DIY精神に立ち返った再出発
これは実際に起こった話だ。デイヴ・グロールがコーヒーショップに入ると、カウンターの若い店員が声をかけてきた。 「ねえ、あんたってニルヴァーナのデイヴ・グロールだよね?」。デイヴが「そうだ」と答えると、彼は最近の経験から「きっと嫌な展開になる」と身構えた。そして予想通り、事態は悪い方へと進んでいく。
「実はさ」と若者は続けた。「あのクソ野郎が自分の頭を吹き飛ばしたとき、本当に腹が立ったんだ」。まるで友達に打ち明けるように一拍置いて、「ここまで正直に言うつもりじゃなかったんだけど」と付け加えた。
──これで話は終わり。カート・コバーンが自ら命を断って以来、この世界中で誰もがその喪失について何かしら口にしてきた、ということを思い出させるエピソードだ。実際、この1年半で沈黙を守っていたのは、デイヴと元ニルヴァーナの盟友クリス・ノヴォセリックくらいだった。
「カウンターを飛び越えて、そいつを叩きのめしたりはしなかった。正直、半分くらいはそうしたかったけどね」と、デイヴは新しいバンド、フー・ファイターズのツアーバンの中で振り返る。 「でも受け流すしかない。もう二度と会うこともない相手だと思えばいいんだ。俺がどんな状況にあるか、理解してくれる人なんてほとんどいないし、理解してほしいとも思ってない。親切や理解、思いやりを期待することなんて滅多にないからね」。
「毎日カートのことを思い出すし、彼がいなくて寂しい」と、デイヴは言葉を選ぶように静かに付け加える。「その寂しさは確かにある。でも同時に、時間は流れ続けているし、俺自身も前に進まなきゃならない。






本記事が掲載されたRolling Stone US版の表紙
そして僕らは前に進んでいる。真っ暗で蒸し暑い夜、どこでもない場所の東のあたりを、時速およそ85マイル(約137km/h)で突っ走りながら。デイヴは人生の大半をバンの中で──ワシントンD.C.の高校を最後の学年の途中で辞めて以来、バンド仲間に囲まれて過ごしてきた。当時17歳だった彼は、ハードコア・レジェンドのScreamでドラムを叩くパンク少年だった。今では26歳(※1995年当時)、結婚した男であり、自分のバンドのシンガーとして、デンバーからミネアポリスまでハンドルを握るだけでなく、サポート・ミュージシャンからフロントマンへと舵を切ろうとしている。
フー・ファイターズ初のヘッドライナーとしてのクラブツアーは、意識的に徹底して質素なものだ。デイヴは必死に、人々に自分がただの普通の人間であり、非凡な出来事から立ち直ろうとしているだけだと伝えようとしている。彼は自分に最もなじみ深いDIY精神に立ち返り、何よりも静かに物事を進めている。ツアーバンの運転も自分の順番が来ればきちんとこなす。
自分をフロントマンとは思っていない
フー・ファイターズの音は、4人の怒れる若者の仕業のように聴こえるかもしれない──甲高いポップソング、フィードバックの渦、メロディアスなパンク賛歌。しかし実際には、デビュー作におけるデイヴの存在は、ナイン・インチ・ネイルズにおけるトレント・レズナー、あるいはUSAネットワークでリピート放送された『ウイングス』に等しい。アフガン・ウィッグスのグレッグ・デュリが1曲だけギターを加えたことを除けば、このアルバムは全編デイヴその人によるものだ。といっても権力に酔っていたわけではない。ただ単に、フー・ファイターズという実際のバンドが顔をそろえる前に、アルバムはすでに完成していたのだ。今ではもうその問題もなくなったので、ここでメンバーを紹介しておこう。デイヴの右側、助手席に座るのはパット・スメア。ジャームスの元ギタリストであり、ニルヴァーナの最後の瞬間に加入したメンバーだ。70年代後半、ジャームスはLAのパンクバンドとして初めて自分たちの音源をレコード化し、パットは西海岸のパンク革命を仕掛けた。その後ニルヴァーナでは、彼は自ら始めたことを最後までやり遂げたのだ。
