバムを通じて一番伝えたいのは、トレンドなんか一切無視で、自分が聴きたい音を作ったということ。だから今回、今までよりも歌ってるしね。より自分らしく、より幅広く、より人と違うことをやりたいと思って。だからって、違けりゃいいってわけじゃない。自分が聴きたいと思うものを作った。それが本音だよ。
リッチ・ブライアン
『The Sailor』
発売中
ダウンロード/ストリーミング:
https://Japan.lnk.to/vRviJPu
―今日はどちらに?
ブライアン:LAにいるよ。
―そうですか、さっそく始めますね。まずは今年1月、日本で開催された88risingのショーケース・イベントについて。あなたがトリを務めていましたよね。
ブライアン:すっごく楽しかった。僕はそもそも日本って場所が大好きで、その前にも2回行ったことがあったんだけど、今回は仲間と一緒に東京、大阪とライブ・パフォーマンスで回ることができて最高に楽しかった。お客さんも超エネルギッシュだったし。
―日本人だけでなく、アジアからのお客さんを多く見かけたのも印象的でした。その感じって伝わりました?
ブライアン:うーん、正直よくわからなかった。それより、アジア以外の国から来たんだろうなってオーディエンスが意外と多かった気がする。その感じは他の国でやるライブでも一緒で、だから違和感もなかったし、いつもの感じで楽しめたよ。日本も同じなんだなって。
―その前に日本に来たのは何のため?
ブライアン:MVの撮影だね。「Who That Be」(2016年のシングル)を日本で撮ったんだ。
―あのビデオに映ってる感じが、あなたのイメージする日本?
ブライアン:好きなんだよね、ああいう風景とか、雰囲気とか。そこは姉貴(※)の影響もあると思う。彼女は日本が大好きすぎて、年に3~4回くらいのペースか、それ以上に行ってるかもしれない。僕も以前、姉貴と一緒に行ったことがあって、そのとき印象に残ったものを映像に取り込んだ感じかな。
※ソニア・エリカ:インドネシアにおけるファッション・ブロガーの先駆けで、フォトグラファーやボーカリストなど多方面で活躍中。Instagramのフォロワーは19.6万人。
インドネシアで「ヒップホップの一員」になるまで
―ここで少し遡って、あなたの音楽体験について教えてください。資料によると2012年頃からヒップホップを聴くようになったそうですが……。
ブライアン:いや、2012年っていうのはたぶん、僕がTwitterを活用するようになった時期だね。その頃にTwitterで話題になっていたのがマックルモアで、「誰それ?」って興味を持って「Thrift Shop」という曲をチェックしてみたんだけど、正直に言うと最初はピンとこなかった。
「なんでみんなコレで騒いでるんだ?」みたいな。でも、Twitterを始めていろんな情報が入ってくることにエキサイトしていた僕は、自分もそういう盛り上がりの一部になりたいって気持ちが強かったんだと思う。彼の音源やビデオを検索してはチェックして、何度か聴いているうちに好きになることができた。その過程でドレイクや2チェインズ、リル・ウェイン、ケンドリック・ラマー……いろんなアーティストを知ることになった。わかってくると「これ、めっちゃクールじゃん!」となってさ。その後は基本、ヒップホップのビデオを見まくって終わる日々だった。
―それってインドネシアでの話ですよね?
ブライアン:そうだね、アメリカに初めて来たのは2年前だもん。当時はまだどっぷりインドネシアだよ。
―インドネシアでもそういったアメリカのヒップホップは人気があった、ということ?
ブライアン:全然。インドネシアでは人気なかったよ。今でこそ人気が出てきているけど当時はサッパリで、だからこそ僕はヒップホップと出会ったんだと思う。他の人が聴いてるものとは違う、知らないジャンルの音楽を見つけたいと思うタイプの子どもだったから。
あの頃、ああいうヒップホップを聴いてた子供なんて、インドネシア中を探しても僕だけだったんじゃないかな(笑)。当時はなんといってもEDMが人気で、今もたぶんインドネシアで一番有名な音楽ジャンルはEDMだと思う。あとはポップ。
―好きな音楽をシェアする友達もいなかった?
ブライアン:うん。
―それでネットの世界へ。
ブライアン:そういうこと。
―そこから自分でラップをやるようになった経緯は?
