「ポールが死んだ」騒動が勃発したのは1969年10月12日。この日、ラジオ局WKNRでラス・ギブがホストを務める番組が放送されていた。すると、正体不明のリスナーから電話があり、ビートルズのホワイト・アルバムの「レボリューション9」のイントロの「number nine、number nine」を逆回転で放送してくれと頼んできた。放送中にギブが逆回転でかけてみると、「Turn me on, dead man」(訳注:「俺をその気にさせてくれ、死人よ」の意)と聞こえたというのだ。それ以外のヒントも次々に出てきた。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の最後でジョンが「I buried Paul」(訳註:「俺はポールを埋めた」の意)と言っている等など。これが意味したものとは?
答えは、ビートルズが秘密を隠し持っていた、だった。つまり、ポール・マッカートニーは1966年の交通事故で死亡していて、バンドは替え玉でその穴を埋めたというのだ。ビートルズ・ファンが必死にアルバムの中のヒントを探すようになると、この噂は山火事のごとく急速に広まった。それから50年後の今、この「ポールは死んだ」説は音楽業界で最も奇妙で最も有名な陰謀説として残っている。ビートルズ伝説の一つの物語となったこの説は、躍起になったファンが生んだ現象であり、ビートルズのメンバーたちは感心したり、憤慨したりしながら、様子を見ている他なかった。1974年にポールがローリングストーン誌に「オフィスの誰かが電話してきて、『なあ、ポール、お前、死んでるってよ』と言ったんだ。
当然のことだが、この噂は真実ではない。ポールは現在も元気に生きているし、ソングライターとしても、パフォーマーとしても、相変わらず絶好調だ。去年は新作アルバム『エジプト・ステーション』が初登場1位だった。しかし50年前、このデトロイトのラジオ番組のあと、人々はこの話に飛びついた。それから2日後、ミシガン・デイリー紙がアルバム『アビイ・ロード』のジャケット写真が葬列だと説明した。つまり、先頭が牧師(白い服のジョン)、次が葬儀人(黒い服のリンゴ)、次が死体(気の毒なポール)、そして最後にいるのがブルーのデニムを着ているジョージで、彼は墓掘り人。こんな嘘の陰謀説でも汚れ仕事を任されるのはジョージだ。
この話の顛末はこうだ。ニコラス・シャフナーの『ザ・ビートルズ フォーエヴァー』によると、ポールは1966年11月9日に死んだ。その前夜遅くに――いわゆる「バカげた最悪の火曜日」――、ロンドンのアビー・ロードを車で走っていたポールを驚かせることが起きた。そして、彼が公式に死の宣告を受けた(「O.P.D.=Officially Pronounce Dead」)のは翌日の水曜日、早朝5時。
このあと、ファンは発売直後の新作『アビイ・ロード』に隠されたヒントについて密かに噂するようになる。同アルバムのジャケットを見ると、ポールは裸足で、他のメンバーと左右の足が逆で、右手にタバコを持っている(本物のポールは左利き)。後ろのフォルクスワーゲンには「28 IF」のナンバープレートが付いていて、この数字はポールが存命ならこの時点で28歳だったことを表している(噂で死んだ彼の享年は27歳)。こういった説はどれもがバカげていて真剣に捉えられるものではない。しかし、ファンは「walrus」(訳註:「セイウチ」の意)がギリシャ語で「死体」を表す(実はギリシャ語ではなくスカンジナビア語で死体の意味だ)と、そして「goo goo goo joob」はジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』でハンプティ・ダンプティが壁から落ちて死ぬ前に言った言葉だ(悪いがそれは嘘だ)と熱狂的に信じた。楽曲「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の最後は、BBCでライブ放送されたシェイクスピア劇『リア王』のオズワルドのうめき声「O, untimely death!」(訳註:「ああ、こんなに早く死のうとは!」の意)で終わる(これは本当だ。ある晩、ジョンがラジオの音声を録音していて、この曲の合うと気に入ったセリフなのだ)。そして、「グラス・オニオン」では、ジョンが「Heres another clue for you all / The Walrus was Paul」(訳註:「もう一つヒントをやろう/あのウォルラスはポールだった」の意)と歌っている。