あと一日か二日もすれば、パットは「Rolling Stoneの取材を受けるなんてクールじゃない」と言い張るだろう。
デイヴとパットの後方、タバコや雑誌、SF玩具やビタミンの瓶が散らかる中に潜んでいるのが、ベーシストのネイト・メンデルとドラマーのウィリアム・ゴールドスミス。彼らはかつてシアトルのバンド、サニー・デイ・リアル・エステイトを支えたメンバーだ。今後数日間、ネイトは『ジーザス・クライスト・スーパースター』のサウンドトラックを聴き、雑誌『Harpers』を読むのに時間を費やすことになる。一方のウィリアムは、デイヴのカメラを3度拝借し、自分のズボンを下ろしてペニスの写真を撮るだろう。
「ツアー中にゴルフをしているフーティー&ザ・ブロウフィッシュの写真を見るたびに、俺たちはちょっと違うんだなって思うよ」とデイヴは言う。とはいえ、彼が特に過激だったり、苦悩に満ちているわけではない。彼は世代で最もハードヒッティングなドラマーとして修業を積んだかもしれないが、その激しさは過酷な幼少期から来たものではなく、音楽への愛から生まれたものだと断言する。両親(彼が7歳のときに離婚した)とも仲が良いし、興奮すると声が思春期の驚きのように高くなる。デンバーでの休日には自分の洗濯物を片付け、義理の両親のことも大好きだ(次のツアーで彼らの家を訪れる際には、バンド仲間とバーベキューをする計画まで立てている)。
デイヴの唯一の悪癖は、バンドの人気の波を自ら操り、いかにも自然発生的に見せようとするところにあるようだ。草の根感を打ち出すため、フー・ファイターズは友人の寝室で行った樽生ビール付きのパーティー(バンドがビールを提供した)をデビューライブとした。
「もちろん、完全に自分たちの手を離れてしまう時もある」とデイヴは説明する。「でもニルヴァーナで多くのことを学んだ。必要以上に自分たちを売り込んで時間を浪費したくはないんだ。みんなに飽きられるだけじゃなく、自分たち自身もいずれ嫌気がさしてしまうからね」。
「おいおい、あの子、ステージの上で男にヤられたぞ」パット・スメアは足を組み、蛍光グリーンの爪で挟んだタバコを一服する。1940年代の映画女優のような大げさな仕草で細い煙を空中に吹き上げると、楽屋のソファに身を沈めた。「あの子はステージの上で、男とそのギターにヤられたんだ」。
およそ5分前、デンバーのステージ上で、フー・ファイターズは1時間にわたる迫力のシンガロングを叩きつけていた。バンドは飾り気のない様子でクラブに現れると、そのまま勢いよくステージに突入し、「Alone and Easy Target」「Ill Stick Around」「Floaty」「Big Me」といった曲を次々に披露した。子ども時代の甘いポップ、怒れるパンクに満ちた青春期、そしてその両者を和解させようとする大人時代から生まれた、旋律的カオスのフルセットだ。
1分後、パットが自分のギターをその少年に手渡すと、彼は弾き始めた。するとデイヴはその新しい”フー・ファイター”を熊のように抱きかかえ、連続して跳ねながら完全に宙に持ち上げ、二人のギターを歓喜のフィードバック・ドローンでぶつけ合った。それが終わると、興奮した少年は両手を掲げてクラウドにバク転で飛び込み、ショーは終了。デイヴは舞台を降りて楽屋に座り込み、汗を拭きながらタバコを吸う。「なんて楽しいんだ!」と声を張り上げる。「いますぐまたどこかで演奏したい!」。
明らかにデイヴは、バンドリーダーとして過ごす23時間よりも、ステージ上の1時間のほうに心地よさを感じている。バンドを導くという発想はまだ彼にとって馴染みがなく、自分がグループの中心ではないと自分自身に言い聞かせている。彼の言葉を聞いてみよう。「自分をフロントマンだなんてまったく思っていない。4人の中で、たぶん俺が一番カリスマ性がないよ」。
「黙る人間」になろうと決めた