ブライアン:ラップを始めたのは、そうだなあ……。ヒップホップを聴き始めてから2~3年してからかな。あの頃はもう、本当にヒップホップしか聴いていなかったから、他にやりたいこともなかったっていうか(苦笑)。まあ、それを言ったら今だってヒップホップばっかり聴いてるんだけど、最近は意識していろんな音楽を聴くようにしているんだ。ヒップホップがNo.1なのは変わらないけどね。最初はどうだったかな……もちろん聴きながら真似して、ってところから入ったんだけど、その後は……うん、たぶん家でYouTube巡りをしながら見つけたビートやインストのトラックに自分でライムを乗せてみたのがきっかけだと思う。
そして思い知ったんだ、それがどんなに難しいことか(笑)。
―そうですよね。
ブライアン:「単語ひとつでも韻を踏むのが大変なのに、これを1曲通してやるの!?」みたいな(笑)。だけど僕って、結構チャレンジするタイプなんだよ。「やってやろうじゃないか!」ぐらいの感じで。何とか書き上げたものを拾ってきた音源に乗せて見たらなかなかの出来だったんで、当時ハマっていたTwitterにポストしてみたら、フォロワーの間で割と評判が良くて。作ったものを誰かが気に入ってくれるのは、すごくやり甲斐を感じたし嬉しくってね。コイツはクールだ!ってことでどんどんやるようになった。
2016年のデビューシングル「Dat $tick」がストリーミング数3億回を突破する特大ヒットとなり、リッチ・ブライアンは一躍シーンの最前線に躍り出た。
―誰か有名なアーティストの目に留まったりは?
ブライアン:なかった。全然だよ。もちろん、それを狙ってたというのはあるんだけど(笑)。
僕は映像も作っていたから、そっちからでも誰かラッパーが気に入って連絡くれたりしないかな、と思ってたけど最初は全然だった。でも、少しずつフォローしてくれるラッパーが増えていって、最初にコンタクトしてきてくれたのはファット・ニックだった。その時はワオ!って感じだったよ。「俺、ヒップホップの一員になったかも」みたいな。
アメリカのヒップホップが人生の学校
―先ほどからアメリカンでヒップホップな感じの英語を流暢に話していますが、インドネシアでも普段から英語を話していたんですか?
ブライアン:実はノーで、学校に科目はあるけど家で話すことはない。少なくとも僕の家では誰も英語は話さないし、会話はインドネシア語だ。僕もインドネシアの友達と話す時は英語じゃないしね。僕にとって英語のレッスンはミュージックビデオを観まくること。毎日、毎日、そればっかり観てたから……。好きなものが英語の音楽だったから、それが僕には当たり前だったんだ。そしてある時、気がついたらビデオを観ながら英語で一緒にラップしてて、さらに気がついたら頭の中で考えている言語も英語になっていた。本当に不思議だけど、自分の内なる声が英語になってた感じ?
―それはすごい。
ブライアン:面白いよね。あとはTwitterで知り合ったアメリカ人の友達とのやり取りで英語を使ったり。でも、やっぱり誰かのラップを聴いて真似して、っていうのが一番練習になったと思う。ノリとか、そういうのもわかるから。最初はメッチャ難しかったよ。ライムを覚えるのも一苦労なのに、それを口に出してラップするのはもっと難しくて。今でも覚えてるけど、最初にラップで格闘したのはマックルモアの「Thrift Shop」だったから、あのライムはまだ頭に入ってるよ。
2018年にリリースした自身初のフル・アルバム『Amen』は全米18位のヒットに。ジョージ『Ballads 1』とともに、2018年の88rising快進撃を印象付ける作品となった。
―自分で書いたオリジナルのライムは最初から英語?
ブライアン:英語だよ。アメリカのヒップホップにどっぷり浸って育ってきたから、当然のように英語になった。
―ヒップホップが語学学校であり、音楽学校であり、職業訓練校でもあった。
ブライアン:間違いないね。
この投稿をInstagramで見るRich Brianさん(@brianimanuel)がシェアした投稿 - 2019年 7月月7日午前1時30分PDT
2019年7月7日、リッチ・ブライアンはラッパーとして初めてインドネシアのイスタナ(大統領宮殿)を訪問し、ジョコウィ大統領と会談した。
―でもヒップホップには、ラップ以外にもいろんな側面がありますよね。ビートメーカー、プロデューサー、DJ、ダンス……そういったエリアに興味はなかった?