この噂が広まったとき、ポールは死人にもセイウチにもなっていなかった。スコットランドの農場でリンダ、ヘザー、生後6週間の娘メアリーと隠遁生活を送っていたのである。リンダが撮影した最も有名な写真で、ポールのレザージャケットから顔を出している子供がこのメアリーだ。世話が必要な新生児(ポールの第一子)がいたため、彼はマスコミの狂ったような取材合戦と向き合う気はさらさらなかった。実際に彼はローリングストーン誌にこう語っている。「スタッフが『なあ、どうするつもりなんだ? アメリでは大騒ぎになっているぞ。お前は死んでいるって』と言った。だから俺は言ってやったよ。『そのままにしておけ。言わせておけばいい。俺たちにとっちゃ過去最高の宣伝だよ。今、俺がすることは生き続けることだけさ』って。
ジョン・レノンは10月26日に噂を広めるきっかけとなったデトロイトのラジオ局に電話して、「俺が聞いた中で一番くだらない噂だよ。俺のキリスト発言を広めた連中がやっている感じがする」と発言した。さらに暗号化されたメッセージの存在も否定し(「ビートルズのレコードを逆回転したらどんな音になるかなんて知らない。だって逆回転で聞いたことなんてないから」)、自分の「葬式の牧師」説も一蹴した。「みんな、俺が白の宗教的なスーツを着ているって言うけど、ハンフリー・ボガードだって同じような服を着るだろう? 俺はハンフリー・ボガード風の上品なスーツを着ていただけさ」と言ったジョンの立腹は当然だろう。この頃、彼はソロ・シングル「冷たい七面鳥」(このレコードでやっと「レノン=マッカートニー」の共同クレジットが外れた)と、オノ・ヨーコと共同名義の『ウェディング・アルバム』をリリースしていた。ポールの裸足の件など、ジョンにとっては話すらしたくないことだった。
弁護士のF・リー・ベイリーがテレビの検証番組の司会を務め、アレン・クラインやピーター・アッシャーなどの証言者に尋問を行った。ビートルズ学者のアンドリュー・J・リーヴはこの現象の経緯を記した秀作『Turn Me On, Dead Man(原題)』の中で、このテレビ裁判の記録を書き起こしている。「俺がポールを埋めた」とジョンが言った理由をたずねられたクラインは、「あのテイクではジョンのギターの音がポールの音を埋めたからだ」と主張した(アレン・クラインが正直に答えていないと人々は受け止めるのだ)。レコード店の棚はホセ・フェリシアーノが(Werbley Finster名義で)リリースした「So Long Paul(原題)」や、ビリー・シアーズ&ジ・オール=アメリカンズの「Brother Paul(原題)」といった、急ごしらえの売名レコードで溢れかえった。
ビートルズにはなぜか死にまつわる噂話が多く、これは初期の頃も例外ではない。マーク・ルイースン著『Tune In: The Beatles: All These Years(原題)』に記されている通り、オリジナルのベーシスト、スチュアート・サトクリフが1961年にバンドを抜けたとき、「マージー・ビートの紙面に、ビートルズのこのメンバーが交通事故で死亡したというのは本当かという、ファンからの手紙が掲載された」。しかし、これはポール死亡説とは違う話だった。小説家リチャード・プライスが1984年にローリングストーン誌に寄稿した愉快な回想録で、1969年にカレッジラジオの番組で聞いたファンの突拍子もない持論について書いている(「ヒア・カムズ・ザ・サン」を78回転で逆回しすると「Woe is Paul」<訳註:「ポールは悲しみ」の意>と聞こえるなど)。プライスは面白半分でその番組に電話して、DJに「イギリスの棺桶の84%が何でできているか知っているかい?(中略)もしかしたら87%ぐらいかもしれないが(中略)ノルウェーの森の木だぞ」と教えたと言う。
