ドキュメンタリー作品『ザ・ビートルズ:Get Back』がまもなく配信される。本作の公開を記念して、米ローリングストーン誌のカバーストーリーを完全翻訳。
「ロック史上最大の解散劇」の裏側とメンバーの結束、そして彼らの作品が今なお愛される理由とは。メンバー4人による当時の証言、ピーター・ジャクソン監督の発言も交えながら、前後編合わせて2万字超の大ボリュームで掘り下げる。

『ザ・ビートルズ:Get Back』
PART1:11/25(木)/ PART2:11/26(金)/ PART3:11/27(土) 各日17:00より配信スタート
※ディズニープラス加入者の方は配信スタート以降、いつでも好きな時間に視聴可能

1969年1月のある陰鬱な月曜の朝、ザ・ビートルズはかつての場所へ戻ろうとあがいていた。「ゲット・バック」と銘打ったプロジェクトは、パーフェクトなアイディアに思われた。4人の若者がそれぞれの楽器を携え、スタジオ入りする準備は万端だった。自分たちの原点に戻れば、かつてのように霞の中から名曲が生まれると信じていた。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴは、1月18日にテレビの特別番組への出演が決まっていた。実に数年ぶりのライブになるはずだった。顔を合わせて数週間リハーサルすれば、何かが起きると思っていた。彼らはそうやって何度も奇跡を起こしてきたし、期待を裏切ることもなかった。

良い兆候だ。月曜の朝、まずポールが姿を現した。
そしてリンゴも。バンドのセッションを撮影するカメラクルーも準備ができた。テレビ番組の宣伝用に、30分程度のリハーサル映像を公開する予定だった。ビートルズの放つ光り輝くオーラで、世界を圧倒する準備は万端だ。少なくともポールとリンゴは。ところでジョンとヨーコはどうしている? ジョージはどこだ?

ジョージの場合は、バンドからの脱退を宣言していたから、少々ややこしい。前週の金曜日にジョージは、スタジオで作りたての曲「All Things Must Pass」をメンバーへ一生懸命に伝えようとしていた。その間もカメラは回り続けた。当時ヘロインに溺れていたジョンは、ジョージをあからさまに嘲笑った。ジョージは「またクラブで会おう」と言い残して、スタジオを飛び出した。ジョンは大して気に留めなかった。「週明けの月曜か火曜に戻って来なければ、エリック・クラプトンに弾いてもらおうと思っていた」とジョンは言う。
「問題は、ジョージが辞めてもビートルズを続けるべきかどうか、ということだ。俺は続けたい。他のメンバーを入れて、続けるべきだ」

月曜になってもジョージは現れなかった。ジョンとヨーコの姿もない(ついでに言えばクラプトンもいない)。ポールとリンゴは、当時流行っていた(ザ・ファウンデーションズの)「Build Me Up Buttercup」を演奏しながら時間を潰した。関係者が集まって話し合いが始まり、常に周りをうろつくヨーコの存在に非難が集中した。ところが驚くことに、ヨーコを擁護したのはポールだった。彼はラヴストーリーに弱い。何と言っても彼はポール・マッカートニーだから。しかし同時に、彼の最も長い付き合いの親友で、最も問題が多く冷酷で手に負えない友人にとって、ヨーコとのロマンスがどれほど重大な意味を持つか、ということも理解していた。「それほど悪くはないさ」とポールは断言する。「彼らが一緒にいたいというなら、構わない。
若いカップルには一緒に居させてやればいい」

ビートルズ解散にまつわる大きな謎

当時を振り返ると、ポールは独り笑いせずにはいられないだろう。ザ・ビートルズという伝説的なクリエイティブ・チームで史上最高のロックンロール・バンドが、ささいな喧嘩から崩壊してしまったのだから。当時と同じく陰鬱な冬の朝に、ポールは爆笑するのだ。