デイヴが最も心地よく感じるのは、曲を録音しているときだ。19歳のころからそれを続けており、フー・ファイターズのデビューアルバムに収録された12曲は、過去6年間に彼が書いた30曲以上の中から選ばれたものだ。デンバーでの出来事を思い出しながら再びハイウェイを走るデイヴはこう語る。「みんな、これらの曲がカートの死の翌日から書かれたものだと思いたがるんだ。どうにかして関連づけたいんだろうね。4年前に書いた歌詞でずいぶん責められたこともある。例えば『Weenie Beanie』の〈one shot, nothing〉って一節を誤解されるかもしれないと思うと怖いよ。あれを書いたのは1991年なんだ。」
実際には、デビュー作の曲のうちカートの死後に書かれたのは3曲だけだ。「This Is a Call」「Oh, George」、そして「Ill Stick Around」。それらがすべてアルバムの中でも際立つ曲であることは、フー・ファイターズの未来に投資する理由として十分だ。そしてまた、それらがデイヴの心情を垣間見せるものであることは、彼がこのような問いかけに応じざるを得ない理由でもある。
「インタビューを受けようと思った唯一の理由は、『Ill Stick Around』で〈I dont owe you anything(俺はお前に借りなどない)〉と歌ったとき、それをカートについてだと誤解されるかもしれないと思ったからなんだ」とデイヴは言う。「そんなふうに思われたら、本当に胸が張り裂ける。そこが一番の恐怖だった。それ以外のことは些細でくだらない。録音しているときから、あれが自分にとって最も強い曲だとわかっていた。なぜなら本当に意味を込めて、感情を伴って書いた唯一の曲だったから」。
より説得力のある解釈は、この曲──〈How could it be Im the only one who sees your rehearsed insanity(なぜ俺だけがお前の仕組まれた狂気を見抜いているんだろう)〉や〈Ive been around all the pawns youve gagged and bound(お前が縛りつけ口を塞いだ駒どもの中で過ごしてきた)〉といった一節を含む──が、コートニー・ラヴについて歌われているというものだ。
「ただ単に、自分が侵害されたり奪われたりしたと感じる、とてもネガティブな曲なんだ」とデイヴは語り、コートニーという名前に直接触れることは避けた。では、特定の人物を念頭に置いているわけではない?と問われると、デイヴはにやりと笑い、「かもね」と答える。くぐもった笑い声を漏らすと、窓の外をじっと見つめ、バンの横を容赦なく叩きつける風と、果てしなく流れ続ける道を前に、黙り込んだ。
この1年、デイヴ・グロールを包んできたのは沈黙だった。しかしその沈黙を破るために、彼は一度たりともカートの死について語ろうとしない。「俺だってみんなと同じ疑問を抱いてるよ」と、この話題が出るとデイヴは言う。「ただ、質問に質問で答えることだけはしたくないんだ」──だが、それだけでは済まされない何かが、確かにそこにはある。
会話の中でのデイヴは温かく、オープンだ。フー・ファイターズのデビュー作は自分ひとりで録音したものだが、バンドメンバーには印税を平等に分配することを主張した。妻のジェニファー(フー・ファイターズのアルバムジャケット写真を撮影)には、手の届くところに電話があればほとんど必ず連絡を入れる。ライブ後には、バンの周りに群がるファンたちと延々と語り合って時間を過ごす(彼が9年生のときに学級委員長に選ばれたのも当然だろう)。ただ、どんなふうに質問されても、答えたくないことがあるのだ。
*
―ニルヴァーナの最後の頃はどんな感じだった?
「それについてはまったく話したくない」
―カートが亡くなる前に、彼と色々話す機会はあった?
「そのことも話したくない」
―カートのドラッグ問題がどれほど深刻だったか、気づいていた?
「うーん、それには答えたくない」
―コートニー・ラヴが誰よりもロックスターの役割を演じているのを見るのは奇妙に感じる?