最初、心配事の絶えないビートルズの広報担当者デレク・テイラーは作り話が出てくるたびに無視していた。「まったく、連中はいつだって噂を立てたがる。前にもあった。数日もすれば問い合わせの電話はなくなるよ」と。しかし、このときは違っていた。
ライフ誌はマッカートニーの農場に数人の記者を送って監視しようとした。ポールは記者たちにバケツ一杯の水を浴びせたあと、インタビューと写真撮影に同意したのだが、これはこのゴタゴタにとにかく終止符を打つためだった。この記事が掲載されたのが同誌11月9日号で、「ポール・マッカートニーはまだこの世にいるのか?」というタイトルの巻頭特集だ。この記事でポールは事もなげに「ビートルズはもう終わったよ」と付け加えている。これには誰も気づいていなかった。ファンのヒステリー状態を覆す方法がこれだということに、誰も気づかなったのだ。そして、ポールがこんなふうに爆弾を投下しても、人々はそれがフェイクだと証明することに躍起になって、その爆弾の本当の威力に気づかなかった。2009年のMojo誌の取材で、ポールは「最悪だったのがみんなが俺の顔をまじまじと見るようになったことだと思う。『ポールの耳って前もこんなふうだっけ?』みたいにね」と語っている。
1970年になると、ポールが死んだなどと信じる人は一人もいなくなっていた。しかし、嘘だと証明されて長年経過しても、この死亡説は大人気の逸話として残っていた。そして、この説を裏付けるヒントを探すことが、ファンの間で時空を超えた儀式となった。膨大な数のポール・ファンは長年に渡って『アビイ・ロード』の裏ジャケットを詳細にチェックしてきた。そして、そこに人間の頭蓋骨が反射して見えると言われ始めた(確かにある、「S」の右側だ)。もしくは、ホワイト・アルバムのB面で、「アイム・ソー・タイアード」のすぐ後に針を下ろして逆回転すると「Paul is dead, man, miss him, miss him」(訳註:「ポールは死人、彼が恋しい、彼が恋しい」の意)という言葉が聞こえる。ポールの初ソロ・アルバム『ポール・マッカートニー』のジャケットは、ことわざの「人生はチェリーをお椀いっぱいに盛ったほど楽しいもの」を暗示するお椀とチェリーの写真だ。しかし、写真のお椀は空っぽで、これが意味するのは「死者のポールが世界で初めてソロ活動を始めた」しかないと噂された。
周知の通り、ジョンの「ポールを埋めた」は「クランベリー・ソース」だし、「O.D.P.」と見えるパッチの文字は「O.P.P.」で、オンタリオ地方警察(Ontario Provincial Police)から贈られたものだ。そんな真実が明らかになっていても、ファンは相変わらずヒント探しを楽しむ。シャフナーが言うように、これは「マスコミ時代に生まれた本物の民話」なのだ。この民話が生まれるきっかけとなったラス・ギブは2019年4月に他界したが、この民話は永遠に残るだろう(この件についてポールはコメントしなかった)。そして、この民話は解散後のビートルズの継続的な人気を支えてもいる。事実、1966年11月9日はビートルズにとって重要な日なのだ。まさしくその日にジョンとヨーコが知り合ったのである。
ラッキーなことに、自分の死亡説が生まれて50年目の記念日もポールはまだ生きている。ただ、彼もこの説にはずっと困惑しているようで、『ポール・イズ・ライブ』というライブ・アルバムすらリリースしたことがあった。この死亡説はロックスターの噂話の域を超えており、普通のファンを探偵に変え、人々の音楽消費の仕方を完全に変えた。「ポールは死んだ」のおかげで、「2パックは生きている」や「スティーヴィー・ワンダーは目が見える」や「アヴリル・ラヴィーンは12人いる」といった噂が生まれる土壌ができたのである。ミュージック・ビデオのヤシの木の数を数えたほうがいいとテイラー・スイフトが言うたびに、彼女はビートルズの「28 IF」伝説を利用している(彼女はジョン・メイヤーを埋めた)。しかし偶然とは言え、この現象が示すのは、熱狂的なファンの愛情がどれだけクレイジーになるかだ。そして、彼らの愛があるからこそ、「ポールは死んだ」説が今でも生き続けている。これはまさしく音楽の中で生き永らえる全生命への贈り物だ。ビートルズよ、永遠なれ。ポール万歳!