「50年も経って、全く信じられないほど笑える話さ。”ヨーコがギターアンプの上に腰掛けていたから、彼らは解散した”だとさ」

ポールの言うことも間違いではない。50年後、ビートルズ解散については依然としてさまざまな議論がされている。世界で最も注目されている分裂ストーリーだ。フリートウッド・マックのアルバム『Rumours』(邦題:噂)のように、ビートルズの『Let It Be』もまた、分裂を象徴する作品のひとつとされている。ビートルズといえば、一緒に作業し、将来を語り、音楽を作る仲良しグループの代表だ。しかし同時に、お互いを引き裂く象徴でもある。

ザ・ビートルズ解散劇の裏側 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見

ザ・ビートルズ、イングランドのアスコットにあるティッテンハースト・パークにて。1969年8月22日撮影。
(© Apple Corps, Ltd.)

以降のストーリーは、誰もが知っている。テレビ番組は実現せず、その代わりにバンドは、ロンドンにあったアップル・コア本社の屋上で、彼らのラストライブとなる伝説のルーフトップ・コンサートを行った。彼らの演奏は、警察に止められるまで続いた。同じ年、ビートルズはアルバム『Abbey Road』を制作している。ゲット・バック・セッションのテープは、ほこりをかぶったままだった。バンドの新しいビジネスマネージャーとなったアレン・クラインは、ゲット・バック・プロジェクトの映像を長編映画『レット・イット・ビー』として映像作品化し、同時に同名のアルバムをリリースした。映画は、ポールがビートルズの解散を宣言した数週間後の、1970年5月に公開された。メンバーは全員、映画のプレミアへの出席を拒否した。ゲット・バック・セッションのテープは、フィル・スペクターが切り貼りしてサウンドトラックに仕上げた。直後にジョンは「God」という曲を書き、”俺はビートルズを信じない”と宣言する。その後4人が揃って顔を合わせることは、二度となかった。

50年間、「ジョンとポールが仲違いしていた」「ポールとヨーコが対立した」「ジョンとヨーコは薬物中毒だった」「金の亡者がメンバーに取り入った」「メンバーの間にドラッグが蔓延した」「メンバーの妻たちが出しゃばってきた」と、同じストーリーが繰り返し語られてきた。
全ては過ぎ去るもの。夢もいつか終わる。

しかしよく分析すると、どのストーリーも事実はもっと複雑だ。最終的には、仲良し4人組が苦しい時期を共に支え合いながら、今日を乗り切ろうと頑張るストーリーに落ち着く。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人は、終わりを迎えるビートルズにショックを受け、不信感を募らせていた。彼らはどうブレーキをかけたらよいか、わからなかった。4人とも、ここで終わりだとは思っていなかった。

コミュニケーションを取りようがない状況で、彼らはどうやって作品にむき出しの感情を注いだのか? ビートルズ解散にまつわる大きな謎として、常に語られている。自分たちが暗く苦しい時期に、人々に希望を与える曲をどうやって一緒に作れたのか? 50年が経った今、さまざまな疑問が新たな意味を持つ。

これまでの評判を覆すチームワーク

ルーフトップ・コンサートが終わりに近づくと、メンバーの間には安堵感が漂った。「ありがとう、モー!」とポールが、傍らでバンドを盛り上げてくれていたリンゴの当時の妻モーリーンに声をかける。かつてのようなファンの女の子の歓声が、今こそ必要だった。
21日間のカオスが、56時間分の映像フィルムと200時間の音声テープに収められた。しかし当時の彼らには、膨大な量の記録を見返す忍耐力がなかった。ジョンも「やり切る気力が起きなかった。当時は全員がひどい状態だった」と認めている。

