過去2週間に渡って、音楽業界では「アーバン」という言葉の是非について議論が交わされている。
しかし、この議論には最も重要な争点が欠けてしまっている。「アーバン」「ブラックミュージック」「ヒップホップ・アンド・R&B」等、レーベルによってその部署の名称は違うが、それらの音楽がポップミュージックとは異なると見なされ、平等に扱われていないことは共通している。白人が大半のポップのアーティストは、ヒップホップやR&Bのアーティストよりも大きなファンベースが期待できるとして、ラジオで強力にプッシュされ、マーケティングにはより多くの予算が注ぎ込まれる。
「アーバン」カテゴリーを廃止しても、「ポップ」というジャンルの定義を見直さない限り、真の変化は訪れないだろう。アデルとジャズミン・サリヴァンが同じ曲を歌い、それぞれのパフォーマンスが甲乙つけがたかったとしても、前者は世界中のあらゆるマーケットにリーチするのに対し、後者は特定の都市に住む黒人のリスナーたちが対象とされてしまう。
人種差別が組織構造の深部に根付いているという事実から、音楽業界は目をそらし続けてきた。しかし過去数週間、業界はかつてないプレッシャーに晒されている。「『ポップ』という言葉も撤廃されると想定しよう」ベテランプロデューサーでレーベルオーナーのNo I.D.は先週、AWALのA&R部門代表Eddie Blackmonがホストを務めたオンラインセミナー、WebinA&R Sessionsの場でそう語った。「レーベルの担当に『新しいレコードはポップだ』なんて言うと、『黒人のアーティストがポップのフィールドに行くにはステップを踏まないと』とか言われる。
No I.D.が批判したそういった体制は、今日の音楽業界の起源に根ざしている。「業界と世間に蔓延する人種差別によって、ブラックミュージックはマーケティングから切り離され、不当な扱いを受けている」90年代にReebee Garofaloが発表したエッセイ『Crossing Over: From Black Rhythm & Blues to White Rock n Roll』にはそう記されている。「(ブラックミュージックの)除外と希釈を制度化する慣習やメカニズムは、時代とともにその形を変化させ続けているが、現在もその大部分は見直されていない」
1950年代~今日まで続く「強奪」の具体例
70年代以前、メジャーレーベル各社は黒人アーティストによる音楽を軽視する傾向にあった。第二次世界大戦の最中、レコードの素材が不足した際に、レーベル各社が特定の音楽を優先したことは、業界のそういった姿勢をはっきりと示していた。「ブルース、ジャズ、ゴスペル等の専門的分野は予算が大幅に削られ、事実上メジャーレーベルから見放されてしまった」Garofaloのエッセイにはそう記されている。
黒人アーティストの音楽を再び扱うようになると、音楽業界は2つの戦略を用いた。ひとつ目は大胆なまでの盗用だ。1950年代、白人のアクトたちは黒人アーティストのシングル曲をカバーするようになった。ポップのリスナー、つまり白人のオーディエンスを獲得した彼らは、原曲の作曲者よりもはるかに多くの金を稼いだ。「カバーは原曲の人気が衰える前に発表されることが多く、より強固な流通チャネルとメジャーレーベルの宣伝力によって、原曲よりも大きな成功を収めるケースが珍しくなかった」Garofaloはそう記している。
この戦略を成立させるためには、黒人と白人のマーケットを切り離す必要があった。ファッツ・ドミノの「エイント・ザット・ア・シェイム」とパット・ブーンのカヴァーの両方を聴き比べることができていれば、後者を進んで選んだリスナーはほとんどいなかったはずだ。
1950年代、エタ・ジェイムスの「ウォールフラワー」は40万枚を売り上げたが、白人シンガーのジョージア・ギブスによるカヴァーのセールスは100万枚を超えた。同じ曲であっても、歌い手とリスナーの大半が黒人であればR&B、シンガーとオーディエンスが白人であればポップに分類されるというこの構造は、今では業界の隅々にまで浸透している。ビージーズの「恋のナイト・フィーヴァー」、マドンナの「ラッキー・スター」、アデルの「ルーマー・ハズ・イット」、ポスト・マローンの「ロックスター」等はすべてR&Bまたはヒップホップのフォーマットに沿っているが、ギブスのシングルがそうだったように、シンガーの肌の色を理由に「ポップ」に分類されている。
ごく最近のケースでは、ミーガン・ジー・スタリオンの自作ミームから派生した大ヒットシングル「ホット・ガール・サマー」は、ラジオでは「アーバン」に分類されていた。一方で、白人シンガーのブラックベアーによる同曲のパロディ「ホット・ガール・バマー」は、ポップ系ラジオ局でヘヴィローテーションされた。先週の統計では、後者が93万にリーチして「ポップ」チャートで1位となったのに対し、前者は36万人にリーチして「アーバン」チャートのトップに立った。結果として、アメリカ国内における「ホット・ガール・バマー」のストリーミング再生回数は、「ホット・ガール・サマー」より約1億6000万回多くなっている。