ブライアン:うーん、どうかな。ビートメイクはもちろん興味があるけど。今は実際、自分で自分の曲をかなりプロデュースしてるし。プロデュースを始めたのは2年前かな。ラップを始めて少ししてからプロデュースもするようになった。何度かプロデューサーと組んでみてコツがわかったのと、やっぱり人に説明して理解してもらうのって難しいんだよね。こっちのヴィジョンがイマイチ伝わらないことがあって、だったら自分で勉強してやってみようと。いざやってみると、アレンジやミックスの諸々についてわかってきて、すごく役に立った。プロデュースを勉強したことでソングライターとしてもすごく成長したと思う。
最新作『The Sailor』とアジア人としてのアイデンティティ
―ニューアルバム『The Sailor』 のタイトルは探求することの象徴で、作品自体も「新たな領域に乗り出していく」ことについて、「移民たち」の視点からストーリーを描いているそうですね。リリックにまつわるヴィジョンもそこにある、という解釈で間違いないでしょうか。
ブライアン:そうだね。ヴィジョンというか、それは「プラットフォーム」かな。いろいろやってきたなかで気づいたんだ、これは僕独自の基盤だなって。言い換えれば、僕に開かれたチャンスでもある。ユニークな個性という意味でも、今まであんまり積極的に触れてこなかった題材という意味でも。それに、タイミング的にも相応しい気がした。
―というと?
ブライアン:今でも僕が音楽を作り続けている一番の原動力になっているのが、聴く人に閃きを与えたいということ。「よう、俺も前から音楽やってたんだけど、お前の曲を聴いたら久し振りに弾きたくなってギターを引っ張り出したよ」みたいな感想を言ってもらえるのが何より嬉しいんだ。自分もそうやって刺激を受けてここまできたから、今度は刺激を与える側にいるんだと思えるのがね。音楽をやっててよかったと思うし、続けていく励みにもなる。

―「今まであまり触れてこなかった」というのは、どういうことを指すのでしょう。例えば、1stシングルの「Yellow」でラップしているようなこと?
ブライアン:そうだね。あの曲を書いたのは、アルバムに向けて動き出した当初。だから、古い方に入るんだけど、あれを書いたことでアルバム全体のインスピレーションが広がったと言ってもいい。あの曲を書いた時、僕はちょっとおかしな状況にあって……人生のそういう時期だった、というか。とにかく4カ月ぐらいスランプに陥って何も書けなくなってね。壁にぶつかって、どっちにも進めない感じだった。もう終わりかな、って思ったくらい。
―出だしから「誰にも知られないまま、自分を消し去るにはどうすればいい?」と歌ってますもんね。
ブライアン:でも、あの曲のインストを聴いたらビリビリッと刺激が走って一気に視界が開けたんだ。自分のなかで、「Yellow」は映画的な曲だと思ってる。3章構成からなる映画。第1章が「葛藤」で、第2章で「変化」が訪れて、最終章ではそこから脱し、感動的な美しいアウトロに繋がるという。
―第2章のブリッジで、”自分がイエローだからといって、気持ちに抗わなくていいんだ”とラップしているのも印象的です。
ブライアン:この曲のリリックを書いている時は、実はアイデンティティについて何も意識していなかったんだ。その時の自分の気持ちを言葉に表現したい、ただそれだけだった。なんでこんなに面倒臭いんだ、なんでこんなに辛いんだ、みたいなリリック……最初のヴァースはまさに当時の気持ちを表していて、それをできるだけ無防備にさらけ出そうとしていた。それが2ndヴァースではスケールの大きな、希望を感じさせるヴァイブスに変わっていくんだけど、その辺りからかな。これは思っていたよりビッグな曲に展開していきそうだ、と感じ始めたのは。そして歌詞の面でも、今まで言えなかったようなことを言うチャンスかもしれない、この曲だったらたくさんの人に伝わるかも。共鳴する可能性があるかもと思えてきたんだ。
―音楽活動をするうえで、アジア人であることをどこまで意識していますか? アメリカでヒップホップをするということは、アジア人であることを再認識する経験なのでは、と想像しますが。
ブライアン:ヒップホップシーン全体のなかで、自分がマイノリティなのは間違いないし、たしかに厳しいと感じるところもあるよ。でも、そういうチャレンジは僕にとって自己証明の機会だ。何を誰に証明したいのか、というと、僕はもっとこう、なんだろ……とにかく、できるだけ多種多様な人に、僕の民族性ではなくアートそのものを語ってもらいたいんだよね。わかる?