映画『レット・イット・ビー』は短期間だけビデオソフトとして販売され、以降は幻の作品となった。筆者は80年代に、ボストンでの深夜上映で鑑賞した。観客は、オノ・ヨーコがスクリーンに現れるたびにブーイングを浴びせていた。画質が粗く、安っぽく見えた。スクリーンの中も客席も、最悪の雰囲気だった。さらにフィル・スペクターがミックスしたアルバムは、ビートルズの栄光の軌跡に対する的外れな最終章のようだ。解散の1年以上前にレコーディングされ、『Abbey Road』という大ヒット作の後にリリースされた『Let It Be』は、崩壊していくバンドを記録したロックンロール版のザプルーダー・フィルム(訳註:ケネディ大統領暗殺の瞬間を捉えた映像)のようだ。『Let It Be』は、図らずもビートルズの墓碑となった。映画作品の方は早々に映画館から撤退してしまったため、1970年以降は映像をほとんど目にできなかった。ファンの多くは、映像作品『アンソロジー』に収められた、ギターパートを巡りジョージとポールが口論する有名なシーンを垣間見た程度だろう。初めて見た人々に、これほどまでに分析され、あらゆる解釈をされた映像作品は他にない。

1970年6月、ジョンとヨーコもついにサンフランシスコで作品を鑑賞した。映画館には、ローリングストーン誌創刊者のヤン・ウェナーと妻のジェーンも同行した。4人は入り口でチケットを購入し、誰にも気付かれることなく昼興行のガラガラの映画館に入場した。「自分たちでチケットを買って席に着いた。客の誰にも気付かれなかったと思う。平日午後の回で、空いていた。だから我々4人は真ん中に陣取って、ビートルズの最後の姿を鑑賞した」と、ウェナーは数年後に振り返った。ジョンは涙を隠そうともしなかったという。「映画館を出て、4人でハグをして、悲しみを分かち合った」

映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作や第一次世界大戦をテーマにした『彼らは生きていた』の監督として有名なピーター・ジャクソンが、ゲット・バック・プロジェクト時に撮影された膨大な映像を編集し、Disney+向けのドキュメンタリー『ザ・ビートルズ:Get Back』を完成させた。作品は2021年に公開される。「彼らについて知っていたつもりの知識が、全て覆された」というジャクソン監督の映画は、『レット・イット・ビー』の単なるリメイクではなく完全に新しい作品として仕上げたという。ポールとリンゴが、映画『レット・イット・ビー』は自分たちのネガティブな面しか伝えていない、と言うのも間違いではなかった。

ジャクソン監督の『Get Back』からは、バンドの温かさとチームワークの良さが伝わってくる。ジョンとポールがアコースティックギターで「Two of Us」を演奏しながら、ジョンが「オブラディ、オブラダ」と歌い出してポールを大笑いさせる。「She Came in Through the Bathroom Window」では、ポールのリードヴォーカルの合間にジョンが後ろで「仕事しろ!」と叫ぶ。1965年の懐かしの「Help!」に半ば冗談で挑戦してみるものの、当然ながら大人の絶望を味わうことになる。後にジョンのソロアルバム『Imagine』に収録されることとなる「Gimme Some Truth」をジョンとポールで試してみるなど、『Abbey Road』やそれぞれのソロアルバムに収録されることとなる楽曲が仕上がっていく様子も、見ることができる。いたずらっ子のような表情、アイコンタクト、息の合った演奏など、これまで言われてきた評判からは想像もつかないような、ビートルズのチームスピリットが感じられる。

ザ・ビートルズ解散劇の裏側 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見

ゲット・バック・プロジェクトの1シーン。ビートルズのメンバーは、いつもの使い慣れたアビイ・ロード・スタジオではなく、トゥイッケナム撮影所に缶詰にされた。(Photo by Ethan A. Russell / © Apple Corps Ltd.)

