あれほど盛り上がった日本語ラップ・シーンがひと段落した2000年代後半、いきなり頭角を現してきたのがANARCHYだった。

京都向島の団地のゲットー出身の不良で、最高のリリシスト。
そんなANARCHYの才能を見出したのがRYUZOだった。それまでANARCHYみたいなラッパーもいなかったし、RYUZOのようなレーベル・プロデューサーもいなかった。彼らは2010年代に何をどう仕掛けていったのだろうか。

ーANARCHYを手がけるようになったきっかけは?

RYUZO:俺はMAGMA MCsてグループをやってたんですけど、仲間内でいろいろあっておもんないなってなった時にKeeraと出会いまして。彼女が東京から京都に遊びに来た時に、「京都のラッパーの曲ないの?」って言うんで、「こいつかわいがってんやけど、カッコいいよな」ってANARCHYを聴かせたら、「いや、カッコいいどころじゃない。これは絶対日本のシーンでスゴいことになる」って言われたんですよ。ANARCHYとは、中学生で刺青を入れてるガキんちょだったあいつが俺のライブに来て、「入れないんですけど」「いいよ、入って」みたいなところからの付き合いなんですよ。あいつが少年院から出てきてブラブラやっとる時に、俺もMAGMA MCsがひと段落したんで、その時にやろうってなって始まったんです。

ーそこからR-RATED RECORDSが始まったわけですか?

RYUZO:LA BONOとANARCHYと僕とKeeraで始めたんです。Keeraがホームページから何から何まで作って、俺ら地方の不良にパソコンというもののスゴさを教えたわけですよ。本当、彼女のおかげなんですよね。

ーANARCHYは最初からバズりましたよね。


RYUZO:シングルからバズりましたね。当時あれだけ刺青を彫り込んでるラッパーはいなかったですし、あれだけ団地でゲットーを押し出してるヤツも一人もいなかった。しかも彼は団地の不良の頭でリリシストだったんですよ。そこに俺とKeeraっていう二人の変態がヒップホップを教えるっていう、要はNASの1stアルバムみたいなことをしたかったんですよね。ゲットーでリリシストの究極の少年を見つけてきて、俺のコネクションで、日本中のヤバいトラックメイカーを集めて出すっていうのがテーマだったんです。

ーレーベル・プロデューサーとラッパーがタッグを組んでやるのって、それまでの日本にはなかったスタイルですよね。

RYUZO:パフィー(P・ディディ)とかデイモン・ダッシュみたいな前のめりな裏方はあまりいなかったですね(笑)。しいてゆうならブルヤス。俺はジェイ・Zにヤラレてたので、ロッカフェラを作りたかったんですよ。ドラッグディーラーだったヤツが自分でインディでやって、全部テイクオーバーしていくわけじゃないですか。だからKeeraと出会った時、ゲットーに光が当たると思ったんですね。それで、CDが数万枚とか売れるようになってきて、もう京都にいてるレベルじゃなくなったんですよ。
俺が先に東京に出たんですけど、東京のアーティストはぬくぬく余裕で活動してる気がして、俺ら地方は何もないから、必死でやるじゃないですか。遊ぶところもないし、女もいてない、金もない、不良やるか音楽をやるしかない。でも東京に来て、「いけるやんけ」と思って(笑)。俺には人に会いに行って、しゃべるバイタリティがあったし、フライヤーもポスターも全部自分らで隅から隅まで撒きに行ってた。俺の足と口を使って動いたらソッコーで有名になったんですよね。しかも、Keeraの方はデジタルが強いから、mixi、Facebookが流行ったらバンバンやっていくんですよ。ANARCHYのソウルと俺の草の根とKeeraのデジタルが重なって、地方と東京の壁を超えられたんじゃないですかね。ヒップホップはチーム力だし、アーティスト集団だけじゃないチームに一番先に目をつけることができたのかもしれないです。だって、NASやジェイ・Zにしても、ラップが上手いだけで一人で売れたわけじゃないですから。

「何をやったらおもろいのかと思った時に、やっぱりMUROさんかなと思ったんです」

ー2010年は『24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN』をリリースした年ですが、このアルバムのリリースは大きかったですよね。