ブラックミュージックをサポートすることなく利益を上げようとするメジャーレーベルの思惑は、流通契約にも顕著に表れていた。これによって、黒人のアーティストが「ポップ」のオーディエンスを獲得したケースは存在する。最も顕著な例としては、クライブ・デイヴィス率いるCBS Recordsと、Gamble & HuffのPhiladelphia International Recordsのパートナーシップが挙げられる。
しかし、こういった流通契約を交わしたメジャーレーベルはブラックミュージックというアートを軽視し、時には文化そのものを強奪した。Garofaloのエッセイでは、有名R&Bアクトを多数抱えていたインディー時代のAtlantic Recordsを率いたアーメット・アーティガンが、Columbia Recordsのエグゼクティブとの会話について振り返っている。
「その人物はColumbiaがAtlantic Recordsと取引する理由について、私たちが『人種的な』レコードを作る術に長けているからだと言った」アーティガンはそう述べている。「先方のオファー内容について訊くと、彼はこう答えた。『3パーセントだ』。それは私たちがアーティストに支払う分以下だと伝えると、彼はこう言った。『君は彼ら(those people)に印税を払っているのか? どうかしてるよ!』とね。実際には、その人物は『彼ら(people)』ではなく他の言葉を使った」
隔離と不平等に根ざした、ポップ音楽のマーケティング構造
1971年にブラックミュージックの市場規模に関するレポートが発表されると、各メジャーレーベルはより積極的に黒人アーティストと契約し始める。レーベル各社はこぞって、「ブラックミュージック」「アーバン」部門を立ち上げた。その役割について、Live Nation UrbanのInstagramアカウントにはこう記されている。「メジャーレーベルが軽視していたブラックミュージックのビジネスの一端が、黒人のエグゼクティブに任されるようになった」
しかし、メジャーレーベルにおけるブラックミュージック専門部署の誕生は、必ずしもポップとR&Bという人種に基づいた区別の見直しには結びつかなかった。
「(ソウルシンガーの)ジョニー・テイラーやタイロン・デイヴィスは、より大きく多様なファンベースを確立するためにCBSと契約を交わした」Sanjekの著書にはそう記されている。「しかし、レーベルは彼らが望むような規模の成功を視野には入れなかった」
それから数十年が経った現在でも、多くの黒人アーティストたちが同様の経験をしている。ストリーミングの主流化はメジャーレーベルにおける「ポップ」の定義をより困難にしたが、検索結果TikTokで曲がバイラルヒットするパターンは、エタ・ジェイムスとジョージア・ギブスのケースと同じだ。白人のBeneeやTrevor DanielがTikTokからポップ系ラジオへと一気にジャンプしたのに対し、リル・モジーやミーガン・ジー・スタリオンは「アーバン」「リズミック」と括られ、「ポップ」とみなされるには更にステップを踏むことを求められる。
リアーナ、ザ・ウィークエンド、ジェイソン・デルーロ等、かつて批評家のネルソン・ジョージが「ポップという特権階級」と呼んだステータスが与えられている黒人アーティストは、2020年の現在においてもごくわずかだ。ビヨンセ、トラヴィス・スコット、ケンドリック・ラマーといった世界トップクラスのスターたちでさえ、白人のライバルたちと同程度の成功を収めるには、彼らの何倍もの努力を重ね、「クロスオーバー」というハードルを越えなくてはならない。
「同じレーベルでも、黒人アーティストのマーケティングやプロモーション用の予算は限られます」名前を伏せることを条件に取材に応じた、あるA&Rはそう話す。「ラジオで曲を流すのには多くの金がかかるという理由で、黒人アーティストの要望ははぐらかされます。その一方で、まともなファンベースもストリーミング実績もない白人のアーティストに大きな予算が出る。レーベルはそういったアーティストと積極的に契約し、彼らが成功を収めるまで、ありとあらゆる投資を行います」
しかし多くの黒人アーティストたちは、「隔離と不平等に根ざしたマーケティング構造」にもかかわらず、大きな成功を収めることに成功している。Garofaloが記したように、彼らは「ポップミュージックにおける不平等に屈することなく」、自ら道を切り拓いていった。
●音楽ジャンルと黒人差別、80年にわたる不平等の歴史