ジャクソンに映画制作の依頼が来た時、彼は自分に務まるかどうか迷ったという。「長年のビートルズファンとしては、特に心待ちにしていたプロジェクトではなかった」と彼は言う。「”これまで我々が目にできた映像が、メンバーが望んで公開していたものだとしたら、未公開の55時間分の映像はどう扱うべきだろうか?”と考えた。ミーティングへ出向いた時には足が重かった。喜ぶべき状況だろうが、これから自分が何を目にするかを考えると、不安で仕方がなかった」

多くのファンがそうであったように、ジャクソンもまた映画『レット・イット・ビー』とバンドの苦しい時期とを結びつけていた。「解散を前提に撮影されていたものではなく、14カ月も前の映像だとわかっていても、バンドが既に分裂した1970年5月に映画館へ行けば、ファンは明らかに特別な目で作品を見てしまうものだ。だから『レット・イット・ビー』は、解散の映画だと思われているのだと思う。しかし実際は全く異なる」

もちろんポールとリンゴは、ゲット・バック・セッション中もメンバーの間には笑いがあった、と主張した。しかし映画に採用されたのは彼らの証言のみで、実際の和やかな場面は映像化されなかった。本当はどうだったのか。一般に言われていた噂は間違いなのだろうか。リアリティー番組の憎まれ役が必ず言うように、「編集でそう見えるだけ」なのか?

「彼らは全てをやり尽くしていた」

『Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band』や『Abbey Road』、そして通称『ホワイト・アルバム』と呼ばれる『The Beatles』の50周年記念エディションをプロデュースしたジャイルズ・マーティンは、ビートルズの作品を全部揃えないと気が済まない熱狂的なファンを、「靴下にサンダル履きのギーク」と呼んだ。ジャクソン監督は、自分も正にその集団の一人だったと認める。「70年代後半からブートレッグ版を集め始めた。ゲット・バック・セッションのブートレッグ版は6種類持っている。アルバム9枚分の内容だった。今でも全部ある」という。しかし今回彼が見た未公開映像の中のストーリーは、ブートレッグ版を聴いた彼の想像を遥かに超えていた。「個人的なファン目線で56時間の映像を確認した。彼ら自身は何か新しいことをしたいと思っていたが、既に全てをやり尽くしてしまっていたように感じた」とジャクソンは言う。「彼らは同じことの繰り返しを嫌っていた。”Sgt. Peppers パートII”を作る気などなかったんだ。”キャヴァーン・クラブのバンドに戻れたら……”とメンバーが話すシーンがある。彼らが演奏したシェイ・スタジアムより大きなスタジアムは存在しない。彼らは複雑なアルバムを作った。シンプルなアルバムも作った。映像を見ると、本当は解散などしたくなかったのだと強く感じる。彼らは前進し続けるバンドだったが、もう目指すべき場所がなかったのだ」

映画『レット・イット・ビー』を監督したマイケル・リンゼイ=ホッグが、リハーサル風景を1本の映画にしたらどうか、とバンドに初めて提案するシーンがある。メンバーは(当然)技術的に問題がないかなどと、一斉に相談し始める。映像はもともとテレビ番組用の16mmで撮影されていたため、映画用の35mmに拡大する必要があった。だから『レット・イット・ビー』の映像は、お粗末に見える(『Get Back』では技術的な修復により、ビートルズがビートルズらしく映っている)。ポールは、映画館向けにするには画像が粗すぎる、と異議を唱えた。ジョージはただ頭を振る。「受け入れられない奴はバカってことさ。」

4人は心の底で、尊大な傲慢さを共有していた。ある意味で傲慢さがあったからこそ、好調な時も不調な時も彼らは結束できていたと言える。彼らのような傲慢さがなければ、『Get Back』のように、見事なまでにばかばかしいアドベンチャーなどあり得ない。