―ええ。
ブライアン:そこを証明してみせたいって気持ちに、ますますなるだけだよ。
ケンドリック・ラマーも支えた名プロデューサー、Bēkonとの共同制作
―『The Sailor』にはケンドリック・ラマー『DAMN.』にも貢献していた、プロデューサーのBēkonが参加しています。彼とはどのように出会ったのでしょう?
ブライアン:さっき話した「Yellow」のトラック、あれで初めて彼を知ったんだ。それで連絡を取って、いろいろと話をして、本人だけではなく彼のクルーもまとめてエグゼクティブ・プロデューサーに迎えようということになった。彼も同意してくれたからニューヨークで落ち合って、アルバム用にその時点で書いてあった曲をひと通り聴いてもらって、僕が録音した「Yellow」も気に入ってもらえて……というのが始まりだった。
―Bēkonとの制作はどのあたりが特別でしたか?
ブライアン:彼らは総勢6人のプロデューサーグループで、その機能の仕方が見ていて本当にクールだった。全員が楽器を弾けるから、「俺はギター」「じゃあ俺はキーボードを弾くよ」「なら俺はドラムマシーンを」って感じ。それを全部コンピュータで繋いで、その真ん中にアーティスト用のマイクを立てる。要するに僕のマイクだね。あとは基本、ライブ演奏をそのまんま録音する感じ。いわゆるジャムセッションなんだ。あのときは3時間ぐらいみんなでジャムって、そこから20も30も断片的なアイディアが生まれた。そこから一段落したあと、夜にみんなで全部聴き直しながら、「OK、このアイデアはいいね。使える曲ある? どの曲のどの部分に?」と検討していくんだ。そして曲に反映させていくと。
『The Sailor』はシングル「Yellow」「Kids」「100 Degrees」に加えて、ウータン・クランのRZAが参加した「Rapapapa」、ジョージを迎えた「Where Does the Time Go」などゲスト参加曲も充実。
―さぞかし充実したレコーディングだったんでしょうね。
ブライアン:ああ、一緒に作業していて本当に楽しい人たちだった。文字どおり、今の音楽シーンで最高峰の才能に囲まれてやれたんだから。さっきも話したようにセルフプロデュースも楽しいし、やりたいようにやれる利点があるんだけど、ああいう人たちと組むとやっぱりね……。僕自身もビートが作れないスランプを3~4カ月も味わったことがあるだけに、彼らの存在は実に心強かったよ。安心感もあったし、僕じゃ思いつかないようなアイディアをどんどん考えてくれるから、身を委ねてライティングの方に専念できたのはとてもありがたかった。
―ニューアルバムの音楽的なポイントもそこにありそう?
ブライアン:その通り。最初は自分で全部プロデュースするつもりで、先に5曲か6曲を作って「超ドープじゃん!」と悦に入っていた。あのままだったら間違いなく、アルバムは違う方向へと進んでいただろう。その後、Bēkonと話してエグゼクティブプロデューサーをやってもらうことになって、最初から確信があったとは言わないし、実は遠慮気味な……無難な方向性に落ち着きそうな感じもあったんだけど、割とすぐにコラボレーション的な色合いが濃くなっていってね。たくさんの才能が一堂に会し、様々なアイデアをぶつけ合った結果がいい形で出たんじゃないかな。ホント、気に入ってるよ。聴いていてもわかるんじゃない?
―たしかに。
ブライアン:彼らは自分たちがいいと思ったことをやる、人がどう言おうが気にしないっていう姿勢を貫いていた。それが僕にはすごく励みになったんだ。このアルバムには彼らの持ち味が十分に発揮されていると思う。僕自身、今回のアルバムを通じて一番伝えたいのは、トレンドなんか一切無視で、自分が聴きたい音を作ったということ。だから今回、今までよりも歌ってるしね。より自分らしく、より幅広く、より人と違うことをやりたいと思って。だからって、違けりゃいいってわけじゃない。自分が聴きたいと思うものを作った。それが本音だよ。

リッチ・ブライアン
『The Sailor』
発売中
ダウンロード/ストリーミング:
https://Japan.lnk.to/vRviJPu
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