RYUZO:俺が東京で歩いてる時に、スケボーでスベってる外人がいて。「RYUZOでしょ? HARLEM、外人一人で入れない」って言うから、「入れたるわ」って入れたんです。
それがジョナ・シュワルツだったんですよ。俺はジョナの才能に気づいて、いろいろビデオを撮らせ始めてて。それである日ジョナがデイモン・ダッシュの弟を連れてきよったんですよ。その弟とめちゃくちゃ仲良くなって。NYに行った時に、弟がクリスマス・パーティーをやるから来いって言ってきて。行ったらそこにデイモン・ダッシュがいきなり現れたんですよ。「弟が『日本にインディのヒップホップ・レーベルをやってる友達がいて、ロッカフェラのことが大好きで、兄貴のやってきたことをリスペクトしてる』って言ってくれたんだ」「おまえのおかげで、10年間口を利いてなかった弟と仲直りできた。俺はおまえに何ができる?」って言われて。「いやあ」ってなってたら、「今、スキー・ビーツとCreative Controlっていうサイトをやってる。このトラックを全部おまえにやるよ。日本盤を作って出せ」って言われて。「マジっすか、師匠!!」ってなって。
でも、これはR-RATEDだけでやったらあかん、ここで俺らはシーンに還元するべきだし、ヒップホップはやっぱり積み重ねだからこそカルチャーとして残るんだと思って。自分が影響を受けた人をフックアップして、レーベルの垣根を超えて何かやることが日本のヒップホップ・シーンに必要やと思ったんですよ。そしたらそれがバズったんですよ。そこで、ただの地方のレーベルから日本のレーベルになれたかもしれないですね。

ー2011年になると、ANARCHYは、全編MUROプロデュースによる3rdアルバム『Diggin Anarchy』をリリースしたり、朝日新聞社の「asahi.com」コラムに紹介されたり、日本人のヒップホップ・アーティストとして初めてBillboard LIVE TOKYOで単独公演をしたりと、快進撃が続きますよね。

RYUZO:何をやってもウケたし、その時はやり切ってるから、何をやったらおもろいのかと思った時に、やっぱりMUROさんかなと思ったんですよ。俺は死ぬほど好きやったし、MUROさんは一人のラッパーのアルバムをプロデュースしたことがなかったんです。MUROさんでアルバムをやって、バンドでBillboard LIVEでやったら、ただの不良じゃなく本当に音楽的に認められるんじゃないかと思って。ちょうどスキー・ビーツを成田まで迎えに行った時に、「おまえ、MUROと俺をつなげることができるのか」って言われて。「ナメんなよ、今電話したるわ」と思って、MUROさんに電話したんです。スキー・ビーツを連れてMUROさんの家に行った時に、ついでにANARCHYの話もしたんですよ。あと、『痛みの作文』という本を出したのも大きかったですね。


店のプロデュースと「ラップスタア誕生!」

ー2013年にはANARCHYの4thアルバム『DGKA (DIRTY GHETTO KING ANARCHY)』をフリー・ダウンロードでリリースしていますが、この時にはもうすでにエイベックスと契約を交わしていますよね。

RYUZO:俺としては、MUROさんまでやって、あと何ができるんだろう?って思ったんですよね。次の仕掛けとして、また今までのようにアルバムを作って出すの? でもすでにやってるしな、ってなってた時に、ANARCHYがメジャーに行って勝負を賭けてみたいって言うので、そこでエイベックスとの契約になるわけです。