『Rubber Soul』『Revolver』『Sgt. Peppers』で世界を圧倒した当時のビートルズは、共同で作品を作り出すエネルギーに満ちあふれていた。『Sgt. Peppers』は、世界に対する4人の最後の抵抗だった。同作品のリリース直後に、最初のマネージャーだったブライアン・エプスタインがこの世を去る。エプスタインが亡くなる直前まで、4人は常に行動を共にするソウルメイトで、オフの時も一緒だった。「僕らを理解できる人はほとんどいない」とジョンは、1967年にハンター・デイヴィズ著のバイオグラフィーの中で語っている。「外の人間とは全くコミュニケーションを取らない。今や周りには知っている人間しかいないから、他人とやり取りする必要がないのさ。僕らはお互いを理解し合っているから、他のことは気にしない」とジョンは言う。『Revolver』リリース後に最後のツアーを終えた彼らは、3カ月間の休みを取ろうとした。しかしすぐにお互いが恋しくなり、「メンバーほど気の合う人間は他にいなかった」とジョンは感じた。

エプスタインはビートルズ最大のファンで、彼らのチアリーダー役だった。エプスタインの死は、ビートルズに大きな変化をもたらした。「エプスタインが亡くなってから、僕らはとてもネガティブになった」とポールは、ゲット・バック・セッションの中で述べている。「僕ら全員がビートルズというグループに対して幻滅してしまったのさ」

ジョンが投げ入れた「爆弾」

ゲット・バック・プロジェクトは、彼らのビートルズへの愛着を前提に企画された。彼らの腕があまりにも錆び付いていたために実現できなかったライブショーのクレイジーなアイディアや、気分が乗った時にはいつでもゼロから素晴らしい楽曲を作れるという自信が必要だったのだ。『ホワイト・アルバム』の制作には、嵐のような5カ月間を費やした。しかし50周年記念エディションで明らかになったように、深夜の狂気とカオスの中で、彼らは2枚組にも収まりきらないほどの素晴らしい曲の数々を生み出していた。

1969年3月までにメンバー全員が結婚し、3人には子どももできた。それぞれが大人としての生活を築き、合わせてバンドも成長を求められた。しかし、先頭を走ってきたビートルズには、お手本などどこにも存在しなかった。ジョージは、ボブ・ディランやエリック・クラプトンとの交流を深めた。ディランもクラプトンも、ビートルズの他のメンバーが決して持たなかったジョージに対する尊敬の念をもって接してくれた。

1968年春、ジョンとポールは、ニューヨークでアップル・コアの設立を発表した。その後テレビの『ザ・トゥナイト・ショー』に出演した彼らは、スポーツキャスターでゲスト司会者のジョー・ガラジオラとハリウッド女優のタルラー・ハンクヘッドとの、噛み合わないトークを繰り広げた(ビートルズのことを知らない司会の2人は、彼らにクリケットについて語らせようとした)。ガラジオラが「メンバーの4人は仲が良いのか?」と尋ねると、ジョンとポールはまるで宇宙人を目撃したかのような表情で司会者を見返し、「もちろん、僕らは親友同士さ」とジョンは答えた。

ザ・ビートルズ解散劇の裏側 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見

結婚後にジブラルタルへ向かうジョンとヨーコ。ジョンはヨーコの苗字を採ってジョン・オノ・レノンと改名しようとした。1969年の思い切った一歩の始まり。(Photo by Trinity Mirror”/Mirrorpix/Alamy)

間もなくしてジョンは、自分の人生に爆弾を投げ入れることとなる。彼はオノ・ヨーコと、アンビエント・ノイズをコラージュしたアルバム『Two Virgins』をレコーディングし、2人はハード・デイズ・ナイトの夜明けを迎えた。『ホワイト・アルバム』のセッションに、ジョンがヨーコを伴って姿を現したのを見て、他のメンバーは驚いた。以降、ジョンとのやり取りは全てヨーコを通して行われた。初日にヨーコは、「Revolution 1」のジャムセッションに参加した。ビジュアルアーティストとして知られるヨーコだが、クラシックの教育を受けた作曲家でもあり、ジョンと出会う以前にはジョン・ケージ、ラ・モンテ・ヤング、オーネット・コールマンといったレジェンドとの共演経験もある。ヨーコは相手よりも先に自分の意見を口に出すような人間で、ビートルズのメンバー同士の距離感を尊重することに興味を持たず、メンバー間の境界線にも無関心だった。「ヨーコは純真だった」とジョンはローリングストーン誌に語っている。「彼女は、他のグループに接するのと同じように、ビートルズと共演するつもりで来たのさ。」

