フェスが開催されるごとに日本人リスナーのポップミュージックに対する感度の低さや「耳のガラパゴス化」を指摘する声を目にするが、この日はズバリと完売。
「嬉しいです。僕もブリング・ミー・ザ・ホライズンが本当に好きなんですよ」という率直な言葉で、このステージに立つ喜びを表したHYDE。「AFTER LIGHT」のようにシンセの鋭利な響きとヘヴィボトムなバンドサウンドで攻め立てる楽曲を連打していくライブは、2018年からの「ソロ活動第二期」を象徴するハードさをさらに凝縮したかのようだ。ひたすら暴れ狂うライブパフォーマンスと、その中でも伸びやかに放たれる歌。純粋に、その攻撃性と気合いに持っていかれるアクトである。

HYDE(Photo by 田中和子)
一見ブリング・ミー・ザ・ホライズンとは交わらない印象を持たれているとHYDE自身も理解しているのか、「コイツつまんねえと思ったら無視してくれていい。でも、コイツいいかもと思ったら、(レスポンスを)返してもらっていいですか?」というMCもあった。しかし2000年代初頭に若者の絶望や無力感の表れとしてemo、スクリーモがゴス化を遂げ、それがメタルコアなどの音楽と合流してキッズの巨大なカルチャーになっていったこと、そのニュースクールハードコア~メタルコアをベースにしてブリング・ミー・ザ・ホライズンのエクストリームな音楽性が形成されていったことなどを考えれば、HYDEが表し続けてきた耽美かつダークな世界観、そのダークネスをエスカレートさせた現在のヘヴィな音楽性とクロスする部分も見つかる。ただ、そんな解釈も吹っ飛ばしていくほど、何よりもこの日を真っ向から食い尽くさんとする気迫が輝くライブだった。
そして、ブリング・ミー・ザ・ホライズンである。
最新作『amo』から放たれたこの日のオープニングナンバーは「MANTRA」だった。ここ最近は世界各地のライブ/フェスでも同曲がブリング・ミー・ザ・ホライズン登場の号砲となってきたが、<Do you wanna start a cult with me?>と切り出される通り、ある種の崇拝や祈祷にも近い空間を一瞬にして作り出してしまうのがブリング・ミー・ザ・ホライズンだ。その要因はもちろんオリヴァーのカリスマ性に満ちたパフォーマンスと佇まいにもあるだろうが、暇なく繰り返されてきた彼らの音楽的な変化と、そのたびに飛躍的に増してきた音のスケール感にこそ宿っている――そう実感せざるを得ない、ヘヴィかつ鋭利であると同時に包み込まれるような感覚を覚える音の壁が、全方位に一気に立ち上がっていく。

Photo by Kazushi Toyota
たとえば最新作『amo』の素晴らしさの多くを担っていたのは、かつてなく大きく変化したサウンドデザインだ。たとえば「MANTRA」。一見王道感のあるメタリックなオルタナティヴロックかと思いきや、中域の尖った歪みを抑え、囁きに近いところまでキーを低くしたヴァースを際立たせて歌への没入感を高めている点がこれまでの彼らとは大きく異なる。あくまでギターが唸りを上げる「ロックバンドのサウンド」でありながら、その音自体の手触りや配置までがより一層キメ細やかなものになり、この日のライブでもその音作りが非常に高い精度で再現されていた。スピーカー前でも音が痛くない……というか、うるささを感じさせない。ヘヴィでありながら、その手触りはまろやか。そんなサウンドが終始響き渡って、驚くほど硬軟自在になったオリヴァーの歌唱も輪郭をくっきりと保って、こちらへ飛んでくる。
ステージ上で体現されたサウンドデザイン
『amo』のリリースに際してのオフィシャルインタビューで、オリヴァーは下記のように語っている。
「ロックには変化が少ない。
上述したサウンドデザインはまさにヒップホップ/トラップが隆盛して以降のものだし、エレクトロニックな要素やデジタライズされたビートを主役にした楽曲が同作で増加したことも、ロックバンドが果たすべきは定型を作ることではなくむしろ定型を突き破っていくことだと理解しているからこそだろう。そのサウンドの更新がまたしなやかな歌の変化を呼び、それぞれが音と音の目を合わせることで有機的な進化を果たしているという意味での生身感とバンド感も、強烈に感じられるライブになっていた。実際、ダンサブルなリズムとビートに重心を置いた「nihilist blues」のような楽曲でも、BPM以上の音の伝播スピードと、エレクトロニックな質感の中にも、音を放つ側のエモーションがずしりと乗っていることを実感する。あくまでロックバンドのまま、新しいリズムとビートとサウンドを食っていけるか。そのトライに対して、誰よりも彼ら自身が手応えを感じられているような、そんな確信めいたものと強烈な気合いが聴く側にも伝わってくるアクトだ。

Photo by Kazushi Toyota
もちろん「House of Wolves」、「Antivist」のようにモッシュパートを軸にしたメタルコア・ナンバーも披露されたが、爆音を叩きつけるというよりも、むしろ音のレンジの広さで人々を巻き込んでいく音の渦がそこにはあった。もしかしたら5年ぶりの単独公演に対する待望感も手伝ったのかもしれないが、なにしろオーディエンスが自分の祈りを天高く昇らせるように歌う、歌う。よくあるコール・アンド・レスポンスのような定型文ではなく、ただただ音に体ごと巻き込まれて声を発してしまうような。
変化も痛みも恐れない姿勢
そして重要なのは、その歌に叩き込まれているのは、あくまでオリヴァーが自分自身の内省と得体の知れない心の闇であるという点だ。どれだけサウンドが更新されようとも、自分自身を救い上げるようにして叫ばれる歌である点は一切変わらない。たとえばオリヴァーがラップミュージックを例に挙げてロックバンドの定型化と比較したのも、サウンド面に限らず、ロックがいつしか「みんな」や「世界」という見えるようで見えない対象に向けられるものになったことへの指摘だとも言えるだろう。ラップが自分自身の心を曝け出す手段として選ばれ、それが多くの人の心を震わせている今。その状況は、「俺はここだ」という個の叫びこそが人の心を震わせ、同じ心の形をした人を救うのだという真理を端的に表している。
実際、「Drown」のように絶望と孤独に溺れていく自分を救うために綴られた祈りの歌には、その爆音を飛び越えるようなシンガロングが巻き起こった。オリヴァーは今も変わらず自分ひとりの孤独や心の軋みを歌に込め続けているし、だからこそ、それを表すために最も最適であるラップミュージックの方法論を食っていったという言い方もできるかもしれない。その心の裏側と彼の孤独が切実な歌になった「Can You Feel My Heart」のラストセクションがラップ然としたフロウになっていたのも、興味深い変化だ。その地声の美しさが生きる「mother tongue」や「medicine」にも顕著だが、ブリング・ミー・ザ・ホライズンの音楽とオリヴァーの歌に込められた「自分を救うための祈り」がより一層伸びやかな音に託されるようになったことも、現在のブリング・ミー・ザ・ホライズンのスケール感に直結している。
アンコールの最後を締めくくったのは、「Throne」だった。