ーあの時、スゴく精力的に動いていましたよね。

RYUZO:でも、実際にはやれないことが多すぎて。俺はニッチやし、インディ野郎なんですよ。例えば、歌詞のワードがどうのとか、サンプリングがどうのとか、MVの撮影許可がどうのとか、知らんやんけみたいな話だから。当時のANARCHYの曲って、サンプリングの哀愁のトラックにあいつの悲しいリリックが乗るもので、それが好きなファンがスゴく多かったと思うんです。それができなくなるのは俺の中では大きくて。また、そこで少しずつトラップが流行ってくるのも見えてきて。そこで俺の年齢的にも、好きなものにも限界が来たのかなと思って、ハッとなったんですよ。「あれ、これ違う、違う。
俺、金儲けのためにやってる。流行りを追いかけようとしてる」と思って。これは抜けなあかんと思ったんです。俺はゲットーのヤツが見てヤラレるものを作りたかったんです。俺は女子供に向けて歌ってないし、ヒップホップがわかってるヤツ、ドープなヤツ、ピンピンなヤツにヤバいって言わせたいんですよ。俺は世界中のヤツに影響を与えたいわけじゃないなと思って。みんなからは何故今やめるのか聞かれましたけど、俺はトラップが流行った瞬間に、これは俺が好きやった、ジェイムス・ブラウンがソウルを生んで、ファンクを生んで、それをサンプリングして生まれてきた、ゲットーの心の傷を歌うヒップホップじゃなくなったなと思ったんですよ。あと、KOHHが出てきたタイミングでもありましたね。

ー2016年12月には渋谷にBLOODY ANGLEというバーをオープンさせていますが。

RYUZO:もう抜けようと思ってた時に、レコード・バイヤーのLostFaceが、「俺のレコードでバーをやりましょうよ」って言ってきて。そしたらすべてが変わったんですよ。トラップとかSoundCloudを追えなくなったから、こっちに逃げたというか(笑)。元々自分が好きだったことに戻ろうと思ったんです。

ーそこでお店のプロデュースに目覚めてしまいましたよね。でも、それこそ2018年11月にオープンしたジェントルマンズ・クラブのお店、MADAM WOO TOKYOは100%ヒップホップじゃないですか。

RYUZO:俺らの時代って、NYのクラブは黒人と行っても入れてもらえなかったんですよ。それで黒人のヤツらに連れていかれるところって、ストリップクラブしかなくて(笑)。しかも、ストリップでしか本物のヒップホップは鳴ってない。それで、俺がハワイで結婚した時に、やることがなくて毎日ストリップに行ったんです。インバウンドが来るってわかったし、そう言えばBLOODY ANGLEに来る外人はストリップがないかやたら聞きよるなと思って。ストリップをやったらおもろいんちゃうかなって。自分の結婚式で思い出したんです(笑)。

ー一方で、2017年からはAmebaTVでラッパーのオーディション番組「ラップスタア誕生!」を手がけていますよね。

RYUZO:「フリースタイルダンジョン」を観てると、ヒップホップはもっと深いもんやし、もっとカッコいいもんやし、即興で文句言い合って後から笑ってるだけがヒップホップじゃないって思うんですよ。人生を変えるようなリリックを歌ったり、痛みとか生きるためのヒントを得るもんやと俺は思ってるから。それで酔って藤田社長(サイバーエージェント社長の藤田晋)にすねながら言ったんですよ。「カルチャーを作るから、俺に『イカ天』をやらせてください」って(笑)。今のシーンで活躍してる若手の多くは「ラップスタア誕生!」出身ですよ。WILYWNKA、Leon Fanourakis、Tohji、¥ellow Bucksが世に出るキッカケに少しでもなれて、本当に良かったです。

ANARCHY見出したプロデューサー、RYUZOが語る2010年代「ゲットーのヤツが見てヤラレるものを」

ANARCHY(左)とRYUZO(Photo by cherry chill will.)

RYUZOが選ぶ、2019年の日本人ベストラッパー

WILYWNKA

舐達麻

Leon Fanourakis

RYUZO
1994年にラッパーとしての活動を開始。MAGMA MCsのメンバーとして京都を中心に活動。2005年にR-RATED RECORDSを設立。ソロ・デビューを果たし、R-RATED所属のANARCHY他のアーティストのエグゼクティブ・プロデューサーとしても活躍。2010年に『24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN』を監修。2017年からはBLOODY ANGLE、DOMICILE TOKYO、MADAM WOO TOKYO、翠月 -MITSUKI-といった店舗のプロデュースを手がけ、2月にも新しい店舗のオープンを控えている。
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