「ふむ。そうだな……うん。これこそ、ずっと恐れていた瞬間だ」
*
ついにデイヴは、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。「人々がそれを知りたがるのはわかる。でも線を引かなきゃならないんだ」と彼は言う。「友人が亡くなった翌日に、American Journalが話を聞きたがって、ダイアン・ソイヤー(ジャーナリスト)がインタビューをしたいと言ってきて……」彼は一度言葉を切る。「もう本当に頭にきた。何もかもが神聖じゃなくなったことに。誰ひとり止まろうとしなかった。たった一日でも、一年でも、あるいはこの先ずっとでも、黙ってくれる人がいなかった。だから俺は、黙る人間になろうと決めたんだ」。
デイヴは語る代わりに姿を消し、家族やごく親しい友人たちに専念した。旅行に出かけ、ワシントンD.C.で母親と過ごし、時折ニルヴァーナのベーシスト、クリス・ノヴォセリックとも連絡を取り合った。
「クリスとは連絡を取り合って、一緒に会って話をして、お互いが大丈夫か確認し合っていた」とデイヴは言う。「やがて、ゆっくりとだけど、物事は少しずつ普通のペースに戻っていった。すべてが変わってしまったけど、その変化に慣れるには長い時間がかかるだろうね」。
初期メンバーたちとの出会い
広く流布した噂とは裏腹に、この時期にデイヴがパール・ジャムに加入することを考えた瞬間は一度もなかった。彼はサーストン・ムーア、グレッグ・デュリ、ドン・フレミング、マイク・ミルズ、デイヴ・パーナーらと共に、映画『バック・ビート』のサウンドトラックを録音するためのオールスター・バンドに参加した。また、トム・ペティとツアーを行い、真剣にハートブレイカーズの正式メンバーになることも考えた。
デイヴはバンの中で、指をほとんど触れ合うほど近づけて示しながら言う。「あとちょっとで加入するところだった。ものすごく楽しかったよ。でも本当に怖かった。『MTVアンプラグド』を観て、そこから俺を選んだんじゃないかって、それが一番怖かったんだ。リハーサルでは、本当にバンドの一員として扱ってくれた。すごく光栄だった。でも、26歳で”雇われドラマー”にはなりたくないと思ったんだ」。
デイヴがトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズに参加した時の映像
デイヴがフー・ファイターズのアルバム制作を始める準備ができていたことも大きかった。彼は友人で元ルームメイトのプロデューサー、バレット・ジョーンズと組み、過去6年間に二人でデモとして録りためてきた曲の数々を持ち込み、シアトルのスタジオに籠った。「ただ、やろうと決めたんだ。そろそろ何かを形にする時だと思ったからね」とデイヴは言う。「大げさに考えたわけじゃない。ただ、いつも通り、自分一人でどこまでできるかを試すエクササイズであり、解放でもあると感じていたんだ」。デイヴとバレットは1994年10月、わずか1週間でアルバム全体を完成させた。
「彼は1曲を40分くらいで仕上げてしまうんだ」と語るのは、デイヴとバレット以外で数少ないスタジオの同席者のひとり、グレッグ・デュリ。「完全に魅了されたよ。彼には完璧なタイム感があるから可能なんだ。まず完璧なドラムを録って、それを土台に作業を進めていく。ドラムを叩いたらすぐにベースを弾き、その上にギターを二層重ねて、最後に歌う。俺はただ彼が録音するのを見ていただけなんだが、彼が『弾いてみるか?』って聞いてきた。結局、椅子から立ち上がりもしなかったのに、彼がギターを手渡してきたんだ。」
『ハッピーデイズ』の複雑な伝承に詳しい人なら、なぜモークがリッチー・カニンガムに惹かれたのかをよく覚えているだろう。モークは、あまりに普通で退屈な人間を見つけ出すために地球へ送られた。オークの人々に、地球の暮らしがどれほど凡庸かを理解させるために。もしかすると、この地球外的な欲求に応えようとする試みなのかもしれない。フー・ファイターズのバンの周りには、いつも宇宙人来訪の亡霊のような気配が漂っている。バンド名そのものが、第二次世界大戦中にUFOを指すスラングだった。彼ら自身のレーベル(キャピトルと契約)は「ロズウェル」と名づけられており、1940年代に宇宙人が降り立ったとされるニューメキシコの町の名前から取られている。さらにデビューアルバムのジャケットには、バック・ロジャースの分解銃が描かれている。