1968年11月にリリースされたアルバム『Two Virgins』は、今なお史上最も悪名高い不快な作品となった。収録された曲(と言えるかどうかわからない作品)のせいだけでなく、ジョンとヨーコの全裸写真を使ったアルバムジャケットにも原因がある。「2人で作ったアルバムだから、僕らにとっては自然なことだと思った。もちろん、それまで自分の性器をアルバムジャケットでさらしたことはないし、写真に撮ったことすらない」とジョンはローリングストーン誌に語った。ポールは、アルバムのライナーノーツに「2人の偉大なる聖人が交わる時、屈辱的な経験となる」とコメントを寄せている。

同年10月18日、ジョンとヨーコはロンドン警視庁の麻薬捜査班から強制捜査を受けた。逮捕後間もなくヨーコは流産する。『ホワイト・アルバム』が世界的にヒットしたものの、流産にショックを受けた2人はヘロインへと走った。

ルーフトップ・コンサートまでの道のり

1968年の大混乱に、一筋の明るい光が射した。「Hey Jude」だ。ジョンと別居中の妻シンシアと息子ジュリアンのもとを訪れたポールが、2人の心痛に思いを寄せて作った曲だった。ポールがシンシアに贈った1本の赤いバラは、彼女の心に一生刻まれた。当時5歳だったジュリアンのために作られた「Hey Jude」は、ビートルズ最大のヒット曲になった。BBCの番組に出演したビートルズは、ピアノを囲んだファンの前で同曲を披露した。「ベター、ベター、ベター…」とクライマックスで盛り上がる彼らが生の観客の前で歌うのは、数年振りのことだった。ゲット・バック・プロジェクトは、自分たちを再認識し、同じテレビスタジオで同じ監督のマイケル・リンゼイ=ホッグが、かつての暖かい雰囲気を再現するための試みだった。

しかし、セッションは最初からつまずいた。夜明けと共にメンバーを迎える車が手配されたが、誰一人として朝に強いメンバーはいなかった。ジョージは後に、「朝8時に起きてギターを持たねばならなかった」と当時の怒りを思い返す。一方でジョンとヨーコは麻薬に溺れていた。ビートルズは、自分たち専用のクラブハウスであるかのように24時間騒々しくやっていたアビイ・ロード・スタジオではなく、カメラに取り囲まれたトゥイッケナム撮影所へ閉じ込められた。笑いもあったが、激しいぶつかり合いもあった。「トーストとお茶で朝食をとりながら毎朝9時頃になると、当時の恐怖が蘇ってくるんだ」とポールは振り返る。

メンバーは、素晴らしい曲を持ち寄った。初日にジョンは「Dont Let Me Down」と「Dig a Pony」を、ジョージは「All Things Must Pass」を持ち込んだ。ポールはジョンの「Everybody Had a Hard Year」を、自身の「Ive Got a Feeling」に取り込んだ。「Get Back」は、パキスタン移民を擁護する政治的なメッセージを込めた「Commonwealth Song」から始まった。当時の英国では、人種差別主義的な政治家のイーノック・パウエルが提唱する反移民運動がホットな話題となっていた。ポールは『ホワイト・アルバム』の中で最も政治色が強く、西インド諸島からの移民家族の生活を歌った曲「Ob-La-Di, Ob-La-Da」の中でも、移民問題について取り上げている。セッションでは、後に『Abbey Road』に収録される「Something」「Her Majesty」「Oh! Darling」にもトライしている。

しかし始まってからわずか数日で、ポールとジョージが、あるギターパートを巡って口論を始める。ポールが「僕がいつも君を邪魔しているようだ」と皮肉ると、ジョージは「君の思う通りに弾くよ。僕に弾いて欲しくなければ、弾かない。君を満足させるためなら僕は何でもするよ」と自嘲した。

