※この記事は『CROSSBEAT』2013年6月号に掲載されたものです。
※2024年2月9日追記:クラフトワークがFUJI ROCK FESTIVAL'24に出演決定。詳細は記事末尾にて
「ロボット」という永遠のコンセプト
そのときの衝撃は、30年以上経ったいまでも鮮明に覚えている。僕は中学生で、ラジオで初めてクラフトワークを聴いた。「Showroom Dummies」という曲だった。到底、この世界の音楽とは思えなかった。いままで聴いたことのない何かに感じた。その翌年、『The Man-Machine』が発売された。僕が最初に買ったクラフトワークのアルバムだった。
それが機械で作られた音楽であることに感動を覚えたわけではなかった。ひとつにはそれが、いままで聴いたことのない陶酔的な音楽に思えたこと、そしてもうひとつは、変な話だが、リスナーとしての自分のレヴェルがひとつ上がったように思えたことが、いまでも忘れられない。こと「The Robots」(明らかに「Showroom Dummies」の延長)には本当にくらくらした。
さて、ではこの偉大な存在の特徴を列挙してみよう。
1. 英米以外にもポップ・ミュージックがあることを世界中に認めさせたこと。
2. 現代音楽とポップを融合させたこと。
3. 電子音楽をポップにしたこと。
4. バンドそれ自体がコンセプトになったこと。
その影響が最初に顕在化したのは、ブライアン・イーノの『Another Green World』、デヴィッド・ボウイのベルリン3部作やポスト・パンクにおいてだった。『The Man-Machine』は、ロックの古くさいクリシェ(やかましいギター、汗臭いドラム、お決まりのシャウト等々)を否定する、ポスト・パンクのひとつの指標ともなった。UKのデペッシュ・モードやOMD、ヒューマン・リーグといったバンドがその代表的なフォロワーである。USではスーサイドがクラフトワークとヴェルヴェット・アンダーグラウンドを繋げているが、スティーヴ・アルビニのビッグ・ブラッグによる「The Model」のカバーも忘れがたい。
クラフトワークは信仰であり、思想であり、哲学だった
さらにまた、影響はエレクトロという、80年代初頭のヒップホップにも及んでいる。興味深いことに、どう考えてもヨーロッパ臭く、白い音楽に思えるクラフトワークは、メンバーが黒人じゃないかと勘違いされるほどにUSの黒人やディスコ・シーンで受けたのである。「Trans-Europe Express」のフレーズを取り入れ、「Numbers」のリズムを使っているアフリカ・バンバータの「Planet Rock」は、アーサー・ベイカーという白人プロデューサーの入れ知恵だったが、ヒップホップのシーンでクラフトワークの人気があったことは事実である。とくに1981年の『Computer World』が、『Radio-Activity』~『Trans-Europe Express』~『The Man-Machine』と続いたメランコリーとは傾向を異にする、遊び心ある愉快な作品だったことも、当時、ヒップホップで受けた理由のひとつだろう。
ただし、クラフトワークからもっとも根深い影響を受けたのはデトロイト・テクノだった。60年代、モータウンを生んだ場所とは思えないほど荒廃した町に生きる黒人は、クラフトワークのコンセプトに対して、なかばスピリチュアルとも言えるほどの強い思いを抱き、音楽を作った。彼らにとってクラフトワークは信仰であり、思想であり、哲学だ。その初期の成果がサイボトロンの「Clear」(後に、ミッシー・エリオットにサンプリングされる)のような曲だった。「私たちはロボット」、その歌詞は、ロボットによって自動車工場の仕事を奪われた黒人労働者たちが暮らしているモーターシティでは、絶望の音楽にも聴こえ、同時に、それが未来的な響きを持っていることから希望の音にも聴こえた。長い休止に入ったクラフトワークが1991年に『The Mix』を発売するのも、デトロイト・テクノに刺激されてのことだった。
そしてデトロイト・テクノ以降、つまりクラブ・ミュージックが普及した現代では、電子音楽のすべてにおいて、その影響を受けていない音を探す方がむしろ困難である。
●映像で振り返るクラフトワークとフローリアン・シュナイダーの歩み
<イベント情報>

FUJI ROCK FESTIVAL'24
2024年7月26日(金)27日(土)28日(日)新潟県 湯沢町 苗場スキー場
フジロック公式サイト:https://www.fujirockfestival.com/