実際、フー・ファイターズを生み出すのを助けたのは地球外的な存在だった。すなわち、主が介入し、ネイト・メンデルとウィリアム・ゴールドスミスが誘惑に陥ることなく、完璧なタイミングでバンドに加わるように導いたのだ。サニー・デイ・リアル・エステイトはSub Popからアルバムを1枚リリースし、2枚目を録音したところで、シンガーのジェレミー・イーニックが、いわゆる「深みに沈んだ」状態になった。「2カ月ほど誰とも話さずに自分の部屋に閉じこもっていて、出てきたときには”生まれ変わったクリスチャン”になってたんだ」とウィリアムは語る。「結局、彼は完全に怯えて辞めてしまった」。ちょうどその頃、デイヴはバンド仲間を探しており、彼の妻がネイトの婚約者と友人だった。残りの話は推して知るべしだ。1カ月後、ジェレミー・イーニックが考えを変えてサニー・デイ・リアル・エステイトを再結成しようとしたとき、ネイトとウィリアムはすでにフー・ファイターズのメンバーとして固まっていたのである。
パットは自分のバンド加入について語ろうとしない。しかし、彼がジャンクフードや下世話なセレブ雑誌、果てしないテレビ視聴、ヴィンテージギター、ボクシング雑誌を好むことはわかっている。1980年、ジャームスのシンガー、ダービー・クラッシュがヘロインで亡くなったあと、パットは映画やテレビのエキストラとして収入を得ていた。もし『白バイ野郎ジョン&パンチ』でパンチとジョンがパンクロッカーと揉めるシーンがあれば、パットがその仕掛け人だった可能性は高い。彼は1982年の映画『ブレードランナー』にも出演しており、さらに奇妙なことに、ドレッドヘアをなびかせてプリンスの「Raspberry Beret」のビデオにも登場している。そして最終的に、ニルヴァーナへ。
「ニルヴァーナではずっと、2人目のギタリストを探していたんだ」とデイヴは語る。「マッドハニーのスティーヴ・ターナー、メルヴィンズのバズ(・オズボーン)、ユージニアスのユージン(・ケリー)も候補に挙がった。そんなある日、リハーサルをしていたらカートが入ってきて、『ジャームスのパット・スメアが俺たちの2人目のギタリストになる』って言ったんだ。クリスも俺も彼に会ったことはなくて、太って刺青だらけでひねくれた老人みたいなのを想像していた。ところが実際にリハーサルに現れたパットは、とんでもなく新鮮で、その瞬間にすべてが一気に良くなったんだ」。
デイヴは、ソングライティングの過程で編集者のように機能する手腕と、バンの中で場を和ませるユーモアを提供できることから、パットをフー・ファイターズの不可欠な要素だと考えている。デイヴに、現在のバンドメンバーそれぞれについて評価してほしいと尋ねると、彼は少し間を置いて笑った。「うーん……パットは間違いなくこのショーのスターだね」とデイヴは言う。「彼がバンドの中心で、みんなが彼を慕っている」。彼はさらに続ける。「ウィリアムはいつも場を盛り上げてくれる。みんなの弟みたいな存在で、愛され、大事にされてる。ネイトは土台だ。堅実で落ち着いた知的なタイプなんだ」。
終わりではなく、始まりの道へ
このラインナップが固まると、バンドは3月にアルバムのミックス作業のためロサンゼルスへ向かい、事前に連絡を入れて地元のバーのイベントにこっそり出演することにした。
「これまでで一番の思い出だね」とデイヴは語る。「ステンシルを切り抜いて、古着屋で買ったシャツにスプレーしたんだ。フーターズのTシャツの上から俺たちのステンシルを吹きつけたりしてさ。それを3ドルで売った。俺たちは”the Unseen”っていうバンドの前座を務めたんだけど、彼らはてっきりすごいパンクロックバンドだと思ってたら、実際は17歳の子たちで組んだカバーバンドで、ジャムみたいな格好をして、頼めばどんな曲でも演奏できたんだ」。
「ただ飲んで踊っただけさ」とデイヴは言う。「本当に楽しかった。ルールもなければ期待もなかった」。
みんな待っている。場所はミネアポリスのバックステージ。ネイトは腰を下ろし、目を閉じてベースを弾いている。デイヴはその場で飛び跳ね、ウィリアムは下着姿になって腕を伸ばし、これから叩く準備をしている。問題は……パットの姿がどこにも見当たらないことだ。控室を確認するが、いない。クルーたちがクラブ中を走り回るが、見つからない。ようやくツアーマネージャーがバンドのホテルに電話をかけ、短く誰かと話したあと、目をぐるりと回した。図星だ。「すぐ来るよ」と電話を切りながら言う。「『刑事マトロック』を観てたんだ」。
しばらくして、パットはいつものアンティークの化粧ケースを手に、笑顔で薄汚れた部屋に入ってきた。怒る代わりに、フー・ファイターズの仲間たちは笑い出す。デイヴはパットの手をつかみ、そのままステージへと導いた。5秒後、全米の高齢者が『刑事マトロック』に見入っているその裏で、フー・ファイターズはセットを開始し、クラブは轟音に包まれた。