ロックスター同士の言い争いとしては控えめな方だったが、二人はカメラの前でヒートアップしていく。翌日ジョージは「ライブではもう僕の曲を演奏したくない。台無しになってしまうからね。何だか妥協したもののように聞こえるのさ」と言い、「僕らは別々にやった方がいいんじゃないか」と続ける。ポールは「前回のミーティングでも言った通りさ。その日は近い」とつぶやいた。

セッションの場をアップルへ移すとすぐに、彼らの雰囲気も明るくなった。キーボーディストとして迎えたビリー・プレストンに、バンドの沈静効果があったようだ。(かつて『ホワイト・アルバム』のレコーディングにエリック・クラプトンを呼んだ時、彼らはゲストの前で礼儀正しくすることを学んだ。)プレストンはまず、「Dont Let Me Down」に加わった。ジョンは牧師の説教風に”今日の午後に、夢を見たんだ!”と叫ぶ。プレストンのキーボード・ソロの後でジョンは、「僕が”行って”と言えば、彼はその通りに弾いてくれる。ビル、君は僕らを乗せてくれる!」と狂喜した。ジョージも「もう何日も何週間もやっていて、行き詰まっていた」と言う。ジョンとジョージは、プレストンをビートルズの正式メンバーに加入させようと働きかけた。しかしポールが首を縦に振らなかった。「4人でもう十分最悪だ」

メンバーは、プロジェクトの着地点について延々と話し合った。1月18日に予定されていたテレビの生出演に間に合わないことは、彼らも自覚していた。では新曲をどこで披露するか? 教会や病院か、フェリーの船上か? ジョンは「亡命してもいいとさえ思うようになった」と鼻で笑う。最終的な答えは、彼らの上にあった。つまり屋根の上だ。ルーフトップ・コンサートは、彼らにとって約2年振りのライブ・パフォーマンスだった。誰も寒さが厳しくなるとは予想していなかった。だからジョンとリンゴは、女物の冬用コートを羽織って演奏している。「Ive Got a Feeling」の最後の瞬間のサウンドには、ビートルズ自身も驚き、ジョンは思わず「ファック、イェイ!」と叫んだ。

今までのようにビートルズは、前進しようとした。ジョンは、新たな人物との出会いに胸を躍らせていた。実際にジョンは自分のビジネスに関する全てを、よそ者の米国人に託す契約を交わした。初対面からわずか数時間という衝動的な行動だった。ジョンは、新たなマネージャーとなるアレン・クラインを他のメンバーに引き合わせるのが待ち遠しかった。

【後編を読む】ザ・ビートルズ解散は必然だったのか? 崩壊寸前のバンドを巡るストーリー

From Rolling Stone US.

ザ・ビートルズ解散劇の裏側 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見

©2021 Disney ©2020 Apple Corps Ltd.

ドキュメンタリー作品『ザ・ビートルズ:Get Back』
■監督:ピーター・ジャクソン
■出演:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター
11月25日(木)・26日(金)・27日(土)
ディズニープラスにて全3話連続見放題で独占配信スタート
公式サイト:https://disneyplus.disney.co.jp/program/thebeatles.html

ザ・ビートルズ解散劇の裏側 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見

公式写真集 『ザ・ビートルズ:Get Back』 日本語版
ページ数:240ページ
サイズ:B4変型判(302mm x 254mm)
ハードカヴァー仕様(上製本)
詳細:https://www.shinko-music.co.jp/info/20210129/

ザ・ビートルズ解散劇の裏側 メンバー4人の証言と映画『Get Back』が伝える新発見

ザ・ビートルズ 
『レット・イット・ビー』スペシャル・エディション
発売中
ユニバーサル・ミュージック公式ページ:https://sp.universal-music.co.jp/beatles/
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