「このバンドには新鮮で刺激的な感覚があるんだ」とデイヴはライブ後に語る。「どこへ連れて行かれるのか正確にはわからない。その感覚こそが1991年の最高の瞬間のひとつだった。何が起こるかまったく予想できなかったんだ。『Nevermind』のツアーは、すべてが今にも爆発しそうな感じだった。毎日何度もパニック発作を起こしたよ。汗は止まらないし、心臓はバクバクして、座り込まなきゃならないほどの発作だった。狂気に手が届くほど近くにいながら、かろうじて踏みとどまっているあの感じが最高だったんだ」。彼は笑う。「ドラムの椅子に座るたびに、『今夜こそステージで倒れるんじゃないか』と思ってた。でもそれが全部おかしくて仕方なかった。本来ありえないことが、実際に起きたんだ」。そして一拍置いて続ける。「一番悲しいのは、それが二度と起こらないこと。でも最高なのは、それが一度は起きたってことなんだ」。
デイヴはクリス・ノヴォセリックもこの旅に誘うことを考えた──「話はしたんだ。でも結局、実現しなかった」──だが、元バンド仲間ふたりがかつてのリーダーの死の余波で栄光を得ようとするのは、不謹慎に映ったかもしれない。
「クリスと俺にとっては、すごく自然で素晴らしいことに思えただろう」とデイヴは言う。「でも他の人たちにとっては違和感があっただろうし、俺自身もすごく悪い立場に追い込まれてしまったと思う。そうなったら本当に顕微鏡で覗かれるように注目されるだろうね」。

デイヴ・グロール、1995年撮影(Photo by Niels van Iperen/Getty Images)
「おいウィリー、昨夜のことを聞かせろよ」
ミネアポリスでのライブの翌朝、パット・スメアの声が駐車場を横切って、バンへふらつきながら向かってくるドラマーに届く。酔っ払い特有の青白い顔つきで、何か武勇伝を語ろうとしている……いや、この場合は隠そうとしているのかもしれない。ウィリアムは席に滑り込み、話題をそらそうとする。「で、今日のドライブは何時間だ?」。
デイヴはハンドルを高速道路へと向け、バックミラーに目をやりながら、その質問を無視する。「ウィリアム、今日はちょっと気分悪いんじゃないのか?」。
「まあ、昨夜はちょっと大変だったよ」とウィリアムはついに口を開く。シートに身をよじらせて笑みを浮かべる。フー・ファイターズは特に放蕩な連中ではない(デイヴはほとんど酒を飲まず、パットに至っては一切たしなまない)。だがウィリアムの冒険──イェーガーマイスターで始まり、ホテルの中を全裸で歩きながらバケツを二つ抱えて終わる(その中身は絶対に知りたくない)──は、明らかに不足分を埋めようとする試みだった。
ここまでのところ、フー・ファイターズを巡る最大の論争は、アルバムジャケットに描かれた玩具の銃に対する批判だ。「大抵の人たちは、何か特定のものを指しているとは思っていない。ただ、俺があれを使ったこと自体が悪趣味だと言うんだ」とデイヴは語る。「でも俺にとってはただの玩具なんだ。何かと結びついているわけじゃない。俺は1940年代や50年代のチープな宇宙玩具が大好きでね。シンプルで飾り気のないジャケットにしたかっただけなんだ。最初は批判を浴びると思ったけど、『玩具だってみんなにちゃんとわかるようにすれば大丈夫だ』って言われた。なのに人々はそこにあれこれ意味を読み込んでくる。ふざけんなって感じだよ。」
シカゴの少し手前でバンが休憩のために停まり、クルー全員が降りてジャンクフードやソーダを買い込む。デイヴはハンドルの後ろから降りて足を伸ばし、ゆっくりと別のトラックストップへ歩いていく。一見すると、果てしない州間高速道路の真ん中で鉄の箱に身を隠しているように思えるかもしれない。だがデイヴは、音楽を常に「夢見た暮らしを実現するための代償」だと考えてきたと主張する。無作法なファンも含めて。「本当に俺がやっているのはこれだけだ。心から情熱を注げる唯一のことなんだ」と彼は言う。「自分のやっていることを人が楽しんでくれるのはうれしいよ」。
やがてバンは再び積み込まれ、旅の続きを走り出す。今度はネイトがドライバーの席に座り、デイヴはScream、ニルヴァーナ、そして今はフー・ファイターズの仲間と共有してきたおなじみのシートへと這うようにして戻り、体を横たえる。エンジンがかかり、一行は再び道へと戻っていく。終わりではなく、始まりの道へ。
From Rolling Stone US.
※編注:パット・スメア(Gt)とネイト・メンデル(Ba)は現在もフー・ファイターズに在籍。ウィリアム・ゴールドスミス(Dr)は1997年に脱退。クリス・シフレット(Gt)が1999年に加入。ラミ・ジャフィー(Key)は2005年からサポートを務め、2017年に正式加入。ドラムはテイラー・ホーキンスが2022年に死去した後、ジョシュ・フリーズが2023年に加入するも2025年5月に解雇され、同年7月にイラン・ルービンの参加が発表された。
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